私の小さな戦史と史観(大戦の思い出)

 私は昭和13年10月下旬、満2歳の時に父の仕事の関係で中国大陸へ渡り、昭和20年の初めまで河北省や山西省のいくつかの都市で暮らしておりました。

清朝の首都だった北京をはじめ、隋を滅ぼして、唐王朝を興した武将李氏親子が勢力を養っていた山西省の太原や、北京と太原の間に位置し、中国の多くの革命の策源地に利用された河北省の石家荘、三国志の英雄関羽が劉備と知りあう前に塩を商っていた山西省の山奥にある、運城盆地の中心都市の運城などで、日本人幼稚園に通いはじめ、小学校(当時は国民学校)2年生の終わりまで過ごしました。

昭和18年の夏以降、太平洋方面の戦雲は急を告げ、秋には朝鮮半島と日本本土を結ぶ関釜連絡船が潜水艦に雷撃されて沈没し、多くの犠牲者が出たと言うニュースが伝えられたのは、太原の小学校1年生のときでした。

ヨーロッパでもこの前年の11月下旬からスターリングラードでドイツ軍が包囲されて、一大苦戦をしていましたが、この年の2月に全滅しました。

更に7月にはクルスクという所で、世界の戦いの歴史の中で、最も大規模な戦車同士の戦いが行われ、これでドイツはまったく攻勢を失い、2年後に首都ベルリンが陥落するまで押し捲られることになります。

また昭和18年4月には連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が、ブーゲンビル島の上空で戦死するなど、戦いの前途が容易なものでないことを暗示していました。

イタリアも地中海方面から攻められてシシリー島を奪われ、更に本土に上陸されて、9月には降伏し、逆に米英側について、日本やドイツの敵となる有様でした。

しかしまだ小学校1年生の私には戦況など何も分からず、日々を友達との遊びに費やしておりました。

そして昭和18年11月には、太原から更に山奥の盆地の南の隅に位置する運城の学校へ転校しました。
運城の市街を取り囲む城壁の南の門の外に広がる大きな塩池と呼ばれる塩水湖と大草原、更にその向こうにそびえる山の、そのまた向こうに黄河があると聞いていました。

昭和19年夏、第1次大戦後ドイツ領だった太平洋の島嶼群のうち、赤道以北のマーシャル、カロリン、マリアナ各群島は委任統治領として、日本の支配下に置かれていましたが、その地域に米軍が攻撃を仕掛けてきました。

内南洋と呼ばれていたこの地域は、日本本土にも近く、島を奪われたら、米国の戦略爆撃機B-29の日本本土空襲が可能となります。

当初日本本土への空襲は、中国の長沙や桂林から九州方面に対して行われていました。

しかし飛行機の約4分の1を撃墜され、桂林や長沙へは、日本の地上部隊が攻撃をかける等、中国からの空襲には何かと不都合もあったので、米国はサイパン島やテニアン島を占領し、太平洋方面から空襲することを計画し、7月から8月にかけて、この二つの島を奪いました。

此の頃になると太平洋では敵の潜水艦や飛行機の攻撃が激しく、資源を日本へ持ってくることも、工業製品や食料を前線へ送ることも困難になっていました。

そこで中国大陸経由で南方との補給線を結ぶ「大陸打通作戦」が計画され、行われました。
華北でもこれとの関わりで「侵攻作戦」や「河南作戦」が行われ、運城や太原の陸軍病院は一時講堂も廊下も後送されてくる傷病兵で溢れ、在留邦人の女性が布団作りに動員され、母も参加しました。

この頃になると、在留邦人の間に「本土が危ない」という噂がささやかれ、やがて本土にB-29の編隊が来襲したと言うニュースが伝えられるようになりました。

10月にはフィリッピンに敵が上陸し、ヨーロッパでもドイツは東方からソビエット軍に、イタリアやフランス方面から米英軍に攻められ、巨大な米国の工業力に裏付けられた、連合国の攻撃の輪が次第に絞られ、子供の目にも戦況が厳しくなってきていることが明らかになってきました。

