中東地域の紛争概史

中東地域の紛争概史
第1部ではパレスチナをめぐる問題の原因と中東戦争について、第2部では中東戦争以降の紛争や今後の趨勢、過激派イスラム教徒について述べていきます。
目次

  1. パレスチナをめぐる問題の原因と結果
  2. レバノン紛争
  3. イラン・イラク戦争
  4. 湾岸戦争
  5. 中東地域の今後の趨勢
  6. 過激派イスラム教徒について

1. パレスチナをめぐる問題の原因と結果

中東と言われる地域のアラブ諸国は、19世紀末の頃はオスマントルコの緩やかな宗主権の下で、オスマン皇帝が任命した地方長官たる太守が治めていました。

第1次大戦でドイツに加担したトルコ帝国が解体され、第2次大戦終結までは、英国やフランス等の欧米諸国の保護国や委任統治領となり、各地に王国や太守国として存続していました。

第2次大戦後、日本やドイツは国際舞台から降ろされましたが、米国の援助により名目的に戦勝国になった英国、フランス、オランダ等の植民地大国も、アジアの地で実は日本軍に敗れ、本国もドイツ軍に勝てなかった事実があり、国際社会で影響力を大きく低下させました。

特にアジアで白人以外には生産も用兵も不可能と思われていた強力な艦艇、航空機、武器を日本が生産し、駆使してヨーロッパの軍隊を破った事実は、有色人種のご主人様という白人の権威を失わせました。

このことが、中東を含むアジア・アフリカの、その後の歴史に大きな影響を与えました。
白人の権威と支配力が低下すると、紛争を抑止したり、仲介したりする者がいなくなり慢性的な局地的紛争や不安定状態が長く続きます。

そういう雰囲気の中で民族自決、植民地独立の動きがアジア・アフリカで高まり、その一方でナチスのユダヤ人迫害に鑑み、ユダヤ人の国土建設に関する国際世論が興りました。

(1) 第1次中東戦争(独立戦争)

西暦70年、ユダ王国がローマに滅ぼされて国土を失ったユダヤ人は世界各地を放浪しながらユダヤ教の教義を守り、神の約束したカナンの地にユダヤ人の国の復活を信じて、民族のアイデンティティーを守り、他の民族と融合しなかったこともあり、各地で迫害され、特にナチスの迫害は過酷を極めました。
※パレスチナの歴史については中東情勢の根深い歴史-カナンの地パレスチナ地方ガザ地区の安定をご参照下さい。

しかし移民の国、米国ではアジア・アフリカ系に対するような差別や排斥がなく、多くのユダヤ人が移住し、芸術・化学等の文化の分野や経済・マスメディアの分野で米国社会に大きな貢献をし、特に巨大な経済力は米国の国家利益維持には無視できないものとなります。

第2次大戦後、在米ユダヤ人団体の要望もあり、米国は1945年11月、英国と合同でパレスチナ問題調査委員会を派遣しました。
1947年11月29日、国連総会は英国の委任統治下のパレスチナをアラブ地区、ユダヤ地区、エルサレム特別国際管理地区に3分割し、1948年10月1日までに実行する案を米ソを含む賛成33箇国、反対13、棄権10で可決しました。

1948年5月14日、英国の委任統治は終了し、イスラエル建国宣言が行われたその夜、ユダヤ人国家を認めないパレスチナのアラブ人と周辺のエジプト、シリア、ヨルダン等の諸国は14日夜のエジプト空軍機の侵入に続き、翌15日朝一斉に世界地図からイスラエルを抹消するための軍事行動を起こしました。

敗れれば国家を失い流浪の民に逆戻りする重大事態であるとイスラエルは老幼婦女子を問わず、死を決して迎え撃ちました。
その結果1949年2月の休戦協定成立時、ユダヤ地区の全域を確保したほかに、ヨルダン方面ではヨルダン川西岸の一部、エジプト方面ではガザ地区以外の地を占領し、シリア方面ではゴラン高原周辺以外の地を占領し、国連が当初ユダヤ地区に割当てた面積よりも約50%国土の面積を拡張しました。

ヨルダン、エジプト、シリアも休戦時確保していたアラブ地区から撤退しなかったので、アラブ地区はパレスチナから消滅し、イスラエル占領下に入ったパレスチナのアラブ人は、居住地を追われ、周辺のアラブ諸国に逃れて、パレスチナ難民となりました。
この戦いは第1次パレスチナ戦争又は独立戦争と呼ばれるもので、休戦協定後も第2次(スエズ戦争)、第3次(6日戦争)、第4次(10月戦争)と紛争が反復されました。

