中東の紛争概史‐中東戦争後の中東

中東地域の紛争概史
第2部では中東戦争以降の中東地域の紛争や今後の趨勢、過激派イスラム教徒について述べていきます。
目次

  1. パレスチナをめぐる問題の原因と結果
  2. レバノン紛争
  3. イラン・イラク戦争
  4. 湾岸戦争
  5. 中東地域の今後の趨勢
  6. 過激派イスラム教徒について

(5) 第4次中東戦争後のパレスチナ

イスラエルからシナイ半島を奪回して、エジプトが勝利に沸いたのは一時的なことでした。第1次から第4次に及ぶ約25年間の戦いはエジプトの国家利益に直接関係のない大消耗戦で、大衆はパレスチナの戦いに倦み、疲れていました。

国内の貧困な消費経済や食料不足に対する不満により、「シナイの勇士達よ、我々の食事はどこにあるのだ」というプラカードを掲げた大規模なデモ隊が各地に現れました。これを端緒としてサダト政権は、政策を変更し、社会不安を起こしかけている民心の収束のため、経済力の豊かな米国に接近しました。

1979年、カーター大統領の周旋により、イスラエルと平和条約を結び、米国の資金とイスラエルの技術の供与により、ナイル川の水をサイフォンでスエズ運河の底をくぐらせてシナイ半島の緑化を図り、併せてトンネルを掘削して農地化する計画を進め、既に完成しています。

イスラム諸国の中にはエジプトを批判する声もありましたが、アラブ世界の大国エジプトはイスラエルとの平和を守り進めています。

ヨルダンも第3次中東戦争で大損害を被り、イスラエルとの関係改善に心を砕いていましたが、対イスラエル最強硬派の隣国シリアとイラクの動向を無視できず、1980年から1990年まで続いたイラン・イラク戦争ではイラク支持を表明して、サウジアラビア等の湾岸諸国と対立し、厳しい対応措置を受けて苦慮したこともあります。

1990年、イラクがクウェート侵攻で多国籍軍により、国際連合の武力制裁を受けて、国際的に孤立したのを機に、ヨルダンはイスラエルと講和の交渉を進め、1994年に水資源の配分と国境画定で合意し、平和条約を結びました。

イラクはこの後、核・生物・化学等の大量殺戮兵器の研究や保有をめぐり、NATO諸国によりフセイン政権が倒されて、当面パレスチナをめぐる中東戦争生起の恐れは小さくなりました。

しかし、アラブの世界は国家間の紛争だけではなく、パレスチナゲリラとイスラエル、イスラム教徒の武装組織とアラブ諸国の政府軍、改革を求める民衆と守旧派の政府軍、宗派間の争い等が入り乱れて、誰が敵か味方か分からない状態が現出することがあります。

また国民という意識よりも部族意識が優先する場合も珍しくありません。
1975年に生起したレバノン内戦の事例にその類形が見られます。

2.レバノンの内戦

レバノンは第2次大戦後の1946年末、シリアとともにフランスの委任統治領から独立し、徹底した中立政策をとり、首都ベイルートは中東のパリと称され、国家としても繁栄していました。

しかし、中立政策の下でPLO(パレスチナ解放機構)がベイルートに本部を置き、対イスラエルのテロの策源地や逃げ込み場所に利用する等、隣国のイスラエルから見ると、レバノンはテロ活動の加担者の側面も内包していました。

このような微妙な雰囲気の下で、1972年、ミュンヘンオリンピック大会の選手村をPLOのテロが襲い、多くのイスラエル人アスリートが命を失いました。
イスラエル人へのテロには大量報復によって対応するという方針に従い、イスラエルの特殊部隊が海からベイルートのPLO本部を奇襲し、PLO幹部を殺害しました。

ところが、レバノンは旧約聖書の時代から多様な宗教や文化の人々が交代して「宗教のモザイク国家」と言われてきましたが、1946年の独立以来、フランスが残して行ったキリスト教徒優位の政治や制度が残っており、キリスト教徒はユダヤ教に好意的でした。

総人口に占めるキリスト教徒の比率は必ずしも多数派ではないので、妥協策として、大統領以下の要職を宗派ごとに割振って、宗教の違いによる不満を和らげる制度をとっていましたが、この制度の歪みが、イスラエルの報復に対する対応策をめぐり政府や軍の内部の対立を呼び、激しい内戦に発展しました。

「宗派による要職一覧表」
大統領 キリスト教マロン派
首相 イスラム教スンニー派
副首相 キリスト教ギリシャ正教
国会議長 イスラム教シーア派
同副議長 キリスト教ギリシャ正教
国軍総司令官 キリスト教マロン派
国軍参謀総長 イスラム教ドゥルーズ派