私は心配になり、「玉砕が続いて日本の兵隊さんは戦争するのが嫌になるのではないか」と父に尋ねました。
父は陸軍の特務機関という特殊作戦や諜報活動に昭和の初めからずっとたずさわっており、毎日の大半を中国語で過ごす生活を約20年していましたが、「日本人はみんな天皇陛下のために死ぬんだ」と真剣な表情で答えました。

その数日後、関大尉(中佐)以下3機の海軍特別攻撃機が神風特攻隊として突入しました。
これを聞いて、私は「父の言ったことは本当だ。日本は大丈夫だ」と思い、以後終戦の日まで日本の勝利を疑うことは無くなりました。

年末になると、父に日本への転勤の命令が出ました。
「敵が本土に来たら、中国人の後方撹乱の手法を参考とし、米軍の後方を脅かし、本土決戦に寄与する」ことが任務だったようです。

昭和20年1月11日夜、生後60日の妹を含め、長男の私以下4人の子供と両親の一家6人が運城を出発しました。
このとき私たちを可愛がってくれた老王(ワンおじさん)は、日本へ行くと米軍が来る、自分が命がけで守るから中国に残れと泣いていましたが、老王は日本が敗れロシアやイギリスがまた来ることを本当に心配していました。

中国には共産党の組織が全土を掌握した1949年11月まで、軍閥と呼ばれる勢力が各地に存在し、土地と大衆を支配していました。

中央政府に対しては、自分の都合によって従属と反逆を繰り返し、軍閥同士も争ったり連合したりしていました。
勝手に税金を取ったり、軍閥の下級の兵隊たちが略奪したり、個人や交通機関を襲撃したりしますので、大概の場合、民衆には迷惑な存在です。

嘘のような話ですが、時々民衆が日本軍に助けを求めてくることもあり、特務機関が取締りを受け付ける窓口役を果たすことも多かったようです。

軍閥の頭目は自ら将軍や元帥を名乗り、これに公的な権威の裏付けをするため、中央政府や政党に賄賂を贈ったり、政府の軍に参加したりします。

日本の戦国時代の豪族と似ていますが、昭和20年1月17日の真夜中、私たちが乗っていた太原発北京行きの急行列車が、太原と陽泉という町の間で、共産党に従う八路軍という軍事組織に襲われました。

夜9時30分頃に列車が太原を出発し、乗客がスチームで暖まり、うとうとしはじめた暦の日付が変わる頃、列車が突然急停車し、乗客はその衝撃で座席に押し付けられました。

何が起きたのかわけが分からないところへ、間髪を入れずに凄まじい炸裂音が次々と起こりました。
私はまだ寝ぼけており、列車の天井からシャンデリアが落ちてきたのかと思いました。

その直後に車内の照明は消えましたが、父が「危ない!」と叫びながら家族を座席の間に押し込み、その上にかぶさりました。
照明が消える直前に、通路の反対側にいた中国人のグループが見えましたが、その中の一人が父の上にかぶさってきたらしく、「重い。下に子供がいる」、「かまわない」と、父と言い争うのが一瞬聞こえましたが、その後は、列車の外や屋根に固い重いものが落下しては炸裂する音だけが聞こえました。

寝ぼけていた私も少しずつ、はっきりしてきて、何か大変なことが起きているらしいことが分かってきました。
それまでにも交通機関が匪賊に襲われた話を何度も聞いていたので、ひょっとしたらと言う思いがちらっと頭をかすめましたが、まだピンと来ず頭を上げようとしては父に押さえつけられました。

そのうち、少し炸裂音が止みましたが、ほんの1~2分後には列車の中に、ぼとんと何か重いものが落ちて、転がるような音がしたと思うと、次の瞬間にものすごい爆発音が轟き、全身をエアハンマーで叩かれるような感じでした。そのうち硝煙の臭いとともに針を飲むような痛みが喉を突いてきました。

