ベトナム戦争

ベトナムの近代史概観

インドシナ半島は、古来、中国人の支配や文化の影響を受け、一時期漢字が用いられ、また元号も用いられていた。
十二支は今も「牛」が「水牛」に、「兎」が「猫」に、「羊」が「山羊」に、そして「猪」が「豚」に変わっているが残っている。

必ずしも漢字がなくてもよい分野には、中国の影響が残っているのである。

箸を用いる日常にせよ、その服装にせよ、中国文化の圏内にあることは、否定できない。

だがその歴史は、中国に対するベトナム人の反抗の歴史でもあった。

ところが19世紀には、一足先に産業革命をなし遂げた欧米列強によるアジア・アフリカの分割が盛んとなり、東南アジアから西アジアにかけて、西欧諸国の蚕食が進んだ。

インドシナは、中国の属国のような形ではあったが、14世紀から18世紀にかけて、ランサン王朝が存在し、これが北部のルアンプラパン王朝と南部チャンパーサック王朝に分かれ、チャンパーサック王朝から更にビェンチャン王朝が分かれた。

これら王朝は、ベトナム、カンボジア、ラオスに、比較的最近まで存在しつづけた。

しかし、その実態は19世紀半ば以前は、中国の宗主権の下に属国として、そしてその後はフランスの支配する植民地として存在しつづけ、主権国家の姿は、そこにはなかったと言えよう。

フランスがインドシナ半島に侵略してきたのは1862年のことで、発端はキリスト教宣教師が殺害されたのが口実となったといわれる。

1862年のフランス侵攻の結果、サイゴン条約が締結され、コーチシナの一部がフランスに奪われた。
コーチシナというのは、中国支配当時のベトナムの南部地方を指し、交趾支那の文字を当てる。
メコン川下流域の低湿地帯の、いわゆるメコン・デルタ地帯に当り、緯度ではカンボジアの南側に位置する。
米作の中心地帯で、現在ホー・チ・ミン市と呼ばれるサイゴンが中心都市である。

インドシナ半島に進出の足がかりを得たフランスは、翌1863年には隣接するカンボジアを保護国とし、1867年にはコーチシナ全域を植民地とした。

1874年になると、フランスは第2サイゴン条約により、ベトナム中部にベトナム人が建てた安南国を保護国とした。
安南の名称は、唐の時代の「安南都護府」に由来するといわれ、歴史的には古くから中国の影響下にあった。

更に1883年、フランスはユエ条約で、ハノイを中心とする北部のトンキン地方に勢力を伸ばした。
フランスが中越国境に迫るにつれて、当時、中国の支配者であった清朝は、インドシナ半島の宗主権を主張し、フランスと衝突し、1884年から1885年にかけて、清仏戦争を戦い、敗れている。

この戦争を通じて、フランスはインドシナ半島の実質的な宗主権を獲得し1887年、「仏印連邦」を組織した。

そして1893年には、ラオスも保護国として支配下に入れ、インドシナ半島を完全に掌中に収めた。

当時のインドシナ半島の原住民は、近代的な主権国家の意識が十分に育っていなかったため、強力な軍隊を背景とするフランスの支配を受けると、急速に自分たちの「支配者であり、主人であるフランス人」を受け入れてしまった。

文化の面でも日常の慣習には、自然環境や仏教の影響が大きく前代のものも残ったが、漢字文化圏からローマ字文化圏への移行は急で、漢字の使用や元号の使用もローマ字と西暦に置き換えられ、十二支だけが残ったという。

人口の80パーセント以上は20世紀末においても仏教徒であるが、フランスの支配下においては、ヨーロッパ風の教育を受けて、クリスチャンに改宗した者が、支配者フランス人の下で、下士官役を果たした。

そのため、長い間、中国人と戦いを演じて、民族の独立を主張したことのある、ベトナム人も、フランスの軍事力への無力感と相俟っていつしか牙を抜かれ爪を抜かれて、ひたすら、温和しく自分達のご主人様であるフランス人に奉仕するようになった。

しかし、こういう状態を打破し、ベトナム人の手で統治する独立主権国家としてのベトナムを作ろうという民族主義者が少しずつ育っていた。

その力は微弱であり、民族意識を眠らされてしまっていたベトナム人の間に、なかなか民族国家樹立の雰囲気が醸成されずフランスの支配を脅かす存在にはならなかったが、1939年11月、民族主義者が多数参加していたベトナム共産党は「フランス勢力と残存する王朝を打倒して、インドシナ民主共和国を建設する」ことを決議した。

1940年9月日本軍のインドシナ進出という思いがけない事態に遭遇し、この決議に則った具体的行動は困難になったので、民族統一戦線を結成して、対日、対仏抗争を遊撃戦の形で、機に応じて行うことを改めて決議した。

当面はフランスを主たる敵として戦うこととされ、フランスへの抵抗の中で、人民解放軍の組織固めと、ベトミンの支配地域の拡大に努めた。

当時インドシナ半島にいた日本軍は、ドイツに降伏したフランスのヴィシー政府と日本政府の協定に基づき進駐したものであって、日本軍とフランス軍は1945年3月9日までは共存していたのであり、形の上ではレ・ドクー総督がインドシナ統治の最高責任者であった。

ただし1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦が行われ、ド・ゴール将軍は同年8月30日に、日本とヴィシー政府の間の約束の無効を宣言している。

そしてド・ゴールのシンパサイザーであった、レ・ドクー総督と駐留日本軍との間に冷ややかな関係がつづき、1945年になると、インドシナ半島のフランス当局は、日本軍の撤退を求める姿勢を示し始めた。

ところが日本軍は、太平洋方面の米軍の反攻が1944年夏以降激しさを増し、日本本土へ迫って来る状況下に、中国大陸やインドシナ半島に対する米軍の来攻も近いと判断し、インドシナにある「軍」を一元的に日本軍の指揮下に置く必要を感じ、フランス軍に対して、その要求を突きつけた。

1945年3月9日、日仏両軍は交戦し日本軍は1日ないし2日でハノイ、ランソン、ユエ、キニヨンでインドシナ駐在のフランス軍を制圧し、官公署と重要施設のすべてを接収して軍政を施いた。

3月11日、ベトナムに残存していた王朝の末裔バオダイは、日本の求めに応じてベトナム皇帝として独立を宣言し、ヤン・チョン・キム内閣が成立した。日本軍は6月に、コーチシナをベトナムに帰属させたが、原住民の軍隊は未組織であり、国立銀行も日本が押さえていた。

3月9日の日本軍によるフランス軍に対する軍事行動と、実質的に一晩でフランス軍を武装解除し、数10年にわたって「ベトナムの主人」として君臨しつづけたフランス人の支配をつぶしてしまった日本軍の力を目の前で見たベトナム人は中国と戦い続けた先祖の誇を改めて感じ、民族意識が覚醒された。

