第2次世界大戦

第1次世界大戦後の1920年から1921年にかけて、世界経済はヨーロッパが疲れてしまいちょっとした不景気に見舞われた。
大戦中に膨張した主要各国の軍備を維持管理することは、各国に非生産的分野における多額の出費を強いることになる。

そのような時、米国大統領ハーディングの呼びかけで1921年から1922年にわたって開かれたワシントン会議は、世界史の上に大きな意義を持つ。
第2次大戦についてこのワシントン会議の頃から述べることにする。

1 ワシントン会議

ワシントン会議は、「海軍軍備の縮小」、「太平洋と極東に関する問題」等を審議することを目的とするものであった。

海軍軍縮に関しては、当時の世界における主要な海軍国、日・米・英・仏・伊の諸国間で討議の結果この5箇国は、現に保有する主力艦を削減するとともに、向こう10年間主力艦を新造しないことを約した。

5箇国間の主力艦の保有し得る総頓数の比率は、米英を10とすると日本が6、仏伊が3.5と取り決められた。当時、二国海軍主義に拠って世界最大の海軍力を誇っていた英国に対して米国がパリティを認めさせたことは、極めて意義が大きい。

先に述べたように1920年から1921年にかけての大戦後不況が、英国の財政を圧迫し米国の主張を、認めさせることになったと言えよう。
一方、日本は対米6割の比率を認められて、西部太平洋、アジア大陸周縁部水域で制海権を得た。

しかしワシントン会議のもう一つの主題であった「太平洋と極東の問題」では、米国の外交主張に大幅に名をなさしめた。

すなわち、日・米・英・仏・伊・中・白(ベルギー)・葡(ポルトガル)・蘭(オランダ)の九箇国の間で「九箇国条約」が締結された。

この条約は「中国の独立と領土保全」、「中国に関して門戸開放主義を尊重する」ことを約したものであるが19世紀末以来、米国が唱えてきた対中国外交の基本原則を、諸国に承認させたものである。

さらに米・英・日・仏の四箇国の間で「四箇国条約」が締結され、「四箇国が太平洋方面の属領に関する権利を相互に尊重する」ことを約束した。

この条約により米国は、日本に対して、フィリッピンの安全を確保するとともに、日英同盟はこの条約の締結によって、存在意義を失ったものとして廃棄させ、日本と英国間の絆を断った。

日英同盟廃棄に際して英国の態度は、「日露戦争の際に、英国は陰に陽に日本を支援し、ロシアの行動を妨害してきたが、第1次大戦において日本は対英軍事協力において、自国本位の消極的姿勢が目立つ頼りない同盟国」であったとして、あまり日英同盟廃棄を惜しむ感情はなかったと伝えられている。

また、ワシントン会議を機に、米国は英国と共に、日中間で山東問題を商議させ、「対華二十一箇条」によって日本が獲得したものの大半を放棄せしめている。

この時期を機に、米英間、米中間の親密さが増して行くのに対し、日米間、日英間、日中間が離れていく傾向を示し始めた。

2 大恐慌とブロック経済

1929年にウォール街の株価大暴落をきっかけに全世界に不況の嵐が吹きまくる。

当時を青壮年期に体験した人々は、今も思い出すと悪夢にうなされる感じだという。

東京帝国大学を卒業した人々に就職先がなく、倉庫番の口を見つけた者が羨ましがられたというほど凄まじい不況であった。

ところが当時のヨーロッパは19世紀末以来アジア・アフリカ全域をほとんど分割して植民地にしていた。
例えば、1900年当時、アフリカの90.4パーセント、アジアの56.6パーセント、ポリネシアの98.9パーセント、大洋州の100パーセントが植民地化されていた。

アジアは一見して植民地化されている地域が少ないように見えるがソ連極東部や中国が広大な面積を占めているためで、西アジアや東南アジアはタイを除く全域が欧米の植民地になっていた。