私は思わず起き上がろうとしましたが、「我慢するんだ! 敵が来たんだよ」と父に押さえつけられました。

おびえて激しく泣いていた、当時生後60日だった2番目の妹も煙に巻かれて失神したのか、おとなしくなっていました。

肺炎も起こさずに無事に育ったのは何よりでしたが、母はその時は死んでしまったと思ったそうです。

「敵が来た」と知ってさすがに私も、はっきりと事の重大さを悟り、足に掛けて寝ていた毛布の端を口にあてがってフィルター代わりにして、息をしましたが、これはかなり有効でした。

後で説明を受けたのですが、前半の炸裂音は迫撃砲によるもの、後半の炸裂音は砲撃の間に忍び寄ってきた敵が窓から放り込んだ手榴弾によるものらしいということでした。

父は「敵が砲撃してくる間は近づいてきても侵入してこない。手榴弾攻撃は侵入してくる前兆なので、手榴弾攻撃が一段落した僅かな隙に列車の外へ逃れよう」と機を狙っていたそうです。

私たちの1両後の車両は日本の軍人軍属とその家族の専用車で、私たちは切符の手配が遅れ、中国人の上流階級の人々と一緒の一等車に乗っていたのですが、軍人軍属専用車は最も激しい手榴弾攻撃を受けて、ほとんど全滅し、陸軍少佐の大隊長の地位にある人も命を失いました。

父は17年間の特務機関員の経験から、金持ちや地位のある者ほど匪賊に狙われるという判断がとっさに働き、列車の中を移動して、取り敢えず三等車に逃げ込みました。

途中で列車の通路や座席の間に大勢の人が寝ていて、非常に歩き難かったので、後で父にそのことを言うと、「あれは死んでいたのだ」とのことでした。

父の上にかぶさってきて喧嘩していた中国人も死んでいたそうで、父の外套に血糊がついていました。

一等車の出口付近の洗面所の前で、父が皆そろっているかチェックしたところ、母が遅れていました。

生後60日の妹をおぶって、ねんねこを羽織り、子供たちの魔法瓶を持ってきたので1~2分遅れたのですが、皆が気をもんでいる時、外の乗降口の辺りで稲妻のような光が走り、撃ち合う音がしました。

そこへ母が現れ、私たちは急いで連結器の上を渡って、隣の列車へ逃げ込みましたが、連結器を渡るとき、再び稲妻のような光が走り、たった今、自分たちが歩いてきた列車の中からも爆発音が轟きました。

これも後で分かったのですが、一旦外に出た軍属の人が、忘れ物を取りに戻ってきたとき、列車に侵入しようとしていた敵と鉢合わせしてピストルを撃ち合い、「列車の中に武器を持った者がいる」と、敵がとどめの手榴弾を放り込んできた、その間隙を縫うように私たちは何事もなく、三等車の方へ移動していったということのようです。

撃ち合った軍属の人は、右胸部貫通銃創を負い、救出された後、陽泉という駅で会いましたが、元気は良く、陸軍病院で回復したそうです。

一分か二分私たちが早く洗面所を通り抜けていたら敵と鉢合わせをしており、逆に1~2分遅かったら手榴弾で一家がなぎ倒されていたところです。

三等車に移り、入り口付近の座席に座り様子を見ていたところ、反対側の入り口からカンテラを提げた一団が入ってきて、略奪を始め、中国人女性の悲鳴や男の、ののしり合う声が上がりました。

我々はこっそり席を立ち列車の外へ逃れると、列車は高い土手の上に停車しており、土手の下の方に大勢の中国人が動き回っているのが見えました。

「便衣隊は軍隊の服を着ていないから、敵か味方か分からない。絶対に日本語をしゃべるな」と父は私たちに言い、まだ2歳半の弟と5歳の妹には「声を出したり泣いたりすると、怖いおじさんたちが人さらいに来るから、絶対に声を出すな」と言い含め、大人の膝まで積もった雪の中を、こっそり移動して、4~5メートルの高さの崖の上に上り、身を潜めました。