(2) 第2次中東戦争(スエズ戦争)

兵力で優位だったアラブの軍がイスラエルに敗れた原因は当時のエジプト国王ファルークらの腐敗した政府にあるとして、1952年7月23日エジプトの自由将校団により、エジプトは共和国となり、1954年4月、ナセル中佐が古参将軍たちを退役させた大統領となりました。

貧しい農民出身のナセルは、農民を豊かにするため、可耕地を造成するための水利を得るため、ナイル川の上流に巨大なダムの建設を計画しました。
アスワン・ハイダムというこのダムにより農民が豊かになると共に食料確保と電力確保により中産階層を増やすことを併せて考えたナセルは、ダム建設の膨大な資金調達を外国からの借款に求めました。

しかし、米国との交渉で資金供与の条件に、エジプトの財政や外交政策に深く介入する内容があり、民族主義者のナセルは拒否してスエズ運河の運航料の利用を決心し、1956年7月26日スエズ運河を国有化して運河収入をダム建設資金に充当することを明らかにしました。

当時スエズ運河は英国とフランスを大株主として、ロンドンに本社のあるスエズ運河管理会社の手中にあり、エジプトは土地の使用料として、運河収入の約7%を受領するだけで、莫大な収入は英国とフランスの手に入っており、エジプト国民はナセルの運河国有化宣言を狂喜して支持しました。

この事態に驚いた英仏両国は、「問題解決を国際会議にかけた上で、運河を国際管理して、収益をエジプトと折衷する」ことを提示しましたが、国有化宣言の後ではタイミングが遅過ぎ、エジプト国民の熱狂的支持の下で国有化は強行されました。

英仏両国は、国連で国際化をはかる一方で、アジア方面との物流に運河利用が不可能になることを恐れるイスラエルと秘密裏に武力を行使する手段を企図し、10月29日行動に移しました。
先ず、運河利用が不可能になることを恐れたイスラエルが「アジア方面との物流確保のため」シナイ半島に侵入し、運河地帯を占領しました。翌30日、英仏はエジプトとイスラエルに「休戦し運河の両岸から、夫々10マイル撤退し、エジプトは運河の通行を保障するため、英仏軍の運河地帯駐留を認めよ」という最後通牒を発しました。イスラエルはこれに従って軍を10マイル撤退させ、エジプトは拒否したので、英仏はそれを理由としてエジプトを空爆した後、空挺隊で運河地帯を占領して実質的に国有化を阻止する計画はシナリオ通り進みました。

ところが、米国やソ連を含む国連加盟諸国が英仏を非難し、英連邦諸国のオーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランドなどの主要構成国も批判に回りました。
10月31日から11月4日にかけて英仏の爆撃でエジプト軍は空軍を始め大損害を受けましたが、国際的に孤立した英仏は11月6日停戦し、15日に国連平和維持軍が紛争予防のためシナイ半島に入り、イスラエルとエジプトを引き離しました。

この戦いを機に中東地域の英仏の勢力は一掃され、ナセルは「戦争に負けて政治に勝った」と評されて中東における威信を高めました。アスワン・ハイダムもこの後建設され、「ナセル湖」と命名されました。

(3) 第3次中東戦争(6日戦争)

スエズ運河をめぐる戦いの後も、ヨルダン川、ガリレー湖、チベリアス湖などはアラブ・イスラエルの休戦ライン沿いにあるため、相互に水利をめぐる対立は絶えませんでした。休戦ラインはパレスチナのアラブ人地区にユダヤ人地区が食い込んだ新しい境界線でもあり、水路のつけかえなども、相互間に配慮の余地がなくヨルダン川の水利権をめぐり、武力による衝突や、水路の整備現場への爆撃、農民へのテロや報復テロも頻発していました。

イスラエルはアラブ人によるテロによって失われたイスラエル人の生命の2倍のアラブ人の生命を以て償わせる大量報復で応じていましたので、アルファタなどのパレスチナゲリラの活動が目立つヨルダン占領下のヨルダン川西岸への報復が目立ち、1966年11月にヨルダン占領下のヘブロン附近の村落に対する激しい報復には、国連安保理もこれを非難しました。