そして西欧諸国は宗主国を中心に、自国の植民地を集めて経済圏を構成する、いわゆる「ブロック経済」の時代に突入した。米国は当初ヨーロッパのこのやり方に反発していたが、ヨーロッパのブロック経済に対抗して南北アメリカ大陸の大半をもって「汎米経済ブロック」を構成した。

ここに世界は、大英帝国の版図の大半は英国ポンドを通貨とするいわゆる「スターリング圏」として、フランス植民地は「フランス連合圏」としてブロック化される等、植民地を持たないか、持っていても市場として不十分なものしか持たない日本、ドイツ、あるいはイタリーのような諸国は世界貿易からはじき出され経済的孤立により苦境に立った。

日本はアジア地域でまだ欧米の植民地になっていない、満州や中国本部への進出を企図し「日満経済ブロック」を構成しようとするが、ヨーロッパではドイツでヒットラー率いるナチスが台頭し、1933年に政権に就き、人間が生きるために必要な空間を「生存圏」として要求し植民地の再配分を主張するようになった。

イタリーもまた、米国の移民を制限する方針に加えて市場としての価値の乏しい僅かばかりの不毛の植民地を北アフリカに持っていただけなので、経済的に大変苦境に立たされ1922年来、ファシスタ党の政権が樹立され、やがてエチオピアに侵攻し、これを併合する。

世界的経済恐慌は、ブロック経済を招来し、その結果、工業国間に市場をめぐる深刻な対立を引き起こした。

3 第2次大戦の勃発

アジアでは中国大陸をめぐり日本が盛んに軍事行動を起こし、アフリカではエチオピアに対するイタリアの侵攻、ヨーロッパ大陸ではフランコがモロッコから兵を興してスペイン戦争を始め、30箇月に及ぶ戦いの後に人民戦線の政府が1939年3月に倒れる等、世界は非常に不安定な状態となった。

ドイツも1933年政権の座に就いたヒットラーが、ヒンデンブルグが死去すると、総統の座に就き、ナチス党の党首として、政治権力の全てを握る権力者の地位だけでなく、国家の元首としての地位に就く等、権力や権威を一手に掌握し独裁者としての足場を固めた。

そして1938年3月15日にはヴェルサイユ条約とサン・ジェルマン条約を無視してオーストリアとドイツを合併したが、ズデーテン地方のドイツ人が虐げられているという理由で、チェッコスロバキアにこの地方のドイツ編入を要求した。

英国のチェンバレン首相は、1938年9月29日フランスやイタリアの代表にドイツ代表を併せてミュンヘン会議を開き、ドイツの要求を受容した「ミュンヘン協定」と呼ばれる「英仏独伊四国協定」を結んだ。

ドイツは10月1日にはズデーテン地方に軍事進駐を行い、翌年の3月15日にはチェッコスロバキアの全土を併合してしまった。

第1次大戦に敗れ、ヴェルサイユ条約下で、いろいろと軍備に制約を受けていたドイツがどこで軍事的基礎を磨いていたのかについて、ふれておきたい。

1922年ドイツとソ連はジュノア付近のラパロでドイツ外相ラテナウとソ連外相チチェリンが会談し、ラパロ条約を結んだ。この条約の中でドイツが赤軍の整備強化のため、軍事指導者をソ連へ派することが定められていた。

ドイツは、この規定をフルに活用し、軍事上の教育訓練や戦術の経験を積み、武器の研究、取扱について慣熟する等の機会を得ていたのである。

チェッコスロバキア全土の併合という事態に到って、さすがに、英国とフランスはこれ以上ヒットラーを宥和策で甘やかしてはならないと気がついた。
チャーチルは早くから対独宥和政策を批判し、厳しい態度をとるべきであると主張していたが、チェンバレンらの気付くのが少し遅きに失した。