このとき、私と父は靴を失い靴下だけでした。
華北ではこの時期、日中でも氷点下12~13℃ですが寒さは感じませんでした。

「日本の兵隊さんが必ず助けに来るから、ここで待っていよう」と父は言っていたのですが、しばらくすると、大勢の中国人が「老百姓(ロウ・パイシン)」と言いながら崖を上って集まってきました。

老は年長者に対する親しみを込めた敬称として用いられ、「老王(王オジサン)」などと言い、百姓は「ひゃくせい」即ち庶民、大衆の意味で八路軍の合言葉でもあります。我々の目の前で雪の上に座って、彼らが小休止を始めたので、父は「場所を変えよう。迫撃砲の筒もあるし、合言葉も敵のものだ」と言い、こっそりと崖の反対側に滑り降り、列車の見える位置まで移動しました。

闇に慣れた目で見ると大勢の中国人の男女が崖の下に隠れ列車の方を見ていました。我々の後ろから若い日本人の男女がトランクを下げてやって来て、私たちを認めると傍に身を潜めました。

約3~4時間過ぎた頃、北京の方向から列車のテールライトが近づいてきて、サーチライトを照らしながら、機銃による威嚇射撃を行いました。

サーチライトの光芒の中を便衣隊の敵兵が逃げ回り、その後を日本の兵隊が追いかけて行きました。敵が退却したのを確認すると、日本軍は列車の近くに集合して、点呼を始めました。

父は「日本の兵隊さんらしいけれども、もう少し様子を見よう」と言いましたが、やがて呼び合う姓名や階級や会話の内容からも、もう出て行っても大丈夫と判断し、私たちは列車の方へ近づいて行きました。

こういう場合、嬉しがって不用意に飛び出すと、敵と間違えられて撃たれることがあるそうです。
私たちも列車に近づくうちに見咎められ、迫力のある大声で誰何されました。ここでためらっていたらまた撃たれます。

私たちが大声で「日本人です」と叫ぶと、誰何の声は急に穏やかになり、「早くこっちへ戻って来なさい」と言いました。

すると、まわり中で人の気配がし、隠れていた避難者たちが日本人と言わず、中国人と言わず、夜が明けかけた暗がりから現れ、列車の方へ戻り始めました。

私たちは取りあえず3等車の座席で一息つき、父は荷物を見てくると、一人で席を立って行きました。

暫くすると外から父の呼ぶ声がし、妙に辺りが明るくなり、黒い煙が流れ込んできました。
私たちが呼ばれるままに外へ出ようとすると、周囲にいた中国人たちが異変を感じて総立ちとなり、一瞬にしてパニック状態となりました。

2歳半の弟は押されて、列車のステップを起き上がり小法師のように転がって転落しましたが、父が下で抱き上げ、かすり傷ですみました。
外が真昼のように明るいので、見ると最後尾の軍人専用車が燃えて、窓から炎を吹き上げていました。

乗客は列車の停まっている土手から雪の上を滑り降りて避難しましたが、列車の火災は火の手を強めながら、前部の車両に燃え移り、吹き上げる炎は凄まじく恐怖心を覚えました。
不発弾や一部の荷物の炸裂音が轟き、避難した人たちの中には敵が逆襲してきたと思って、パニックに陥り、走りまわる人が多く見られました。