イスラエル特殊部隊がPLO幹部を多数殺害している時に大統領も国軍総司令官も傍観して、見逃す態度を示し、スンニー派の首相の命令を軍内部の高級将校に伝えなかったこと、高級将校の多くがマロン派だったのでイスラム教徒が多数を占める下級将校や下士官・兵の進言は無視され、国軍は実質的にイスラエル軍を本気で迎え撃つことはありませんでした。

スンニー派のサラーム首相は抗議の辞任をし、政府や国軍の内部が分裂し、政情不安となり、くすぶっていた宗派間の対立はレバノン全土に拡大してこれにPLOが加わってきたため、国軍対PLOの武力闘争も始まりました。

1975年にはレバノンの宗派間の騒乱が本格的な内戦となり、これに隣国シリアが軍事介入してイスラム教徒を支援し、PLOとキリスト教徒の右派勢力を駆逐しました。

イスラエルに好意的だったキリスト教徒の力が失われ、シリアの影響下でイスラム教徒の強いレバノンはイスラエルの敵性地域になったと同じことです。

イスラエルは1982年レバノン内戦に武力介入し、レバノン国民の意思に関係なく、シリア対イスラエルの戦いがレバノンの各地で断続的に1990年の10月まで続き、約20万人が命を落としたと言われ、国土の破壊は甚大でした。

レバノン内戦の特徴は、初期のキリスト教徒とイスラム教徒の争いに、PLOやシリア、イスラエルが加わって本格的な戦争になり、勝敗の決着のつかない宗教的な争いと統治機構が完全に崩壊し、国家の態を失ったレバノン国内でレバノン人の意思と無関係に、イスラエル対シリアが15年間の戦いを続け、国土の全域が破壊され、20万人の命が失われた後に何の結果も生まなかった、意味のない戦いだったと言えます。

しかし、これと酷似した事象は現在の中東でも生起しており、西アジアやアフリカ諸国でも、しばしばみられる事象です。

3.イラン・イラク戦争

アラビア語を公用語とするアラブ人の国イラクとペルシャ語を公用語とするインド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人の国イランは、文字はアラビア文字、宗教はイスラム教という点では共通であり、シャトル・アラブ川を国境として隣り合っています。

国際的に川を国境とする時、航路として利用している場合は可航水路の中央 ・航路として利用できない川の場合は川の中央を国境とすることが原則とされていますが、1975年以前は、何らかの歴史的由来により、イランの側の川岸が国境とされていました。

1975年にイランのパーレビー国王と当時イラクの副大統領だった後のフセイン大統領の間で締結された「アルジェ協定」で、イランがイラク国内のクルド族の反政府活動を支援しないことを条件に、国際法の原則に従って、川の中央を国境とすることに改められました。

イラクにとっては国境線をイランに譲歩したと感じられる国境の変更であって、海に面した良港を持たず、ペルシャ湾への出口をシャトル・アラブ川に依存していたイラクには、国際法上当然の国境画定といっても、不満が残りました。

1978年12月パーレビー国王は急激な近代化政策の失敗により、国民の打倒運動で失脚、王朝も崩壊し、国王と対立してフランスに亡命していたイスラム教シーア派の最高指導者ホメイニ師が帰国して、イランにイスラム共和国が成立しました。

ホメイニ師の宗教的カリスマ性のもとに、ヨーロッパ文明に否定的な反近代化政策により、「中東の警察官」といわれたイラン軍の装備や将校の資質の低下、二次・三次産業の弱体化、反米政策による米国との断交等により、軍の装備の部品不足がイランの陸海空三軍の稼働率の著しい低下を来たしました。
また将校の多くが退役し、技術、法学、経済等の分野の多数の知識層も国外に去りイランの国力は目に見えて低下しました。

この状況を見たフセイン大統領は1980年9月、国境をアルジェ協定以前に戻し、更にシャトル・アラブ川のイラン側に昔移住したアラブ系住民が多数居住している地域の割譲を要求し、イランに侵攻しました。

当初、イラン領内に約50キロ侵入したイラク軍はホルムシャハルを陥し、アバダンを包囲しましたが、ホメイニ師のカリスマ性のもとでイランの国民が自爆戦法等で自己犠牲を顧みずに反撃した上、イラクに協力すると期待していた、川のイラン側に1世紀以上昔に移住していたアラブ人の子孫たちがイラン社会に融合しており、イラク軍に冷淡だったことが計算外でした。
イランがアラビア文字を用いイスラム教を信仰する国であり、1世紀有余の歳月を違和感なく世代交代を重ねた元イラク人の子孫にとっては、侵攻してきたイラク軍は、平穏を乱す外敵と映じたのです。