英仏はポーランド、ギリシャ、ルーマニアなどに対独安全保障を約したが、実態は何も具体的な策が講じられるに到らなかった。
ヒットラーは英仏がリップ・サーヴィス以上のものは提供しないであろうことを予想し、生存圏拡大の最後の仕上げに、ポーランドのカーゾン線以西を攻略することを計画した。

第2次大戦後に判明したことだが、ヒットラーとスターリンの間に、カーゾン線の東側をソ連、西側をドイツが取るという、独ソによるポーランド分割の密約があったと言う。

1939年9月1日ドイツはポーランドに侵入し、9月3日には英仏はドイツに宣戦を布告し、ここにヨーロッパを舞台として、第2次世界大戦の端緒が開かれた。

ソ連は9月17日ポーランドに侵攻し、カーゾン線以東を占領した。
ソ連がカーゾン線以東に侵入し占領した際の大義名分は次のようなものであった。

すなわち、カーゾン線以西は常にポーランド人の居住地であったが、以東はロシアとポーランドの勢力が過去に混在していた。そこで英国人カーゾンの提唱によってロシア・ポーランドの国境線として、第一次世界大戦後に引かれたのがカーゾン線である。

しかしこの決定はロシア人に受容できても、ポーランドには不満の多いものであった。

ポーランドは16世紀当時にポーランド王国が栄えた時の国境を回復しようとはかり、1920年2月ロシア革命後の混乱から脱し切れていなかったソ連に対して、戦いを開いた。

戦況はソ連に有利に展開したが、英仏はポーランドを支援し、最終的に1920年10月和平を結んだときは、ソ連が退却しつつあった。
そして1921年3月ポーランドの国境はカーゾン線より、はるか東側の白ロシアの領域と定められていた地域に引かれることとなった。

第2次世界大戦においてヒットラーとの密約に基づいてカーゾン線以東を占領したソ連は「1921年ポーランドに奪われた白ロシアの領域を回復した」と述べポーランド侵攻の理由づけとした。

だがこの論理に立つと、中国が帝政ロシアに奪われた旧領回復に、あるいは日本が北方四島の回復に、それぞれ対ソ武力発動したとしても、合法的になってしまう。
ひいてはイラクのフセイン大統領の「旧領クウェートを武力で回復した」という主張も合理化されてしまう。

たまたまソ連がその後ナチス・ドイツに攻められて米英と共に戦って戦勝国の側に立ったので容認されているが、かなり強引かつ危険な論理である。

一方ドイツはポーランドに対して、まず1939年4月ダンチヒの返還とポーランド回廊に治外法権の伴う鉄道と道路の敷設を承認するよう要求した。そしてその直後に、ポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄することを宣言した。

つまりドイツがチェッコスロバキアを併合したことに鑑み、英仏がポーランド、ルーマニア、ギリシャと対独安全保障を約したことは既に述べたが、ドイツはポーランドに対しては「英国・ポーランド間の相互援助が約されたことはドイツ・ポーランド間に存在する不可侵条約の前提を変更したものである」とし、英国に対しては「ポーランドと相互援助を約することにより、英国がドイツ包囲の政策をとるにいたったことを証拠立てるものである」として条約破棄の理由づけとしている。

ヒットラーはこのポーランド侵攻をもって生存圏拡大を一段落させるつもりであり、局地戦で終わらせ英仏との戦いは回避するつもりでもあった。

だが1939年5月英仏がトルコと相互援助条約を締結したのを機に、ドイツはイタリーと軍事同盟を締結した。この結果、英仏と独伊が対立するという形がヨーロッパにでき上がり、英仏の対独観は、より厳しくなったと言ってもよいかも知れない。

ドイツは電撃戦の形で対ポーランド戦を速やかに終結させ、英仏がこの既成事実の上に、対独戦を行わないことを期待した。西部戦線は英仏の対独宣戦布告後も実質的には静けさを保っていた。