このままでは列車は全部焼け落ちてしまうと思われましたが、そこへ、装甲列車から呼ばれて、太原へ列車を連れ帰るために、駆けつけてきた機関車が到着しました。

救援の日本の兵隊は片手に銃を持ちながら、てきぱきと燃えさかる列車を、まだ燃えていない列車から切り離し、救援に駆けつけてきた機関車で引き離し延焼を防ぎました。

列車の屋根が焼け落ち、激しく火の粉を天に吹き上げましたが、延焼の恐れがなくなったので、避難していた人たちが列車に戻り始めました。

火災の熱で雪が溶けて、土手の急斜面は滑って上りにくく、私が四つん這いになったとき、「さあ、引っ張ってやろう」と、日本人の男性が私の手を引いてくれました。

照明も暖房もない暗い車内で、とりあえず太原へ引き返すため席に座っていると、近くの座席の中国人がお菓子を差し入れてくれました。

やがて日本の兵隊さんが「小さい子供はいませんか」と言いながら、車内に入ってきて、私たちを装甲列車で陽泉まで送ってくれることになりました。

装甲列車に乗り移るため私たちは外に出ましたが、列車と一緒に一切の荷物が燃えてしまった上、靴も母以外は失っていました。

私が氷点下の中を素足で歩き始めると、若い兵隊さんが私の前に身をかがめ「さあ、負ぶってあげよう」と背中を貸してくれました。救助された婦人や子供たちは、翌朝8時頃、陽泉に着きました。

陽泉の特務機関に父の知り合いの人が何人かおり、駅から電話を掛けると、すぐ一人の人が「びっくりしたよ!」と駆けつけて来ました。
当時としては珍しく長髪で色の白い、俳優を思わせる人でした。

特務機関は敵地へ入り、敵の兵隊や要人の集まる食堂で、敵の兵隊と隣り合わせで食事をしたりすることも多いので、平生は私服で、他の会社の仕事をしたり、自分で事業や商売を営み、世間に軍の一員だと知られないように心がけている人もいて、軍人らしくない人が大勢いました。

「隠密同心、心得の条」を地で行く人が沢山おり、駱駝引き実は少尉、人力車夫実は大尉などもいたようです。

私たちは荷物をすべて失いましたが、太原を出発する前夜、母が家族全員の下着に、所持金の大半を縫いこんでおりましたから、お金は残っていましたので、改めて身支度が出来ました。
父はそんな必要はないと、母と言い争いながら縫いこまれていました。
父は避難のドサクサで財布ごとお金を失い、縫い付けてよかったと、母に対して一言もありませんでした。

生後60日の妹のおむつも焼けてしまいましたが、兵隊さんたちが私物の浴衣などを提供してくれ、母がムツキに仕立てました。

帰国の旅のスケジュールは完全に狂い、北京には予定より約4~5日遅れて到着しました。
北京では帰国後の軍の勤務についての調整で、さらに3~4日滞在が長引き、1月20日頃には東京に着く予定だったのが、北京から釜山行きの急行列車に乗ったのは、1月30日の朝5時半頃でした。

北京から釜山に行くためには、車中で2回夜を明かします。2日目の朝6時頃釜山に着いて、待っていた関釜連絡船で約9時間かけて、下関に向かうと言うスケジュールが普通です。

ところが、山海関で万里の長城をくぐり、当時の満州国の領域に入った後で、列車が野原で長く停まったり、後戻りして寒村の小駅に停まったり、不規則な動きが目立ち始め、関釜連絡船で出発しているはずの時間になっても、列車は未だ朝鮮半島に辿り着けずにいました。

鴨緑江(おうりょくこう)の鉄橋を渡ったとき、大河を海と間違えた車内の子供たちは「海だ」と騒ぎました。中国の内陸で、大草原の東の地平線から日が昇り、西の地平線へ日が沈む景色を見て育った私は海を見たいと憧れていたので、川だと分かってがっかりしました。

国境の川を渡り終わって5~6分経った頃、車掌がまわってきて汽車が約14時間遅れていることを告げました。
しかし、大陸生活になじんだ乗客は「ウワァ」と声を上げ、あとは大笑いをして、誰も腹を立てませんでした。

その夜21時過ぎに釜山駅に着いた私たちは、駅で案内された旅館に泊まり、翌朝4時に起き、港へ行きました。

「敵潜水艦を避け、恐怖の海を祖国へ!」

帰国の予定がゲリラにより、10日も遅れましたが、「敵の襲撃に遭遇して、軍内部の手続き等で日程が遅れたもので、交通機関の利用等では配慮を得たい」という、陽泉や北京の特務機関長の陸軍大佐発行証明書のお陰で、北京ではお米や味噌、醤油などを北京市から支給してもらったり、期限切れの切符を使って旅を続けることが出来ました。