ホーチミンは、3月9日以後、急速にベトミンの組織を拡大させ、8月15日に日本が降伏すると、党全国大会を開き、独立国としてのベトナム民主共和国を樹立する決議を行った。
9月2日にはハノイで民主共和国の独立式典を催し、臨時政府成立を宣言した。

連合国は、ベトナムの日本軍の武装解除について、北緯16度をはさんで北部は中国の国民政府軍により、そして南部はイギリス軍の手によって行うことと役割分担を定めた。

ホーチミンは北部に在ってベトミンの指揮に当っていたが、中国軍はベトナム革命同盟会とベトナム国民党を伴って進駐してきた。
ホーチミンは中国軍駐留下に北部だけの総選挙を1946年1月に行い、ベトミンが圧勝した。

しかしホーチミンは中国国民政府軍が決して親共産党でないことを考慮して、中国軍が帯同してきた党派と手を組み、連立内閣を組織した。
1946年2月末、中仏間に協定が結ばれ、3月中には中国軍がベトナムから撤退した。

一方、南部では9月23日に英軍の手で武装解除が始まり、ホーチミンの南部ベトナムへの影響力が失われた。
既に8月30日にバオダイ皇帝は退位しており、同じ時期に高等弁務官にセディールが着任し、10月に入るとホーチミンと切り離された南部の人民委員と接触を始めた。

人民委員側はベトナム独立とホーチミンの指導する臨時政府承認を要求したが、セディールはフランスの主権を主張して、両者の交渉はまとまらなかった。

10月15日、ルクレール将軍の率いる軍隊が到着し、22日になると軍事行動を開始した。
フランス軍は10月25日には、早々と南部人民委員会の拠点ミトを陥落させ、1945年中にフランスは南部ベトナムの主要地域の大半をその手中に収めてしまった。

1946年3月5日には、南部に在った英軍が、完全に手を引いた。北部にいたホーチミンは、南部がフランス軍の手に帰したことを知ると、南部の大衆や抵抗組織に呼びかけ、フランス植民地主義を断罪し、南北全地域を挙げての支援を約束して、南進隊を編成し、資金や物資の供出に努めた。

南部は主要な地域や都市をフランス軍が押さえたというものの、ベトナム人の抵抗はつづき、1945年10月22日以降、翌年4月までにフランス兵約2200人が死亡したといわれる。

第2次大戦以前のベトナム人は、既に述べたとおり、獅子の前の仔羊のように温和しくフランス人にひれ伏し、従順であったといわれる。

しかしホーチミンの民族主義に覚醒した共産主義者らの抵抗活動に加えて、英国人、フランス人、オランダ人らの白人の軍隊が、アジア人の日本軍に敗れ、米国の助けを借りなければ、原状回復できなかったことにより、原住民らにとって、白人はもはや昔日の権威ある存在でなくなっていたこともベトナム人の粘り強い抵抗の起爆剤となっていた。

白人の権威が失われていたのは、インドネシアやマレーシア、ミャンマ(ビルマ)などでも同様であったが、英国は1941年8月の大西洋憲章でチャーチル・ルーズベルト間で、植民地をできるだけ早く、独立させることを宣言していたことのほかに時代の潮流が植民地支配を許さない方向に激しく動き始めたことを察知し、植民地を独立させて、権益を保つという方針を選択した。

それに反してインドネシアにおけるオランダとインドシナ半島におけるフランスは、あくまでも第2次大戦以前の原状回復を行い、白人による異民族支配の継続をはかった。だが、これは、拠って立つ思想的基盤はまったく異なるが、米国の哲学にもソ連の主義にも反するものであり、以後激しい原住民の抵抗に会い、米ソいずれからも実効ある支援を得られぬままに戦いつづけることとなる。

ベトナムにおいては、1946年春以降、フランスはベトミンとの泥沼のような戦いに徐々にはまり込み、1946年12月20日、ホーチミンは全面抵抗を呼びかけ、第1次インドシナ戦争が始まった。1954年6月成立したマンデラ・フランス内閣の手で、北緯17度線を南北境界線とする休戦が合意するまで、フランスは大きな犠牲を払うことになる。

休戦後の1954年10月10日、北ではベトミンがハノイに入り、南ではバオダイ皇帝がサイゴンに在って、ゴ・ディン・ジェム内閣が発足したが、ベトナムに本当の安定は訪れなかった。

ゴ・ディン・ジェム政権が腐敗して南ベトナムでゴ・ディン・ジェムの人望が失われてくると、北ベトナムでは秘かに南へオルグを送り込み、南を内乱状態に陥れた。

この状態を見て米国がベトナム問題に介入し、遂に北ベトナムや南に送り込まれたベトコンと米国の本格的な戦いが始まる。
いわゆる第2次インドシナ戦争であるが、1975年4月に北ベトナムが、南べトムを併合する形で終了した。

北緯17度線で南北に分断してから統一まで20年6箇月の歳月を要し、1946年12月20日の対仏全面抵抗から算えれば28年4箇月を要して、ベトナムは統一民族国家を作ることができた。

ホーチミンは既に、1969年に79歳で死去していたが、統一後のベトナムを担った彼の後継者たちの社会主義建設は、それから15年を経た1990年に到っても国民に物質的にも精神的にも豊かさをもたらすことができなかった。

それどころか、カンボジアの内紛に軍事介入して中国と対立し、中越国境で軍事衝突を引き起こすなどのこともあって経済的には、まったく停滞した状態が、1991年に入ってもつづき、絶望した人々が国外脱出する例が後を絶たなくなった。

第1次インドシナ戦争概観

1946年1月に、北ベトナムでホーチミンの指導下に連立内閣が組織され、3月には通語句軍が北部から撤退したが当時、フランスは南部の鎮圧に手こずっており、北部へ軍隊を輸送する余裕に乏しく、平和裏に駐留することが必要であった。

ホーチミン政権も、ベトナムにはレ・ドクー総督によるフランス統治時代から深刻な食糧不足がつづいていたので、平和裏に段階を踏んで、独立を達成することを希望していた。

そこで、中国軍の駐留下に、フランスとホーチミン市府の間に「3・6協定」が結ばれ、ベトミンによるベトナム民主共和国はフランス連合内にあってインドシナ連邦を構成する、一自由国であることを承認された。

そして北部・中部・南部の3地域の合併については、国民投票によるとされた。

「3・6協定」は暫定的な協定とされていたが、4月の初め、「補足軍事協定」により、フランスはベトミン軍を含むインドシナ軍の指揮権を持つが、1952年までに、基地の管理を除き、フランス軍は撤退することが約束された。

「3・6協定」に基づき、3月18日フランス軍はハノイに無血入城したので、ホーチミンは、直ちにコーチシナ問題について、「ベトナム・フランス合同委員会」の設置を要求したが、フランスは「コーチシナはフランス領である」と主張した。