だが英仏の姿勢に変化がないと判断したヒットラーは、翌1940年4月に、諸外国の戦争準備が整わないうちに戦いを開き、有利に終らせるべく行動を起こした。

まず4月にデンマークとノルウェーを迅速に占領し、5月にはベネルックス諸国に攻め込み、5月15日にオランダ、5月28日にベルギーが降伏した。ベネルックス三国を通ってマジノ戦を側背から襲われたフランスも6月17日に降伏した。

ベネルックス三国もスカンジナビア三国も大国同士の争いの中で、必死に中立維持を願って努力したが、大国が戦術的、戦略的に必要な地域は、弱小国家である限り中立を保つことは至難の業であることを今次大戦は如実に示している。ヒットラーのような無法者だけが中立侵犯を行うのではない。

英国もノールウェー沿岸に若干の機雷を敷設したり、ある一時期ドイツに先んじてノールウェーを占領する計画を立て、小部隊を上陸させたりしている。

またソ連はドイツと密約があったとはいうが、バルト三国併合の最初の口実は「バルト三国の領域内でソ連船が国籍不明の船から不当な扱いを受けた。バルト三国には国際法上の中立国の義務を果たすだけの軍事力がない。ソ連が代わってその役割を果たすから、ソ連軍の駐留を認めよ」というものであった。

スウェーデンもドイツの軍用列車の国内通過やエンジンや機体の不調のドイツ機の緊急着陸上の提供を強要され、連合国が事情に理解を示したおかげで辛うじて中立国であり得た。

このようにドイツが膨張をつづけている状況下に、チェッコスロバキア併合によってドイツがバルカン方面へ勢力を拡張し得る立場に立ったと考えたイタリアは、1939年4月アルバニアに侵入し、これを併合した。

アルバニアが第三国の勢力下に入ることは、トリエステからバリまでのイタリア諸港の機能が危うくなることを恐れたものである。なおアルバニアは第1次大戦後イタリアと軍事同盟を結び、イタリアの勢力下にあった。

その後イタリアは西部戦線におけるドイツの電撃作戦の進展ぶりを見て、ドイツ側に参戦した。
ところがドイツは海軍力において英国に劣勢であり、英本土上陸作戦の成算が得られなかった。

ここでヒットラーは彼なりの遠大な計画を考えた。当時、独ソ間にはポーランド問題をめぐる英仏との対立に対応するため、不可侵条約が存在していたが、ヒットラーは日頃、共産主義やソ連のポルシェビキを、口をきわめてののしっていたから、本心からソ連と平和関係を永続させようという気持ちはなかったであろう。

ヒットラーはソ連に対して電撃戦を展開して短時日に粉碎し、極東において日本の比重を相対的に高めて、米国を太平洋方面に釘付けにし、英国を孤立した戦いに追い込み、有利に局を結ぼうというものであったと言われる。1941年6月23日独ソ戦争の火蓋が切られた。

4 日本の第2次大戦参戦の経緯

ブロック経済に苦しんだ日本が、中国大陸に軍事的侵攻を行い、1932年清朝の廃帝溥儀をして皇帝に戴く満州帝国を建て、これを中国本部から分離し、日本の政治的、軍事的支配権の確立をねらったことは、日米間の対立感情を強めた。

満州は、日本国内の貧しい農民や都市の若者らが開拓移民として大陸に渡り、国内の雇用の不足をある程度解消し、工業用石炭や大豆その他の第一次産業製品の獲得や、雑貨の市場としても、かなり有効に機能したが、日本にとって重要な各種金属、生ゴム、パルプ材等は入手できなかった。

また軍事的には、海軍にとってゴム、鉄、アルミニウムなどと共に、石油は血の一滴に匹敵するほど重要なものであったが、これらの資源は満州にはなかった。

ただ、この一事をもって単純に日本が、大戦にのめり込んで行った原因を、「南へ石油をとりに行った」と考えている者がいたとしたら、あまりにも考察が甘く浅薄である。

海軍が石油に強い危機感を抱き始めたのはインドシナ半島に軍を進めるとともに、米国の嫌うナチス・ドイツやイタリーとの間に「日独伊三国同盟」を結び米国との対立が厳しくなってきた、昭和15年9月ごろからであった。