しかし、連絡船の乗船窓口の係員は勝手に遅れたのだから、改めて手続きをやり直して切符を買えの一点張りでした。恐らく鉄道などは陸軍が管轄し、船舶は海軍が管轄していたために、こういうことになったのだと思います。

物見遊山の旅とは違い、軍の転勤であり、特務機関員の特殊な立場を明かすことも出来ず、やむを得ず父は憲兵隊にスケジュールの相談をしました。

すぐ憲兵の将校が軍刀を吊って駆けつけ、父と挨拶を交わすと、真っ直ぐに窓口の係員の所へ行き、かなり激しく、机を両手で叩きながら、ものを言い、係員が一言言われるたびに「はい」「はい」と大きくうなずいて、恐れ入っている様子が、ガラス越しに見えました。

憲兵が出てくると、父は憲兵の後を追いかけて、挨拶を交わしていましたが、係員はかなり慌てた様子で、私たちを見つけると走ってきて母に「ご主人はどこにいますか」と尋ねました。

そして辺りを見回して父を探しているところに、父が戻って来ると、「早く来てください」と父の腕を引っ張るように窓口のある部屋へ連れて行き、父の出す書類に判を押しました。

私たちは目の前の大きな建物を思わせる7000トンの興安丸に乗り込み、7時頃予定通り、出港しました。

出港して間もなく、船の担当者が来て、敵潜水艦の攻撃があったときの注意事項や心構えの指導を行いました。そして一度上甲板への避難訓練が行われました。

小学校低学年以下の幼児は保護者が守って逃げてくれということなのか、私たち一家6人にライフジャケット2個だけ配られました。そして冬の海の厳しさについて説明があり、極力着込み靴下なども履いて、避難するようにと注意がありました。

私の両親は、ライフジャケットの装着を誰にするか迷った末、「長男ですでに2年生になっていた私が身に着け、父と行動を共にする。もう一つは軍の転勤で内地へ帰るのだから、父が着ける。軍の転勤はつまり陛下のご命令で行うのだから、私情で死ぬことは許されない」という母の決定に従うことになりました。

妹や弟は母が連れてお釈迦様のところへ行くから心配ないということになりましたが、明るい調子であっけらかんとして、そういう母の言葉に、私は「死」を感じることもなく万事うまくいくのだと、すっかり安心してしまいました。

この「お釈迦様のところへ行く」こと即ち「死ぬ」ことと分かったのはこのときから10年も経ってからでした。

連絡船の前方を海軍の艦艇が一隻ジグザグ運動をして前駆哨戒をし、上空にはフロウトのついた、いわゆる下駄履きの飛行機が旋回して警戒に当たっていました。

そして連絡船には20人近い水兵さんを階級の若い士官が指揮して乗り込み、船の最後尾の甲板に小さな砲が搭載してありました。
しかしこれだけでも私たちには大変頼もしく、精神的安定には非常に役立ちました。

私は食事などで必要なとき以外は、9時間の航程の大半を甲板上で船の進む方向を見て過ごしました。

幼い日の僅かな断片的な記憶しかありませんが、「憧れの祖国を見るまでは、死にたくない」と思う気持ちが一杯で甲板上の時を過ごしました。

午後になり、暫くして、遠くに薄く灰色の何かが見えるような気がしました。

じっと見ていると、山の形であることが分かってきました。甲板上の会話で九州の山だと言うことも分かりました。

灰色は次第に青みを帯び、やがて緑色の山がはっきりしてきました。

その頃には護衛の海軍の艦艇も航空機も姿はありませんでしたが、下関港の港に入ってくると、目の前に内地の木の影がはっきりと見え、いたるところに小さな船がいて、日本に帰ってきたのだと実感しました。