そして3月26日、現役のフランス軍人を副主席にすえ、傀儡の主席に南部の経済をにぎる現地の人物を任命して、コーチシナ共和国臨時政府樹立を宣言した。

「補足軍事協定」締結後の4月18日、フランスは旧インドシナ連邦内の5箇国から10人ずつ代表を出して、連邦制国家を構成する提案を行った。

ベトミン側は「フランスは多数派を構成して、ベトミンを支配しようとしている」として、これを拒否した。
討議が何度も行われた後、1箇月後に会議は決裂し、フランスは一方的に、6月1日をもって、コーチシナ共和国を単独承認してしまった。

ベトミン側は5月末から開かれていたフォンテンブロー会議でフランスのこの行為を非難したが、フォンテンブロー会議も合意できず決裂してしまった。

しかし、まだフランスと本格的な戦いに入っていなかったホーチミンはフランスにとどまり、文化・経済の分野や民主的自由に関する事項について、暫定的な協定を結んだ。
これらの協定は「9・14協定」と称され、「3・6協定」と併せて、フランスとベトミンの今後が平和的な発展を遂げられるか否かの手がかりとなるものであった。

既に述べたように、フランス人がこの段階でインドシナ半島の情勢を正確に認識し、白人やヨーロッパの軍事力が、日本によって破られ、原住民に対して昔日の権威を失っていることを察知し、もっと謙虚に、力づくではなく経済的・文化的な手段をもって、ベトナム人と協力関係を進め、段階的に、しかし英国のように計画的に民族独立の方向へ政策を採っていれば、ベトナムの歴史は変わっていたかも知れない。

しかし、得てして当事者というのは、自分の周辺の状況や時の流れの勢と方向というものが分らない。
フランスがインドシナ半島で喪失した資産や経費の合計は2京3500兆フランにのぼるといわれるが、この大消耗の主因は、時の流れの方向と勢の判断を読み違えたところにある。

ベトミンとの間の「3・6協定」に次々と反し、ホーチミンらの期待を裏切りつづけたフランスは、9月に入るとトンキン弁務官がハイフォン港の関税権を接収して、ベトミンの財源を断ってしまった。

そして10月になると、ハイフォンへ軍隊を上陸させたので、ハイフォンやランソンで11月にフランスとベトミンの間で武力衝突が起こった。

つまり文化的、経済的協力を行い、民族自決の原則に沿ったベトミンとの協調をはかりその中でフランスの権益を確保するという、時の流れに即した手段を採るかわりに、ベトミンを経済的に封鎖し、武力を発動するという拳に出てしまった。

英国や米国が巧みに植民地を独立させて、民族問題を解決したのに比較して、フランスとオランダは、しばしば多くの血を流して、しかも権益を根こそぎ喪失する不幸な結果を招いた。

1946年11月8日、フランスの強力行使に対して、ベトミンは当初の妥協的姿勢を硬化させ、「民主共和国憲法」を制定して、ベトナムの北部、中部、南部は一体不可分の領土であり主権はベトナム国民の手にあることを宣言した。

これに対しフランス軍は11月23日、ハノイを奇襲し、海からは艦砲射撃により、沿岸に住む一般市民約6000人以上を殺傷したと伝えられた。

12月17日、フランス降下部隊がハノイを攻撃し、夜が訪れるとベトミンが反撃に出たが、12月20日には、ホーチミンが全面抵抗を呼びかけ、紅河デルタの都市部でも戦闘が始まった。

これに呼応して、南部の抵抗組織も軍事行動を起こした。

もはや「フランス連合内の一自由国」という雰囲気は消え去っていた。

しかしフランスは本国自体が第2次大戦の地上戦が行われ荒廃し、経済的困難にあえいでいた。しかも1947年になると、マダガスカルで反仏武装反乱が生起し、兵力に余裕がなくなった。
1947年3月当時、フランスは約7万5000人の兵員をベトナムに投入していたが、財政的にも兵力的にも苦しく、軍事的行動は鈍化しはじめた。

フランスは、香港に亡命していたバオダイを呼びもどしてベトナム皇帝に復活させ、1948年、フランス連合内の独立国とし、政治解決をはかった。
自治権を供与するという条件のもとに、コーチシナをベトナムに併合させ、形式上はバオダイ皇帝の下で、統一ベトナムの成立を認めるという「エリゼ―協定」を結んだ。

1949年1月、ベトミンは党中央幹部会で、「1948年を通じてベトミンとフランスのインドシナ半島における勢力は、均衡に達した」と認め、ゲリラの浸透と総反攻準備を決議した。

「3・6協定」も「9・14協定」も否定され、「フランスの全面撤退のみが問題を解決する」ことが宣言された。

1950年代初頭、ベトミンは山岳地帯を支配し、フランスは紅河デルタ地帯を支配していた。
1951年デルタ地帯の決戦を試みて失敗したベトミンは、デルタ地帯を包囲して、ゲリラで浸透する作戦をとった。
長大な防衛線を維持することを強要されたフランスは、経済的苦境に立った。

1949年度430億フラン、1950年度900億フラン、1951年度1530億フランとベトナム戦費は増大をつづけ、歳出の11パーセント弱に及ぶほどになった。

1949年から1951年末にかけて、約2万8000人のフランス人が死亡し、ディエンビェンフー陥落当時は、年間に戦死する将校の数がフランスのサンシール陸軍士官学校卒業生の数と、ほぼ同数に及んだという。

戦局打開のため、司令官の交代が頻繁に行われ、ある時はフランス陸軍参謀総長の現職にあった将軍を現地に送り込んで司令官としたが、戦況は好転しなかった。

当時、フランス陸軍で最も多くの勲章をもらった将軍といわれた、タッシーニ将軍も送り込まれ、一時的に、局地的勝利を得たが、大局は動かずタッシーニ将軍自身、足の傷の悪化で死去してしまうという一幕もあった。

1950年1月30日、ソ連はホーチミン政権を承認し、米国はこれに対抗してバオダイ政府を承認した。
米国は戦費の増大にあえぐフランスを支援するため、2月23日にインドシナ3国と「相互防衛協定」を締結し、1954年にはインドシナの戦費の約75パーセントを負担した。

しかし、ベトミンは民衆の間に浸透し、北部の実質的支配権を握り、大都市以外はフランス人の安全な場所は、ほとんど無くなってしまった。当然、フランス人の資産は次第に失われ、フランス本国の財政赤字が約20パーセントに及び、ベトナムの戦いはフランスにとって、利の薄いものになりはじめていた。

1953年夏から秋にかけて、フランス軍が一時的に勢力を盛り返したことがある。
フランスは、この機会にベトミンのラオスへの勢力拡大を阻み、ベトナム側とラオス側から、ベトミン軍を挟撃しようと企図した。

そして要衝ディエンビェンフーに、約1万2000人の軍隊を入れて要塞化した。人的損害が拡大するにつれて、フランス国民の間に戦争終結を望む声が強まり、勝ちを急ぐ必要もあった。