補給線が伸び切り、支援のないイラク軍は、次第に押し返され、開戦の1年後の1981年9月、アバダンの包囲を解き、1982年にはホルムシャハルから撤退し、全軍が自国領へ退却しました。イラクは急遽、停戦を申し入れましたが、イランはフセインの辞任と賠償を要求して拒否し、逆にシャトル・アラブ川を渡って、イラク領内に約50キロ侵入しました。

イラクは防戦のため、皮膚をただれさせる、びらん性ガスや神経ガス等の化学兵器を用い、イランもバグダッド空襲と人海戦術で応じ、国境付近で膠着状態となりました。双方の空襲やミサイル攻撃の応酬などで、人的被害と施設の破壊の累積は多大で、死傷者はイラン・イラク合わせて100万は下らないと言われる状態となりました。

国連安保理の決議や事務総長の仲介などで停戦となり戦火は止みましたが、講和条約締結交渉は難航しました。

4.湾岸戦争

1990年8月2日イラクは突然クウェートに侵攻し、併合を試み、国連の武力制裁決議が米ソを含む賛成により成立して、自ら国際的孤立の道に入り込みました。
アラブ諸国も制裁に加わる意思を表明し、多国籍軍に参加する状況となり、イラクは、国境は開戦前と同じ1975年締結のアルジェ協定のままとし、占領したイラン領のすべてから撤兵し、捕虜の即時交換という全面的にイランに譲歩する条件を提示し、イランもこれを認めました。

停戦期間の2年を含め10年に及ぶ戦いは、双方合わせて死傷200万、物的損害2000億ドル、支出された戦費はイラン1000億ドル、イラク700億ドルと言われています。

しかもイラクのフセイン大統領が開戦の目的とした領土変更は戦いの前と後で、1ミリの変更もなく、国境を定めたアルジェ協定は、一文字の変更もありませんでした。
10年に及ぶこの戦いは、多くの人的・物的損害を出すために、巨額の戦費を浪費しただけのものだったと言ってよいと思います。

5.中東地域の今後の趨勢について

中東地域では議会制民主主義が根付いている安定した近代国家と認められる国は残念ながらほとんど皆無に近く、政治権力の交代については、歴史的権威をもつ王室の力に頼るか権力の強い大統領が時の流れの中で、国内外の圧力に抗しきれずに力ずくで打倒され、その後任の権力者も同様な経過をたどって失脚するという、不安定さがみられます。

国際政治学の分野で用いられる硬性国家(Hard State)という国家と軟性国家(Soft State)という国家があります。
硬性国家は、国内が安定しており内乱やクーデターが起きにくく、軟性国家は逆に国内が乱れやすく、わずかな社会不安や経済的混乱が、大きな騒動や内乱の火種子になる国家です。
この両者を識別するには、次の6条件をできるだけ多く満たしているか否かを見れば、比較的正確かつ容易です。

「硬性国家(Hard State)の条件」
① 確立した国民的合意を基盤とする権威ある存在により国民の精神的統合と国家の統一が保たれている。
② 全国的組織を持つ複数の政党が、政治活動や言論の自由を確立している。
③ 権力の分立と議会制民主主義が定着しており、政権交代が円滑である。
④ 教育が普及し、政府・官僚機構が十分機能を果し、国民は秩序と規律の意義を理解し、受容している。
⑤ 2次産業・3次産業に拠る強力な経済基盤の上に、国民の社会的動員が十分なされた社会である。
⑥ 金融・流通機能が十分発達している。

北米や西欧の社会は、以上の条件をほとんど具備していますが、アジア・アフリカ諸国では、大国でさえ、重要な条件のいくつかを欠いている例が見られます。
中東諸国には、条件の多くを欠いている場合が珍しくなく、一時期「アラブの春」と、民主化の兆しが見えたかのように騒がれましたが、一過性の出来事でした。

アラブの春の動きを見せた国の大半が、これら条件を著しく欠いていたため、大混乱を招き、多くの犠牲を出しただけで、民主化を軌道に乗せられず、かえって不安定な状態を招いていると言った方がよいと思います。

先進諸国は、軟性国家を硬性国家に変革させるための努力を、真っ先に行うべきで、各国の身の丈に合わせて、支援する順序を考えることが必要です。単に経済援助や武器援助を行ったり、西欧型の民主政治を強要するだけでは社会の不安定を助長する逆効果しか生まないことを理解する必要があります。