全身がしびれるような感じで、自然に涙がにじんできましたが、この時の感情を感激と言うのだと思います。

「祖国に帰り、終戦の日の思い」

私たちが日本に帰り着いたのは昭和20年の2月1日でした。その後、戦況はますます悪化し、まだ広い地域を我が軍は占領していましたが、海軍は水上艦艇の主要なものを、ほとんど失い、残った艦艇も燃料がなくて動けず、占領地域への補給は途絶え、本土は孤立してしまいました。

2月19日には敵米兵が硫黄島に上陸しました。

栗林中将麾下の日本軍約2万は、よくこれを迎え撃ち、敵軍艦400隻と艦載機多数の間断ない攻撃下で、敵に死傷2万8680人うち戦死6800人及び海軍特攻機21機による空母サラトガほか4隻沈没等の損害を与え、玉砕しました。

4月1日には沖縄本島にも敵が上陸してきました。

沖縄島民の献身もあり、アメリカ軍に与えた損害は米軍司令官バックナー中将以下1万2280名が戦死し、760機の航空機と36隻の艦艇を失わせ、沈没寸前まで損傷した空母2隻を含む368隻の艦艇に大損傷を与えました。

日本も島民の死者約10万人、軍人の戦死6万5千人を出し、6月24日に組織的な戦いが終わりました。

私は大言壮語したり精神論をぶつこともなく、ドイツのような、優れた兵器を作ることの必要を「勝つために」という作文に書いたりするので、一人の女先生以外は、私を「愛国少年」とは考えていなかったようです。

しかし私は国を思う少年で、決して降伏することなど考えていませんでした。

命ある限り、尽くすつもりでいましたので、来るべき本土決戦では、戦死した兵隊さんの手榴弾を貰ってでも頑張るつもりでした。

だから8月15日の玉音放送の後、負けたことを父から知らされた時、私は涙をこぼしました。

徳川慶喜が大政奉還を決意した時、数人の幕臣が「戦えば戦えるのに、上様は戦わずに徳川幕府を滅ぼしてしまわれた。お恨み申上げます」「お恨みに存じます」と泣きながら城外へ走り去って行ったと言いますが、それは昭和天皇に対する、終戦の日の私の気持ちと同じでした。

私は後年、自分の仕事から戦前の帝国憲法を研究する機会があり、また近代以後の戦史や国際法の事例研究をする機会もあり、昭和天皇には敬愛の念を抱くことこそあれ、戦争責任を問うことは無理だと思っています。

しかし、終戦の日は「なぜ本土決戦を回避して、降伏するのですか。なぜ戦いをおやめになるのですか。お恨みもうしあげます」と思ったのです。

今になれば、「ご聖断」が正しかったことは明らかで、一人の昭和天皇を持っていた日本と一人のヒットラーやムッソリーニを持っていたドイツやイタリアとを比較すれば分かることです。

これを以って、私の子供の時代の体験に基づく、「私の小さな戦史」を一先ず終わらせたいと思いますが、戦後の日本の社会に漂う不健全な歴史観について、一言触れておきたいと思います。

「第二次大戦の歴史について」

あの戦争は日本が東南アジアや中国を侵略するために起こしたとされています。

しかし、現在の国連安保理事会のすべての諸国を、一挙に敵にまわす戦いを、求めているような人は間違っても、一国の首相や外相にはなれません。

特に世界の陸地の四分の一を持つ大英帝国と日本の100倍の富を持ち世界の鉄の44%を生産し、日本の20倍の国土を持つ米国を同時に敵にする戦いに突入するには、相当の理由があります。

当時白人以外の国で、独立を保っていたのは、日本、中国、タイの3カ国で、中でも白人と対等に付き合っていたのは日本だけでした。

非西洋国家で唯一、近代化と工業化に成功し、非白人国家で唯一の完全独立を保っていた国は日本だけで、中国は至るところにヨーロッパの権益が入り込み、半植民地状態、タイはヨーロッパの諸勢力が抜け駆けを牽制し合う中で、辛うじて独立している状況でした。