しかし結果は、ベトミン軍の50有余日に及ぶ重囲の下に、撃戦も空しくディエンビェンフーは、5月7日ベトミンの手に落ちた。

デルタ地帯のベトミン軍ゲリラも活発に行動を始め、フランスの勝利の見込みは、ほぼ無くなったという印象を世界に与えた。

1954年4月24日、国連安全保障理事会の5常任理事国とホーチミン政権代表を含むインドシナ3国がジュネーヴに参集し、インドシナ問題を議することとなった。
会議は1箇月間進展を見ないほど難航したが、6月に成立したフランスのマンデス=フランス内閣により、急進展を見た。

周恩来の調停とモロトフの提案により、北緯17度線を休戦ラインとして、ホーチミン政権とバオダイ皇帝の政権が対峙することとなった。

ここに、後に第1次インドシナ戦争と呼ばれる、フランスとベトミンの戦いは、フランスがインドシナから退く形で終了することとなった。

第2次インドシナ戦争の始まり

1954年7月21日、ジュネーヴ協定調印と9箇国宣言により、ジュネーヴ会議は終った。
2年後の7月に統一選挙を行って南北統一を達成するというのが協定の最重要点であった。

また、南北境界線とされた、北緯17度線は、この協定で「軍事境界線は暫定的なものであり、いかなる意味でも恒常的な政治的、領土的境界線と解されてはならないことを確認する」と最終宣言に明記された。

しかし、米国と当時ベトナムを代表するとされていた、南部のバオダイ政府は、この最終宣言に参加しなかった。
米国はジュネーヴ会議の最終日「協定の実施に反対するために、武力による威嚇を用いたりすることはしないが、協定には束縛されない」と宣言した。

米国は9月8日SEATOを成立させ東南アジアで反共体制を固める努力を示し、南ベトナムを、SEATOの適用される地域であるとして指定した。

1954年10月ゴ・ディン・ジェムが組閣したが、翌年10月バオダイ皇帝を廃止して、彼自身が大統領に就任した。

1955年6月、南北統一についての予備会談開催を、北ベトナムのファン・バン・ドン首相が、当時まだ首相であった南ベトナムのゴ・ディン・ジェム首相に申し入れを行った。

ゴ・ディン・ジェムはその4箇月後に、自分を1年前に首相に任命したバオダイ帝を昔日の恨みがあったとは言え、廃止して自ら大統領に就任するほどの野心家であったから、ジュネーヴ協定に従って統一選挙をするよりも、自分がベトナム全土の支配者になることを考えており、この北の申し入れを拒否してしまった。

ところが、北のホーチミン政権もまた、統一選挙をすれば自分たちが勝ち、全ベトナムの支配者になると自負し、また、その工作もしていた。

北緯17度線で休戦が決まった直後、北から多くの人が北緯17度線のやや南側に移住した事実が知られている。

そして、南北に分かれた直後は、商業活動が盛んで北よりも経済的に豊かだった南で、ゴ・ディン・ジェム政権が「カオダイ教」や「ハオハオ教」という、地場宗教と対立したり腐敗して大衆の信頼を失い、更に人工の80パーセント有余を占めると言われる仏教徒と対立するのを待っていたかのように、北の指示に従って活動を始めた。

共産主義者ではないが、ゴ・ディン・ジェムの腐敗ぶりや非民主的な政治を嫌うインテリや、一握りのキリスト教徒が、フランス時代に、フランスの下士官役として上流階級を独占し、これがそのまま休戦後の支配層へ移行したことに反発する多数派の仏教徒らが、北からのオルグの煽りに乗っていった。

やがて、南ベトナムは反政府活動が全国的に拡大する様相を見せはじめた。

しかし、ゴ・ディン・ジェム一族による腐敗はいっこうに収まらず、サイゴン等の都市部以外には、いたるところでベトコンと呼ばれる反政府集団が活発に行動をはじめた。

アイゼンハウアー大統領時代は、フランスがいくら軍事介入を要請しても、直接的な軍事介入を米国は回避して、約700人程度の軍事顧問を派遣しただけで、あとは経済支援のみであった。

アイゼンハウアーの行動や演説を観察すると、彼は軍事や人工衛星のような当時は直接日常生活に密接な関係のない分野への国費の支出を押さえ、消費経済を重視する傾向が見られる。

しかも陸軍参謀総長だったリッジウェー大将が、「若しベトナムに介入すると、最小限度5個師団、支援要員を含めて約50万人が必要」というレポートをアイゼンハウアーに提出し、軍事のプロフェッショナルとして、アイゼンハウアーは、直ちに了承し、決して軍事介入しなかった。

ところがアイゼンハウアーが大統領を2期務めたあと、ケネディーが選出されたが、ケネディーは若さと行動力が売り物の大統領であった。

そのケネディーが1961年1月に就任する数日前、フルシチョフが演説を行い、その中で「核戦争は共倒れを招来するので、勝者はなく通常戦争は核戦争へ発展する恐れがある」と戦争を否定しているが、その一方で「民族解放戦争は共産主義の目的推進に適切な手段である。正義の戦争として、ソ連の無条件かつ全面的支援を受けるであろう」とも述べている。

ケネディーはこの後者の方の論に刺激された。

1961年1月29日、ケネディー大統領は一般教書の中で次のように述べている。「ソ連と中国が世界支配の野望を捨てたと信じて安心してはならない。我々の任務は攻撃や破壊活動が、彼らの目的追求の上で有利な手段ではないことを、はっきり分からせることである」

ケネディーは迅速に行動し「反・反乱戦略」を唱えて、毛沢東やチェ・ゲバラを研究し、反ゲリラ戦についての研究や訓練の推進に努めた。

ケネディーは就任後、1年を経ずしてジュネーヴ協定にとらわれることなく、1万6000人の軍事顧問団を、ベトナムに送り込み直接米軍将校が戦闘指揮について助言を与え、中には戦死する者も出た。

1962年3月27日と4月1日のニューヨークタイムスは「1961年9月から、南ベトナム政府は、英国人顧問4人と米国人顧問のオズボーン及びシャード両大佐らが協議し、英国人顧問の意見を採用して、この戦略を立案した。
南ベトナム側の立案担当者は、バン・タンカオ准将で、本年初頭から反・反乱戦略の『旭日作戦』は練られていた。」と報じた。

米国はゲリラ戦の権威テーラー大将を、大統領顧問に任用し、後にテーラー大将は統合参謀本部議長に任命されている。
だがケネディーは軍事力の投入には慎重であった。

たとえば、1961年11月にテーラー大将と国務省のロストウが「ベトナム現状調査報告」で空軍の支援を得た1万人規模の地上軍派遣を要求したとき、特別付属文書の中で要求されていた地上戦闘部隊派遣と北爆は認めなかった。