しかし現実に米英蘭の諸国が、こぞって「対日石油禁輸協定」を結んだのは昭和16年10月8日であり、米国が単独で一足早く「対日石油禁輸措置」を発表したのは、昭和16年8月1日であった。

しかし日本と米英蘭の関係は、経済ブロックが形成されたときから、摩擦の大きさは徐々に係数が高まっており資源の入手と、第二次産業製品を売り捌く市場の確保をめぐり対立がつづいていた。

日本が満州をはじめ、中国大陸へ軍事的、経済的に進出の度合いを強め、同じ悩みをかかえていたドイツやイタリーと手を結んだことにより、米英蘭との関係はますます悪くなっていった。

そういう雰囲気の中で、米英蘭及び中国の経済的対立は、これらの諸国の英語の頭文字をとって、「ABCD包囲網」と当時の日本人に呼ばれ、いつしか白人によるアジア・アフリカ支配に反発する雰囲気が日本の大衆の中に生じてきた。

そしてヨーロッパやアメリカの植民地が無くて、自由に貿易ができれば、こんなに苦しむ必要はないという声が、新聞や雑誌にもしばしば表れるようになった。このような社会一般の空気の中で、東南アジアと極東の資源はアジア人がアジア人のために使い、市場もアジア人の自由な意志で貿易できるように開放されるべきだという考え方が生まれ、いわゆる「大東亜共栄圏」という構想が形成された。
当初は雑貨売り捌きの市場を求めて対立していたものが、思いもかけぬ方向に発展していったわけである。

なお、「石油を取りに南へ行った」という単純な思い込みの裏には、石油の地位が当時も今も同じだと思っていることに由来する部分も多分にある。
戦前から戦後の数年にかけて、日本の国家としての石油需要は石炭に比較して極めて小さく、海軍を除くと石炭の消費が圧倒的に多かった。

すなわち戦前、戦中の電力は80パーセントから90パーセントは水力でまかなわれ、10パーセントから20パーセントが石炭による火力発電であり、輸送の中心は蒸気機関車による鉄道であった。化学工業や製鉄業の100パーセント近くが工業用石炭に依存しており、石油や天然ガスは特殊なケースでしか用いられていなかった。

つまり当時の石油と石炭の地位は、現在の石油と石炭の立場を逆にした以上に石油の地位は低かったのである。家庭の熱源はほぼ100パーセント薪か炭で、一部の家庭で石炭が用いられていた程度で石油や電気は極めて稀であった。

すなわち国家戦略としては、マレーシアのゴム、錫、インドネシアのマンガン、ボーキサイト等の非鉄金属、米国を経由するくず鉄、石油、満州の工業用炭、豪州の羊毛、インドの綿花等が頭に浮かぶので、石油は重要ではあったが日本が欧米と対立したり、中国へ軍事的進出を行って、米国と抜きさしならぬ関係に到る直接の因を作る端緒を作ったわけではない。

やはり戦争の原因はブロック経済であったと言うべきで、これが植民地をめぐる争いとなり、ドイツは生存権を主張し、また植民地の再配分を要求したのであり、日本ではアジアの植民地を、白人から奪い返し、大東亜共栄圏を確立するという主張となる。

この点については、1941年8月に大西洋上の巡洋艦オーガスタ艦上で、チャーチル・ルーズベルト会談が行われ、その結果が「大西洋憲章」として発表された際にも、「ナチス・ドイツの侵略はもちろんよろしくないが、第1次大戦後のウィルソンの十四箇条の精神に従って民族自決の原則に基づいて戦後処理をしなかった英国にも、この戦争の一半の責任はあるのだ」ということをルーズベルトは指摘しており、「ナチス・ドイツと戦う英国は助けるが、大英帝国の版図にある植民地は戦勝の暁には、民族自決の原則に従って独立させる」ことを約束させている。