そして1929年から約3年間吹き荒れた、世界大恐慌の際、ヨーロッパやアメリカは自国の勢力の及ぶ地域から他国の経済的活動を締め出して、本国の経済的利益をはかる、「ブロック経済政策」を採用しました。

植民地の少ない国は、大変なことになり、日本も東京帝国大学を出た人でも就職先が無くなる大不況となりました。

そして日本は「日本・満州ブロック」を作ることを考え、イタリアはエチオピア併合を、ドイツはオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドの西半分を勢力下に置こうとして、ついに第二次大戦になりました。

日本のやろうとしたことは、「他人が泥棒したから、自分も盗む」という論理で、とても正当化することは出来ません。

ただ、一言釈明させてもらうなら、東南アジアやアフリカは、日本が攻めて行く前から、ヨーロッパに侵略されており、日本は正当な貿易や移住をさせて貰えない状況にあったということです。

この点は日本が真珠湾に行く4ヶ月前に、米国のルーズベルトがチャーチルに対して「現在のドイツと英国の戦争は、先ずドイツが悪い。しかし、第一次大戦後、ドイツに植民地を放棄させておきながら、自分たちは植民地を整理しようとしなかった、英国やフランスにも責任の一半がある」と指摘しています。

第二次大戦後、米国の力を借りなければ、英国もオランダもフランスも日本軍に圧倒され、勝てなかった事実を見た、アジア諸国の各民族は、犠牲を払いながら、ヨーロッパと戦い、植民地から解放され、日本は自由貿易の恩恵に浴しています。

日本の敗戦後に、インドネシアが戦って、15万人の生命を失いながらオランダから独立し、ビルマやインドシナも、大きな犠牲を払ったことを、我々は忘れてはなりません。

独立や平和はただではなかったということです。

「大戦後59年、終戦の日に思う」

戦後、「古事記」や「日本書紀」は嘘で固められており、明治維新以降の近代日本の歴史は汚れているという、非常に自虐的な考え方が、続いていました。

しかし、道路建設などで、今までに無く日本全土で広範囲に埋蔵文化の調査が行われた結果、「記紀」の記述は非常に正確で、矛盾したことでも無理に整合性を持たせようとせず分かっていることだけを、素直に作為の無い記述をしていることも、分かってきました。

また近年、東南アジアや西アジアでは日本に謝罪を求める雰囲気は減って、逆にヨーロッパによる侵略と独立戦争時のヨーロッパの行為を批判する声が出てきております。

平成になり、天皇・皇后両陛下が訪英されましたとき、在郷軍人の一部が騒ぎましたが、ブレア首相は「あの時期に、なぜアジアで英軍が日本と戦ったのか。結局は植民地の異民族支配の為に英軍がアジアにいたということではないのか」と諌めました。

ユックリだが変わってきているのです。

戦後60年が経過し、第二次大戦を戦った人たちは、敵味方の別なく一番若年の少年兵だった人たちも70代の後半になっており、すぐ後に続いていた私たちの世代も、還暦を過ぎ、第二、第三の人生を送っております。

白紙の状態で第二次大戦を見られる戦後世代が60代になっていますが、私の目には、著しく国家観に欠け、軍事に無知な人が多いのが気になります。

こういう人たちは、国際政治に的確な判断や評価が出来ず、小学生の作文なら褒められるかも知れないが、国際的には無意味で抽象的な綺麗事を言うだけで、平和への貢献は皆無だと思います。

軍の階級を知らないに事欠いて、中佐と少尉、軍曹と中尉のどちらが上か、巡洋艦と駆潜艇のどちらが大型で、どういう機能を持つか知らない60歳を知っていますが、こういう人に戦争や平和を論ずることは出来ないはずです。

我々はこういう社会思潮の是正に努めなければならないと思います。

(完)

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