しかし12月14日、ケネディー・ジェム公開書簡の交換により、ゴ・ディン・ジェム政権の内政改革を要求するという前提があったものの、米軍介入の道筋がつけられた。

1963年11月1日、ケネディーも了解の下に、南ベトナム軍のクーデターが起こり、ゴ・ディン・ジェム一族が追放された。
ところが11月22日には、ケネディーもダラスで暗殺された。

ケネディーは軍事顧問の数を、アイゼンハウアー当時の700人から、一挙に1万6000人に増やしたが、大局観と国際問題に対する感覚がすぐれており、当時、米国の軍事や外交にたずさわっていた人々の間には、ケネディーは決して野放図にベトナムに軍事介入して、泥沼にはまり込むことはないであろうという、安心感や信頼感があったといわれる。

ところが、ケネディーが死去したため、副大統領だったジョンソンが昇格して、偶然、米国大統領になった。

「アメリカの挫折」という、第2次ベトナム戦争について、安全保障担当の元米国務省国務次官補タウンゼント・フープスの著書の中に引用された、当時の高官の書信の中に、ジョンソンがこの時期、大統領に昇格したことについて「川船の船長が、突然大洋船路の巨大船の船長になったようなものだ」と評したものがある。

確かにジョンソンは、国内向けの施策や議会対策には長じていたが、外交や軍事については不得手であり、興味が湧かない分野であったと言われる。

彼は1964年末には、南ベトナムに派遣されていた軍事顧問の数を、1年間で1万6000人から2万1000人に増員した。

1964年8月から1965年3月にかけて生起した事象が、米軍の直接介入の原因になったと考えられているが、まず、8月2日にトンキン湾で、北ベトナムへの物資流入を阻止するため哨戒に当っていた、2隻の米国駆逐艦と北ベトナムの魚雷艇が交戦するという事件があった。

米海軍の砲力と艦載機により、北ベトナムの魚雷艇は反撃され、一方的に叩かれてしまった。

米国とベトナム双方ともこのトンキン湾事件発生の事実は認めているが、米国防総省がこの事件は公海上で発生したと、北ベトナムを批判しているのに対して、北ベトナム側は、米艦の領海侵犯があったと反論している。

しかし、船舶には原則として、外国の領海であっても無害航行権が認められているので、どちらによって戦闘の口火が切られたかが大切な、是非を問うポイントとなる。

この戦闘で、北ベトナム魚雷艇1隻沈没、2隻撃破という結果が出たが、米国側に損害はなかった。

8月7日、米国議会はこの事件に対して、いわゆる「トンキン湾決議」を可決し、ベトナム政策を大統領に一任した。

決議の骨子は武力行使を含むベトナム政策について、ジョンソン大統領に白紙委任状を与えるというものである。

決議では「ベトナム」の代わりに「SEATO加盟国」という表現となっているが、ベトナムは「SEATO」の条約調印時ベトナムをはじめインドシナ3国を条約適用地域に指定されていた。

上院で88対2、下院で416対0の圧倒的多数で本決議は議決されているので、米国は当初、挙国一致でベトナム軍事介入を決定したと言って過言ではない。

ジョンソンは大統領就任から4日目の1963年11月26日、ケネディーが拒否し続けてきた、北ベトナム攻撃計画を承認した。

この承認から約1年後の大統領選挙で圧勝し、正式に選挙の洗礼を経た大統領となり、かつ先述のとおり、議会の支持も受け、ジョンソンの足場を固めた。

1964年9月7日ホワイトハウスは前年11月26日の北ベトナム攻撃計画を実行に移すため、「北爆」の方針を決定し12月14日、米国は北部ラオスを秘密裏に爆撃した。

1964年8月7日の「トンキン湾決議」も「北爆」の方針決定も、8月2日の、「トンキン湾事件」と呼ばれる米駆逐艦とベトナム魚雷艇の間の衝突が、大きくかかわっていると考えられる。

国内で政治的足場を固めたジョンソンは以後ベトナム戦争介入の度合いを早めてゆく。

1965年1月9日、中国の毛沢東主席はエドガー・スノーに、「米軍が中国侵入の場合にだけ中国は戦うが、中国は国外へ派兵はしない」と述べている。
彼の言葉は朝鮮戦争当時のようなことは再現しないということを意味するものである。

2月7日、大統領命令により北爆が始まった。
2月25日には米国の要請で、韓国の猛虎師団の一部がサイゴンに到着した。

インドシナ紛争への米軍の介入は、4月2日には防御的なものから攻撃的なものへと性質が変化し、本格的な戦闘がつづくことになる。

第2次インドシナ戦争と米海軍

ベトナム戦争はアジア大陸の一角で戦われた地上戦が主体の戦いであった。

しかしメコン川の川口に発達したデルタ地帯には無数の水路が走っており、かつて第2次大戦以前から戦中にかけて揚子江沿岸で活躍した列国の砲艦や哨戒艇と同じ類の米軍舟艇が、各所に潜むゲリラの警戒や掃討に従事するため、内陸部の水路で作戦を行っている。

また、北ベトナムは重要な輸入物資の約80パーセントを、海上輸送に依存していたので、これを阻止するために、北ベトナム海域で哨戒任務に携わるほか、北ベトナムの重要拠点を艦載機が空襲したり、大口径砲による艦砲射撃を行ったりした。

一方ニクソン政権が米国の名誉ある撤退を計画していたにもかかわらず、北ベトナムがなかなか対応しようとしなかったので、米国は北ベトナムに対する機雷戦を発動して、極めて有効に北ベトナムをして、外交交渉のテーブルに着かせ、停戦に持ち込むことに成功した。

ここで、第2次インドシナ戦争における米海軍北ベトナムに対する作戦を概観することにする。

(1)トンキン湾事件

1964年8月2日、米国駆逐艦マドックス(DD731)が北ベトナム沖で偵察と南ベトナム海軍の沿岸攻撃の間接支援を行っていたところ、北ベトナム魚雷艇3隻が急接近して魚雷発射を行った。
マドックスは砲火をもって応戦すると共に、無線連絡で他の艦艇にもこのことを知らせ、タイゴンデロガの搭載機F4EクルーセーダがASMと20ミリ砲で魚雷艇1隻を損傷させた。

8月4日に第2次トンキン湾事件が、北ベトナムの距岸104キロの海上で生起したとロバートマクナマラ国防長官が米国議会に報告した。
(後に後に米国側の捏造と判明)
1964年8月17日のニューヨークタイムズ

マドックスには最新のミサイルを装備したターナー・ジョイが同行しており、320キロ離れた海面には、コンステレーションとタイゴンデロガの2空母が、マドックスとターナー・ジョイの方向へ航行中であった。
20時36分、マドックスは目標を探知し応援を求める信号を発したが、空母のレーダーにも正体不明の水上目標が映じた。両空母のジェット機が発進し、約800ノットの機速で現場へ急行した。
21時30分マドックスは、「50トン級と100トン級のソ連製魚雷艇と識別される目標が近づいてきた」
と報告しているが、当時のシー・ステートもウェザーも悪い状態で、目標の数の正確な把握は困難であった。