日本が「この共同宣言の内容が確約できるものだったら、日本も中国やインドシナから日本の軍や警察機構を引き揚げる。ついては早急に経済ブロックを解消してもらえないか」と米英にタイミングよく話しかけていたら、存外うまくいって、以後の日米英蘭の関係はうまい具合に運んでいたかもしれない。

残念ながら、これは馬鹿げた想像でしかない。しかし、外交というものは、強気一点張りやきれいごとばかりでなく、どろどろした泥水をかぶったり、飲んだりすることも必要であると思うので、あえて馬鹿げた夢想を一言付け加えておくものである。

さて日本の海軍には、米内光政海軍大将、山本五十六海軍大将、井上成美中将らは、日独伊三国同盟に反対し、米国とのっぴきならぬ関係になることを恐れる人たちも多く、海軍は対米英戦になることは消極的であった。
ところが日本軍が昭和15年9月23日、北部インドシナに進駐し、同月27日に日独伊三国同盟がベルリンで調印され、枢軸体制ができ上がり、米英の対日姿勢が硬くなるにつれ、海軍は日米関係に重大な懸念を抱きはじめた。

昭和16年1月23日、海軍大将の野村吉三郎新駐米大使は「極秘訓令」を持って赴任し、米国と交渉を開始した。しかし6月17日に当時オランダ領だったインドネシアのオランダ当局との経済交渉が不調に終わったため、インドネシアの資源利用や同地を市場として利用することが困難になった。

このことは、ボルネオの原油の入手ができなくなったことであり、海軍としても重い腰をあげて、対米戦を含む、米英蘭との対決に対応する措置を本格的に講ぜざるを得ないという気持ちが固まってきた。
7月2日、御前会議で「情勢の推移に伴う国策要綱」が可決され、「対米戦も辞さず」という政府と軍当局の意志の統一がなされた。
米国は7月25日に「在米日本人資産凍結」、同26日には「日米通商条約破棄の通告」を行った。

7月28日オランダは米国にならうかのように「インドネシアの日本人資産凍結」、「石油協定廃棄」を決定した。ところが日本が、このような国際的雰囲気をさか撫でするかのように、7月29日に南部仏印に進駐した。そして8月1日、米国は「対日石油禁輸措置」を発表した。10月8日には、「米英蘭印対日石油禁輸協定」が成立し、日本の海軍も完全に対米戦で腹をくくらざるを得なくなった。

ヒットラーは英仏の対独宣戦布告後、次の年の4月、5月頃、英仏の継戦意志が衰えないのを見てとり、他国が準備を整えないうちに電撃作戦に移行して、フランスを攻撃したというが、日本の海軍もまた、この時期、石油が底をついて艦隊が浮かべるスクラップ群になって、戦う能力を喪失してしまわないうちに対米戦を行う決意を固めたのである。

しかし、当時の日本の提督のうち、で対米戦の結果について、自信をもって「勝利」を予感していた人は、恐らく皆無だったであろう。
11月26日、ハル・ノートの提示があり、12月1日の午前会議で米英との開戦がなされた。

昭和16年12月8日、米英に宣戦が布告され、12月11日にはドイツとイタリーも対米宣戦布告を行った。

5 大戦の終結とその後の世界

この大戦では米国のロジスティックスに対する巨大な能力が如何なく発揮され、日独伊枢軸側は緒戦の優位を維持できず、次第に守勢どころか敗勢に追い込まれていった。

1943年7月25日イタリアでムッソリーニが失脚し、バドリオ政権が樹立され、9月9日にはイタリアが無条件降伏した。
ヒットラーによって幽閥先の山荘から救出されたムッソリーニは、北イタリアに政権を樹立して戦いをつづけたが、イタリアにおける敗勢は、おおうおべくもなかった。