米国が多大の経済援助や食料援助を与え、善意の支援を行いながら、必ずしも成果が上がらず、支援に対する感謝が少なかったりする事例を見かけます。これは「身の丈に合わない支援」や「性急な米国流の民主的手法」を持ち込むためだと言えるかもしれませんので反省する必要があります。

6.過激派イスラム教徒について

内戦やテロは中東地域に限らず、東欧や中南米のように、ヨーロッパ系の文明が根付いている地域にも生起しています。
フセイン政権崩壊後のイラクや「アラブの春」を経験した諸国でも身の丈に合わない民主化運動で、「イスラム国」という過激なイスラム教徒のテロや武装集団と政府軍の間に見通しのつかない戦いが続いています。

その原因についてイスラム教徒の主張を聞いてみると、約100年前の第1次大戦ぐらいまでさかのぼった所にあるようです。

1914年から1918年まで戦われた第1次大戦初期の1915年、英国はトルコやドイツに対応するため、メソポタミア一帯のアラブ人を味方につけることをねらって、当時のエジプトの高等弁務官ヘンリー・マクマホンがオスマン・トルコ皇帝の任命した、メッカの太守(地方長官)フセイン・イブソ・アリーに「マクマホン書簡」を送り、メソポタミアの一帯に大シリア王国建設を約束しました。

ところが英国は秘かに、ユダヤ人の莫大な資産を味方につけるため同じ時期、英国外相バルボアがパレスチナの非ユダヤ系市民の宗教的権利を侵害しないという条件下に、パレスチナの地にユダヤ人の国家建設を約し「バルボア宣言」を発しました。

更に英国は、フランスとの間にメソポタミア方面の分割支配を約束する「サイクス・ピコ条約」を結びました。
締結交渉をした両国外交官の名に因んで、「サイクス・ピコ条約」と呼ばれています。

同時に異なる3者との間で、同じ地域の第1次大戦後の扱いについて、別々の約束をした英国の外交を「イギリスの3枚舌」として国際政治史に名をとどめています。
結局、フランスとの約束だけが100%守られ、ユダヤ建国は第2次大戦後に米国を中心とする国際連合で実現するまで守られず、アラブの大シリア王国は、サウジアラビア付近で部分的に実現しました。

19世紀以来、ヨーロッパ列強の世界分割はアフリカ大陸では、「バターナイフで切り取るように、原住民の歴史等に無関係に地図上で列強の思うがままに分割された」と言われていますが、中東においても、オスマントルコ時代、緩やかなオスマン帝国の宗主権の下で、地方長官(太守)が統治していたイスラム教徒の地は、定規を当てて機械的に英仏の勢力範囲に分割され、従来から居住していたイスラム教徒の歴史や宗教的聖地への配慮もなかったと言われます。

「イスラム国」と名乗るイスラム教徒の主張は、マクマホン書簡で約束した大シリア王国の版図を基本とするイスラム太守国を作り、サイクス・ピコ条約で英仏が作ったヨーロッパの残滓を一掃するというもののように推察出来ます。

列強によるアフリカの分割は、英国がインドの支配権を確立した1877年頃から急速に進み、日本が日英同盟を結んだ1902年頃には、アフリカの90%強とポリネシアの99%弱が西欧列強により分割が終っており、メソポタミア一帯の英仏による分割は、第1次大戦後の1918年以降のことです。

英仏の委任統治は1948年に完全に終り、イラク、シリア、ヨルダン、イスラエル、レバノン等の諸国が独立し、周辺にはエジプトやサウジアラビア等がありますが、その時代から数えても約2世代70年近い年月が経っています。

同じアラブ人であり、宗教と言語を共有していても、国家として異なる歴史を歩み、各国の政治権力機構や経済基盤が異なり、単にイスラム教徒というだけでは、ヨーロッパ文明を排除して、オスマントルコ以前のイスラム法が支配する国家を作る意義を、現代のアラブ世界の大衆が受容し、それが永続することはないと思います。

「イスラムの国」の指導者に従っている下級の戦闘員のほとんどは、支給される衣食住や報酬が途切れたら、四散する可能性があります。
若し国家の樹立を宣言しても典型的なソフト・ステートで、イラクの一角で「イスラムの国」と戦っているクルド自治区のクルド人やイスラエルのユダヤ人のように結束して外敵と戦う強さはないと思います。

ただ、アラブ諸国は国民国家という側面よりも、部族地域の集合体という側面と宗教に拠る集団としての側面の方が強く現れることが多く、「イスラムの国」の絡んだ紛争は、長期間にわたるソフト・ステート同士の争いの様相を示すこともあり得ると思います。

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