米国駆逐艦は連続的な魚雷攻撃を受け、そのうち最も近いもの数本が、両駆逐艦の舷側から30メートル程度の所をかすめた。両駆逐艦の砲撃により、魚雷艇1隻撃沈、支援の艦載機が更に1隻撃沈、1隻に損害を与えて撃退した。コンステレーション号坐乗のウェスト少将は北ベトナム魚雷艇の4箇所の基地の攻撃を実行に移した。

米軍はこの攻撃で2機を失い、戦死一人、捕虜一人を出した。一方戦果の方は、魚雷艇25隻撃沈、対空砲陣地7箇所を破壊しビン地区の燃料庫をほぼ全滅させた。ビン地区には、北ベトナムの石油の約10パーセントがあったという。このトンキン湾事件は偶発的なできごとに端を発しており、以後に引きつづいて行われた北爆を除き、少なくともここまでの対応は、現地指揮官の判断と裁量に拠って行われている。

ただ、ワシントンと現地の間の判断等に大きなギャップが生じないようにROE(Regulation of Engagement、交戦規定)が存在したであろうことは十分予想できる。

因みに、大規模に米軍が軍事力を発動し、本格的にベトコンや北ベトナムと戦いを始めた当時、明確なROEが定められていたことは、元防衛大学校陸上防衛学教授足立純夫氏の調査で、明らかにされている。

足立教授のインタビューした米軍当局者は「サイゴン司令部は、将兵の約3分の1にROEを徹底させること、そして2分の1には、かなりの程度に徹底させることに努めていた。パイロットには3箇月ごとにチェックを行い、必要な場合には再教育を行い、それでも不十分な場合は罷免した」と答えたという。

国際法と関わりを有する場所で行動する者には、ROEを具体的かつ理解しやすい形で明示することは必要不可欠な措置である。

なお米軍のROEの内容は、米軍の行動の限界がベトコンや北ベトナムに読まれる事を恐れ南ベトナム当局にも秘匿されていたという。

また米軍は実行上も、南ベトナム軍との連合作戦はほとんど行わなかったので、ROEを南ベトナムに知らせる必要もなかった。

ただ、北緯17度線以北の目標の攻撃については、目標の選定を含めてワシントンが直接統制し、17度線以南の地上戦の戦略は現地の軍司令官に大きな権限移譲を行うという大原則の下で、ROEは運用されていた。

つまり、北爆が拡大され、中ソとの間に軍事的対決を招く危険を回避するため北爆の統制は厳重に引き締め南ベトナム領域で地上戦を行う場合は、問題は予め、17度線以南に限定されているので、現地軍司令官の判断を大きく認め、その委任事項をワシントンはチェックしないという考え方である。

朝鮮戦争当時のマッカーサーとトルーマンの対立という経験の反省の上に立った考えであった。

(2) 海軍と北爆

ベトナム戦争における米国海軍の大きな作戦は、1965年4月から1968年3月末まで次第にその内容を強化しながら継続されたローリング・サンダー作戦とパリ会談と呼ばれる和平会議の難行と1972年3月30日、この会談難行のさなかにベトコンが軍事行動を起こしたことに対応して、再開されたラインバッカー作戦と呼ばれる北爆がある。

ア ローリング・サンダー作戦

艦載機による恒常的な北ベトナム空爆は1965年1月から始まった。
4月には空軍も加わって、北の港湾や石油精製所、橋、鉄道等に対する大規模な攻撃が始まった。

これをローリング・サンダー作戦と称する。

トンキン湾には、作戦の中心位置として、ヤンキー・ステーションが設定され、その地点には空母2隻が常時とどまって空母や機動任務部隊の行動の基点となった。

5月になると南のベトコンを対象とした、デルタ・ステーションがカムラン湾の南東100海里に設定され、空母1隻が常時行動していた。

4隻のうち3隻の空母が、この2地点にしばられる形となったので、第7艦隊は更に1空母を増派され5隻の空母が、ベトナム水域で作戦することとなった。

北爆は目標の選定をワシントンが直接統制して、米国は米国なりに慎重に行っていた。

当時の日本の報道機関や評論家の多くは「南ベトナムで反政府活動をしているベトコンは元来、共産主義者ではなく、南部の完全独立達成を願う民族主義者であったのに、米国の介入により彼らは共産主義のシンパサイザーになった」という論陣を張り、「米国の北爆は北に対する言いがかり」とする説が、日本の対米世論を批判的なものへ誘導していた。

しかし、米国介入の是非は別として、「ベトコンは北のオルグである」という米国の主張が正しかったことは1991年初めには、当時の北ベトナムの要人の証言や当時の北ベトナムが作成した記録映画等により、裏づけられている。

ローリング・サンダー作戦は、1965年4月から1968年3月末まで、爆撃の範囲と手段を次第に拡大しながらつづけられたが、ベトコンの活動は衰えず、米軍は泥沼のような戦いに苦しんだ。

1968年3月8日現在で、軍事介入以来の米軍の戦死と戦傷の合計が約13万7000人となり、朝鮮戦争当時を上回る状態となった。

米国の国内世論はジョンソン政権に強い批判を抱きはじめ、3月22日には、「援助軍司令官」のウェストモーランド将軍を召喚することが発表され、31日にはジョンソン大統領自らテレビに出演して「北爆の部分停止と次期大統領選不出馬」を明らかにすると共に、北ベトナムに和平会談を呼びかけた。

イ ラインバッカー作戦

パリー会談と呼ばれる和平会談は、ジョンソンの後を継いだ、ニクソン大統領の下で行われたが難行し、1972年3月30日にはベトコンが軍事行動を起こした。

ところが、このベトコンは戦車や重火器を装備し、服装も北ベトナム軍と同じであったので、北の正規軍が深く関わっていることは、ほぼ間違いのないところであった。

米国は、この大攻勢に呼応して、ラインバッカー作戦と呼ばれる、北爆を再開した。
主として艦載機により、攻撃目標を制限したものであったが、空軍のB-52は20トンもの爆弾を、一度に投下すると機体が急に軽くなり、機速が急激に高くなって揚力が増大するため、機体にとって危険なので爆弾をある程度の時間をかけて分散して投下しなければならず、弾着点が広い範囲にばらつくのに対し、艦載機は7トンから10トン程度の爆弾を、急降下爆撃で、正確に目標に集中できるメリットがあった。

ハイフォンやホンゲイ等の主要港湾には航空機雷も敷設され、輸入物資の80パーセント余りを海上輸送に依存していた北ベトナムに、機雷の効果は、かなり大きかったといわれる。

この作戦中に米国の大統領選挙があり、北爆は一時中断したが12月18日、再開され、6隻の空母と100機以上のB-52がグアム島とタイ領内の基地から参加し、ハノイとハイフォン附近を集中的に攻撃した。