ドイツ軍も1943年2月2日スターリングラードの敗北のあと、同年7月5日から23日まで戦われたクルクスの戦いで大消耗をして以後は、遂に立ち直りがきかず、押しまくられっぱなしで、ベルリン陥落と無条件降伏までの道を歩むこととなる。

太平洋方面でも昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で、機動部隊の主力となる百戦錬磨の将兵の多くを喪失してからは、海軍の戦勢の立て直しがきかず、島嶼をめぐる戦いで、米軍が圧倒的な艦砲と航空機の火力支援と十分なロジスティックスの支援を受けながら戦ったのに対し、制海権と制空権を失った日本軍は孤島に孤立し、食するに糧なく、喫するに水なく、戦うに矢弾なしの状態の下で絶望的な戦争を余儀なくされた。

結局各地の日本軍は、その持場を自らの墓場と心得て、文字どおり最後の一兵まで戦い、戦車に対するに爆薬を抱いて肉弾攻撃をかける等玉砕に継ぐ玉砕を繰り返し、最後には神風特別攻撃隊や神雷特別攻撃隊による航空体当たり、回天特別攻撃隊におる水中からの体当たり、震洋艇による体当たり等の、戦史に前例のない壮烈な戦いを演じたが、退勢を盛り返すことはできなかった。

1945年4月26日、北イタリアにあったムッソリーニはイタリア人のファシストのゲリラに逮捕され、虐殺され、4月30日にはベルリン市街戦も終りに近い陥落をひかえたベルリンの地下室でヒットラーが自殺し、5月8日ヒットラーの後継者デーニッツ提督はドイツの無条件降伏を決定した。

5月9日、三国同盟は失効し日本は孤立して戦いを継続することとなった。

しかし8月6日と9日に広島、長崎に原子爆弾が投下され、8月8日には突然、日ソ中立条約の期限を6箇月残したまま、ソ連が対日宣戦を布告し、満州、樺太、朝鮮で侵攻を開始した。

このような事態となり、当時の日本政府は、軍内部には本土決戦の声が強く、国民の中にも最後まで戦うという雰囲気が強かったので、一歩誤ると抗戦を主張する軍のクーデターが起きかねない状況下で、天皇の権威にすがる形でともかく終戦に導いた。8月15日正午、昭和天皇自らの放送により、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を行った。

1943年9月に降伏したイタリアは、ムッソリーニを失脚せしめたバドリオらの政府により、講和が議せられ戦勝国により色々と制約せられたが主権の停止や軍事的に保障占領されて、占領軍によって政府の統治行為が監督されることはなかった。
ところが1943年11月22日のカイロ会談、11月26日のテヘラン会談等の後は、ルーズベルトが「枢軸国に対して、国家としての降伏を要求する」ことを明らかにしたため、当時連合国と熾烈な戦いを交えていた日本とドイツに対しては、極めて厳しい取り扱いがなされることとなった。

つまり例え親英米派の政治家や軍人が指導権を握って降伏しても、ある期間は戦勝国の軍隊による保障占領が行われ、主権は停止せられ、統治機構や法制度についても全能の占領軍が指導的役割を果たし、戦争責任を追及する裁判も行われ、戦争犯罪人には相応の罰を与えるということである。

ところがこうなると逆に日本やドイツの反軍的、反ナチス的な人々をして現指導者を倒そうが倒すまいが、同じ扱いを受けるのだという虚無感を抱かしめ、現指導者には死に者狂いの徹底抗戦の意志を抱かしめることにより、日独の国内の結束を強化する効果が出てきた。

結局ドイツは国土全体で激しい地上戦が戦われ、ベルリン陥落まで戦いは終わらなかった。日本も老幼婦女子の間にまで「負けたら白人の奴隷にされる」という危機感を強く抱かせ、徹底的に戦おうという意識が高められた。