アラブ諸国でヨルダンの対応が甘いという批判も起こり、パレスチナゲリラは、アラブの大国エジプトが第3次対イスラエル戦争に立ち上がることを期待しましたが、ナセルは動きませんでした。
アラブ世界に権威のあるナセルを批判できないパレスチナゲリラはヨルダンの国境警備の怠慢に批判の矛先を向けました。
批判されたヨルダンは「スエズ戦争以後、シナイ地区の国際連合の平和維持軍に庇護されて、ヨルダン川西岸を犠牲にしてぬくぬくとしているのはエジプトとシリアだ」と反論しました。スエズ戦争以来のナセルの権威にかげりが生じ始めたと感じたエジプトが、行動の必要を感じたことを見てとり、ソ連が働きかけました。

イスラエルを背後で支援する米国に対抗して、アラブ側に接近することが目立っていたソ連は、ナセルに大型輸送機により、トルコ上空を高高度横断して武器を提供し、第3次中東戦争を煽動したと伝えられ、発覚すれば重大な国際法上の問題になったと思われますが、第3次中東戦争後にイスラエルが分捕ったエジプト軍の兵器の大半は、ソ連製でした。

ソ連の後ろ盾を得たナセルは1967年5月18日ガザ地区とシナイ半島の国連軍撤収を要請し、ウ・タソト国連事務総長は「パレスチナの戦火再燃の強い懸念」を示しつつ要請に応じました。
懸念どおり国連軍の空白を埋めるように、パレスチナゲリラが流入し、イスラエルはエジプト・シリア・ヨルダンの3方面をアラブの軍事力とゲリラに包囲され、独立戦争当時以上の局面を迎えました。

イスラエルは先制攻撃を決意し、1967年6月5日の朝、練習機を含む全航空機の約90%をエジプトの空軍基地に指向して大半を地上で破壊し、初日に空軍力の80%と地上の施設の大半を壊滅させて空軍の機能を奪い、ヨルダンとシリアの推測航法、地文・天文の航法能力が低く、地上の管制や誘導に依存するアラブの空軍力も初日で無力化しました。
制空権を確立したイスラエルは、地上戦でもエジプト軍戦車70%を破壊や捕獲で喪失させ、戦死1万1000、捕虜6000の損害を与えてシナイ半島全域を占領しました。
ヨルダン方面ではヨルダン川西岸全域を占領し、4万5000のヨルダン軍を壊滅させ、シリア方面でもシリア軍3万を壊滅させて、ゴラン高原全域を占領しました。

第3次中東戦争は6日で決着がついたので6日戦争とも称され大敗の責任を取ってナセルは大統領辞任を決意しましたが、自然発生的なエジプトの大群衆の辞任反対運動により、辞任は撤回されました。
以後、ナセルは従来の非同盟政策を放棄してソ連に接近しました。

(4) 第4次中東戦争(10月戦争)

ヨルダンはヨルダン川西岸のパレスチナ地区全域がイスラエルの占領下に入り、イスラエルとの戦いや報復テロが、東岸のヨルダン本国に及ぶことを恐れなければならなくなりました。ヨルダン国内の安定のためにも、パレスチナゲリラの組織を領内から駆逐するため、シリア・レバノン方面へ武力で追放し、パレスチナゲリラのPLOとの間が険悪となりました。

ナセルは両者の調停に努め協定を結ばせることに成功しましたが、その翌日過労のため急死し、サダトが後継大統領になりました。1970年にナセルの後継者となったサダトは、ナセルが米国のロジャース提案を受諾して対イスラエル軍事行動を控えていたのを継承していましたが、自らをナセルの権威に近づけるためシナイ半島の回復を計画しました。

1973年10月6日ヨム・キプールというユダヤ教の祭日の断食日にイスラエルを奇襲し、シリアが呼応しました。
イスラエルは最も強硬姿勢を取り続けていたシリアには備えていましたが、エジプトには虚を突かれ、数日間にわたり攻勢を許しました。しかしエジプト軍の補給線が伸び、空軍によるイスラエルの攻撃が砂漠地帯で有効に作用し、大軍の攻勢が鈍化しました。

そして10月10日以降イスラエルの反撃は、3個師団がスエズ運河を渡りスエズシティーを占領し、優勢な海軍、空軍と共に、シナイ半島に進攻したエジプト軍主力の後方を遮断し、砂漠地帯に孤立させて、形勢は逆転しました。急遽エジプトは緒戦に獲得した成功を失わない内に停戦し、シナイ半島の領土を回復し、4次にわたるイスラエルとの戦いで唯一「アラブの勝利」と喧伝されました。
10月に戦われたので「10月戦争」とも呼ばれています。

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