最大規模のときは、1日に約5000トンの爆弾が投下されたが、本作戦中の米軍の損害も、157機を喪失し、捕虜は221人に及んだという。

しかし、ラインバッかー作戦中に行われた「機雷戦」が非常な効果を挙げ、戦略物資の入手が実質的に停止してしまった北ベトナムは1973年1月27日、「ベトナム和平協定」に調印した。

米軍は調印から2箇月後の3月に撤退を終ったが、1975年4月サイゴンが北ベトナムの手に落ち、1976年6月には、北が南を吸収する形で統一され、「ベトナム社会主義共和国」が発足した。

ベトナム戦争の総括

ベトナム戦争は、結果的には北ベトナムが南ベトナムを吸収して、南北を統一したためフランスも米国も、北の共産主義政権に敗れたことになる。

その原因は、
「南ベトナムに樹立されたゴ・ディン・ジェム政権が少数のキリスト教徒の手に握られ、しかも彼らが国民の85パーセントを占めるといわれる仏教徒を見下す態度を示し反感を買った」こと、「政権内部が腐敗し民心が離反し、インテリ層を中心に、北のマルクス主義の浸透を促進した」こと、「米国が軍事的クーデターまで利用して倒した非民主的な腐敗政権のゴ・ディン・ジェムの後に、軍事政権が何度もクーデターを重ねたが、遂に腐敗と無能から脱することのできない非民主的な政府しか、南ベトナムに作れなかった」
ことがまず目につくが、もっと大きな根の深い、次のような事情がある。

すなわち米国が主張する民主主義、自由、正義は、

  1. 全国民的合意の上に地位を確立した権威、たとえば英国のキングやクウィーンあるいは米国大統領のような存在によって、国民の精神的統合や国家として統一が保たれていること、
  2. 全国的に影響力のある政党が二つ以上存在し政治活動と言論の自由が確立していること、
  3. 権力の分立と政権交代のルールが確立し、議会制民主主義が定着していること、
  4. 教育が普及し、政府や官僚機構が十分機能しており、社会秩序が安定し、かつ国民が秩序や規律を守る意義を理解し、これを受容していること、
  5. 経済的基盤が、第1次産業依存型から脱却し、第2次産業や第3次産業へ労働人口の多くが移動する、いわゆる「社会的動員」という国際政治学の専門用語で表現される事象が十分行われたか、行い得るまでに成熟していること、
  6. 十分な金融や流通機構が機能していること

等の、諸条件が整備されて、初めて実現できるものである。

これら諸条件が整っている国を国際政治の専門用語で「硬性国家」と称し、「硬性度」が低い国を「軟性国家」と称するが、「軟性度」の高い国に、急激な資本の投下や近代化を強要すると、社会的動員の過程や民主化の過程で、大衆の反発を買い、抵抗を受け、何もしないよりも悪い結果を招き、以後悪循環を重ねて、混乱が混乱を呼び収拾がつかなくなる。

ベトナムにおける米国は、軟性国家の脱し切れていないこの地域の取り扱いに失敗したものと言えよう。

しかも大規模な軍事力を投入して戦う米国の姿は、自由や民主主義を守るというよりも、弱小な北ベトナムをいじめる大国のイメージを各国に与えたということを、当時米国の安全保障担当国務次官補だったタウンゼント・フープスも自著「アメリカの挫折」の中で述べている。

また、同じアジア地域における戦いであっても、アジア州、大洋州の諸国は、ベトナム戦争に対して、対日戦争や朝鮮戦争のときのような脅威を感じていなかった。

結局、米国は朝鮮戦争の時は、国際連合軍を編成し、国連旗の下で十分な大義名分を持って戦い、原状回復以上の成果を挙げることができたのに対し、ベトナムでは、国際世論から孤立し、実質的には単独で、しかも腐敗と無能によって大衆の支持を失った非民主的な軍事政権を、ただ単に反共であるという理由で助けつづけることとなった。

しかも、軍事政権自体が軍の中で不安定であり、次々と支配者が入れ替るという有様であった。

ニクソン大統領は、ベトナム戦争を収拾して、インドシナ半島から撤退したが、彼が最初に大統領に当選したあと、「グアム・ドクトリン」とも呼ばれるドクトリンを発表したが、それは要約すると次のようなものであった。

すなわち、

  1. 国の安全保障は一義的に、その責任は当事国にあること、
  2. 米国は条約上の義務は守ること、
  3. 米国の核の傘は米国の生存に必要な国には貸すこと、
  4. アジア大陸における問題に軍事的に関わることは回避し大陸周辺の島嶼にあって状況を見守り、必要なときに、必要な限度で介入すること

である。

アジア諸国の中でも、英連邦諸国は英国の海空軍力に国防の大きな部分を依存してきたが、英国が軍事費を節減するため、スエズ運河より東側の地域から軍事力を撤収したためマレーシアやシンガポールは、米国に期待するところが大きくなっていた。

ASEAN諸国には古くから中国人移住者、即ち華僑により、商業部門をはじめ、経済の重要な分野を握られていることから、反中国人あるいは中国警戒の心理が底流として存在するほか、ベトナム戦争終了後、米軍の遺棄した資材や廃材を利用し、あるいは南ベトナム軍から鹵獲(ろかく)した武器を利用して、強大な軍事力を形成したベトナムに対する脅迫感が、マレー系民族の諸国を中心に存在すると言われる。

こういうアジア諸国が、急激にアジア地域から米軍が撤退することについて不安や対米不信を呼び起さないように、注意深く徐々にではあったが、ニクソン大統領以後の米国は、アジア地域に展開していた軍事力を縮小する方向をたどるようになった。

特に大陸部からの撤兵予定の中に、朝鮮半島からの撤兵も計画されていたが、カーター大統領の後継大統領レーガン大統領が、強いアメリカを目指す外交政策に転じた影響もあり、朝鮮半島からの撤兵は中断されている。

しかし、米国が対外的な諸問題への軍事的取り組みが消極的になったことは否定できない。

逆に、インド洋やカムラン湾へのソ連軍の進出やアフリカ大陸へのソ連の肩入れは積極的になった。

インドシナ3国、アフガニスタンが共産化し、ラテン・アメリカやアフリカに社会主義政権が次々と樹立され、ソ連の軍事的、政治的な各地への進出が目立ち、表面的には世界は、とうとうとして、歴史的必然性をもって社会主義化へ向かって流れていくかに見えた。

だが、事実は社会主義計画経済は各地で、行き詰まりの兆候を見せはじめ、消費経済が悪化しつつあった。

ソ連は各地へ軍事援助や海外基地を維持するための、非生産的出費におる財政的圧迫を次第に感じるようになった。

だが、米国もまた、ベトナム戦争の大出費により、経済的に苦しい状態となり、日本の「円」や西ドイツの「マルク」の切り上げを求めざるを得ない状態となった。

そのため暫時、ソ連に有利に国際情勢が展開しつつあるかのような錯覚を抱いた者は、少なくなかった。

しかし、対外軍事援助費の増大と軍事基地の維持費の増大は、既に国内の経済に陰翳が生じ始めていたソ連の負担になり始めていたことは記述のとおりで、1980年代後半に、ソ連経済を危機的状態に追い込む下地を固め始めたのが、この時期であった。