空襲や食料不足でいかに苦しんでも、日本の国内と国外とを問わずあまり強い反戦や停戦の声が上がらなかった裏には、国民が権力に盲従していたとか、ルーズベルトの「国家の降伏要求」の方が、日本人大衆に恐怖感にも似た危機感と反発心を喚起したことは否定できない。
結果としてルーズベルトの発言は、連合国と枢軸国の双方に、思いがけない大きな犠牲を強要したといえよう。

第2次大戦の結果、日本とドイツという枢軸側の強国が一時、衰退したほか英国、フランス、オランダなどヨーロッパ諸国は戦勝国と敗戦国とを問わず、国力を消耗した。
またミャンマ(ビルマ)、インド、マレーシア、インドネシア、インドシナ三国等のような、西アジアや東南アジア諸国で、支配者であり、主人であった白人が、一時的にせよ、アジア人の日本人に敗れ、しかも米国の助けを借りなければ自力で原状回復できなかった事実を、原住民のインテリゲンチャや民族主義者の前で見せてしまった。

また白人が日本人によって放逐されている間に、原住民は日本人と一緒に行政機関の役所づとめ等をして、自分達の行政や統治の能力に自信を深めてしまった。
しかも米国は第2次大戦の原因について、植民地の開放をきちんとしなかった英国にも責任の一半があるということを指摘し、ルーズベルトは大英帝国が広大な植民地を持っていることに嫌悪感すら抱いていた。

戦後世界は日本とドイツが一時、衰えて国際政治の舞台から退いたほか、西欧の世界支配が急速に終焉にむかった時代でもある。
代わってプラグマチィズムの哲学をひっさげて、自由主義陣営のリーダーとして米国が登場しいわゆる西側世界なるものを形成し、他方にマルクス主義哲学に拠る社会主義陣営の旗頭としてソ連が登場し、東側世界を形成して対峙する世界となった。

この米ソ両国ともに少なくとも西欧流の植民地や異民族支配を嫌う。
かつて「英国による平和の時代」すなわち英国が世界政治の安定に責任を持つ「パクス・ブリタニカ」の時代と称した。
パクス・ブリタニカの時代は、列強が世界を分割し植民地化した時代であり、揚力な海軍力を背景に、最も大きな版図を獲得した英国が、世界をリードした時代であった。

第2次大戦後の、「米国とソ連による平和」すなわち「パクス・ルソ=アメリカーナ」の時代は、植民地解放の時代でもある。

1959年までにはアジアの主要部分は、大半が独立し、1960年代に入ると「アフリカの夜明け」と言われ、ブラック・アフリカが次々と独立し、国際連合その他の国際機関で、数の力により大きな影響を与えはじめた。

このようにアジアとアフリカで民族国家が成立し、植民地が消滅した結果、アジア・アフリカは発展途上国として後進性を残しながらも、資源供給地として、工業製品の市場として、先進工業国が平等の立場で自由に貿易できる重要地域となった。

日本にとって重い意味をもつのは、これら地域の資源利用に際しても、輸入した資源を加工して、付加価値を与えた工業製品を、この地域に輸出するに際しても、戦前のように、ヨーロッパの会議室の決定を待つ必要がなくなったということである。

かつて欧米のマスコミが「日本は戦争に敗れたが、結果として大東亜共栄圏を作ってしまった」と述べたことがある。

国際政治に与える米国の影響力や、市場としての米国の巨大さ、ハイテク産業や自動車産業等の付加価値の大きな値段の張る工業製品を大量に消費する市場としての卓越性を考えると、日本は米国との協調と互助互譲について深刻かつ神経質なぐらいの配慮が必要である。

その一方で、アジア・アフリカ諸国を優良な市場として育てる地道な努力が必要である。戦前とは逆にアジア・アフリカにおいて日本は地理的に欧米諸国よりも有利であり、これら地域との貿易における輸入額、輸出額において、また金融投資において「大東亜共栄圏を作った」と言われても仕方ないような金額にのぼっている。

だが、これら諸国の消費経済を豊かにする努力をしなければ、日本の将来にとって決して望ましい経済関係とは言えない。

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