ここで話を転じて、ベトナム戦における指揮の問題を瞥見してみる。

まず、2箇国以上の国の軍隊が連合あるいは同盟して、共通の目的を達成するために行う「連合作戦」の視点から見ることにする。

当時ベトナムには、南ベトナム軍を助けるために、韓国、ニュージーランド、タイ、オーストラリア、フィリッピンが軍隊を派遣していたが、台湾も31名の情報専門家を送り心理戦の指導に当り、スペインが医師7名を派していた。

ニュージーランドは約450名、オーストラリアは約8500人、タイは約1万人、フィリッピンが工兵約2000人を送ったが、一時期51万人にも及んだ米国の兵力と比較すると、いずれもあまりにも兵力は小さく、しかも治安維持のような任務に就くことが多かった。

唯一、韓国だけが約4万8000人の軍を送って、師団単位の作戦を展開できたと言われる。

これら諸国軍は、オーストラリアとニュージーランドを除くとロジスティックスは全面的に米軍の負担でなされ、国軍近代化を米国が支援するという約束の下での派兵であった。

もっとも米国に協力的だった韓国も、例外ではなく韓国軍の装備近代化の約束の下で、将兵の基本給与の支給以外の経費は、全面的に米国に依存したという。

米・韓・南ベトナムの3者の間の指揮関係は、それぞれが独立した指揮機能を維持し、相互間の問題は調整によって解決され、一つの高級司令部が統一して指揮するというのではなく、「共同関係による作戦」が行われた。

情報については、コンバインド・インテリジェンス・センターを設置し、一元的に情報の評価、分析、配布を行った。

韓国以外の援助軍派遣諸国の軍は、「在南ベトナム米軍」と「軍事行動協定」を結び、米軍司令官の運用統制を受けた。

朝鮮戦争のときは、国連安全保障理事会の決定に基づき、国際連合の旗の下に国際連合軍が編成され、一人の最高司令官の一元的指揮の下で連合作戦が行われ、韓国軍は米軍の指揮系統の中に組み込まれていた点が大きく異なる。

次に、「統合作戦」という見地から見ると各軍種を統合した指揮はあまり行われなかった。

一時、空軍が、海兵隊を含む陸海軍の航空機を、一元的に指揮しようとしたが、海軍が「海軍の航空機は艦隊の不可分の一部をなすものである」と主張し、海軍機に対する空軍の「統合指揮」は行われなかった。

なお連合作戦における指揮は、「一元的に統一指令部が指揮する」のがよいのか、「調整方式で各国の独立した司令部が共同作戦を行う」のがよいのかについては、論が分れるであろうが、1970年4月30日から6月28日まで行われた「カンボジア作戦」は、南ベトナム軍が米軍の一翼を担う形で、米軍の一元的統制下に行われ、僅少な損害で大きな効果を挙げ、米兵の死傷者と南ベトナム兵の死傷者の比率が1対2であったという。

これに対して1971年2月8日から3月末までにかけて行われた「ラオス作戦」は、進攻する南ベトナム軍に米軍が火力と輸送手段を提供するという事前調整に基づき行われ、結果は大失敗に終り米軍の死傷者1万人に対し、南ベトナム軍の死傷者35人という結果に終っている。

二つ以上の国家が、共に戦うとき、

  1. 驚異の種類と方向、
  2. 作戦の意義、目標、方針、
  3. 万一うまく行かないときの対応策

等について、信頼感の上に立った共通の認識が必要であり、特に苦境に立ったとき、これを目的を達成しつつ、切り抜けて作戦を成功に導くためには、以上3点は重要であろう。

カンボジア作戦とラオス作戦の結果は、指揮問題を考えるときの、重要な参考事例となり得るものと言ってよいであろう。

次にシビリアン・コントロールについて触れておく。

朝鮮戦争のとき、トルーマン大統領とマッカーサー元帥の確執と、マッカーサー元帥の解任というできごとに鑑み、ベトナムでは、北爆の際の目標設定、武器の選択、攻撃手段まで、ワシントンが強く統制する傾向があった。

重要な戦略的判断もコンピュータを駆使し、大企業経営の手法と同様な感覚で、マクナマラ国防長官が、プロの軍人よりも、国防総省の長官が自ら人選した、一握りの文官スタッフと相談して決定したと伝えられる。

そのため、統合参謀本部を始めとするワシントンにある米軍の中央機構の高級軍人の考えや判断と合致しないことも多く、結果としてベトナム現地では、少しずつ後手にまわる傾向や最善の対応ができないという不都合もあったといわれる。

ただし、米国の「文民統制」は、自由選挙で選ばれた大統領が広く人材を求めた結果に基づき、国務長官や国防長官等の各省長官を任命し、大統領や長官が「文民」として、軍を統制する。

各長官は大統領が自分を任命したのと同様に、広く局長以上の高級官吏にふさわしい人材を求めて、任命する。

ところが、各省庁間や局長以上の高級官吏のような、採用試験によらない任命職や統合参謀本部議長、陸軍及び空軍の参謀総長、海軍作戦部長らは、自由選挙で選ばれた上院議員の審査に合格する必要がある。

この上院の審査は極めて厳しい学位付与のための口述試験と検察尋問を併せた感じのものであり、情容赦のないものである。

米国はプラグマチズムの国であるから、ハーバードのような名門大学やプリンストンの高等研究所のような研究所と雖も、単にテキストを覚えて水ぶくれのようになった雑学の量や難解な数式の計算力よりも、「どのような問題意識を持ち、どのような大局観に立って、どのような具体案を練り、最終的にどう処理するか」という視点から「何をする能力を持っているか、そして何ができるか」をチェックする面接試験に比重が極めて重く置かれるという。

その目安として、それまでどのような活動をしてきたか、どのような人柄かの評価が重要な意味を持つという。

米国人の哲学には、このような手順を経て選ばれ、任命された人たちだけが、軍事のシビリアンコントロールに携わるのであって、試験だけで採用され、上院の審査を経ていない軍人や役人の手には、軍事はもちろん、国家の大事をまかせないという姿勢が明確に貫かれている。

因みに米国人は一般公務員のことを、パブリック・サーバントとも呼び、シビリアンというときは市民を代表して重要な決定をなす、大統領や任命職の人である。そしてシビリアンは、自分を任命した人と運命を共にするものとされている。

このように米国のシビリアン・コントロールには、できるだけ市民の意志が反映できるよう、「自由選挙で選ばれた大統領と上院議員」が深く関わり、見識ある任命職の人たちが、大統領や各長官を補佐しているのであって、システムとしては健全なものと言えよう。

コメントは受け付けていません。

このページの先頭へ