戦争の原因・永世中立の概念・安全保障の考え方

※1991年頃に作成された原文の一部(何年などの表現を加えるなど)修正をして掲載しています。

戦争の原因

第1次大戦から中東の現状までの戦争の因果関係を概観してきた。フォークランドやペルシャ湾岸の戦争は、別の機会に、稿を改めて個々に述べてみたいと考える。

ここで、今までみたところをもとに、戦争の原因と結果について、包括的に考察し、これから我々が日本の安全について考えるべきことについても論じてみることにする。

戦争とイデオロギー

まず、戦争の原因についてであるが、第2次大戦が、たまたま日本、ドイツ、イタリーという反共産主義、国粋主義の色彩が濃く、議会制民主主義が未成熟な国と米英仏等の戦いであったため、学者の中には、これを「民主主義と独裁主義の戦いであった」と、単純に言う者がいる。

またマスコミ一般や国民の中にも、1947年3月に始まった冷戦の期間が約40年も続いたため、イデオロギーの対立が戦争を引き起こすと、観念的に考える風潮ができ上がってしまった。
そして東西対立がなくなれば世界は平和になると、単純に思い込む傾向が、当時の日本にかなり瀰漫していた。

しかし、第2次大戦初期の1941年8月、当時の米国大統領ルーズベルトは大西洋上で巡洋艦オーガスタに英国首相チャーチルと会談した際に、「今、ヨーロッパで戦われている戦争は、一義的にナチス・ドイツの侵略にその責めがある。
しかし第1次大戦終了時、ウィルソンの14箇条に則って、民族自決の原則に従い植民地をきちんとした形で、精算しておけば、この戦争は発生しなかったのであり、その点では英国にも責任の一端がある」と述べた。

このルーズベルトの言葉はすでに紹介したところであるが、ルーズベルトの指摘を俟つまでもなく、第2次大戦をファッシズム対民主主義の戦いなどというように説明して、得々としている日本の学者の姿勢は、いかにも浅薄で恣意的である。

第2次大戦に先立つ10年前に、世界大恐慌が生起し、この対応策をめぐり植民地を持っている諸国のブロック経済政策と、日本やドイツ、イタリーのような持たざる国が衝突したのが戦争の発端であり、西欧の経済ブロック形成には米国も自由競争原理を主張する立場から、当初は反対していた。

後に、ヨーロッパに対抗する立場から、汎米経済ブロックを形成したが、米国は本質的には自由経済支持で一貫している。
ルーズベルトは、大西洋上の会談の後で、チャーチルとの共同宣言で、大戦後に大英帝国の植民地を独立させることを、約束させている。

因みに東南アジアや西アジア、中東方面で、大戦前に欧米の植民地や保護国の地位に置かれず、主権国家としての地位を保っていたのは、タイ王国だけであり、アフリカでは、米国の肝入りで建てられたリベリア以外に、原住民が独自の政府を作り、主権国家の地位を保っていた国はない。
まして、欧米と対等に行動する自由を確保していた非西洋国は日本だけであった。

大戦後の世界も、東西のイデオロギー対立の時代としてのみとらえるのは、極めて皮相的であり、つまるところは、東西対立も大国の国家利権や勢力圏をめぐる対立が根本にあるのである。
基本的には、かつての英仏の七年戦争(1756~1763)や、日露戦争(1904~1905)、あるいは大戦前の独英や独仏の対立、ロシア・トルコの対立、旧連合国と旧枢軸国の対立、中ソ対立等と第2次大戦後の東西対立は本質は変わらないのである。
たまたま旗じるしに西側は自由主義を、東側は社会主義を掲げただけのことである。

人間同士の争いであるから、米国流プラグマティズムとソ連流のコミュニズムの対立感情が存在していたことは否定できない。
しかし、それだけであれば、文化交流や経済的交流の面で、多少の違和感を抱くだけであり国家間の深刻な対立にまでは発展することはない。
イデオロギーや宗教の対立だけで戦争になるとするならば、東洋と西洋、仏教国とイスラム教国、キリスト教国はお互いに絶えず戦う必要がある。

現実には、国家利益や勢力圏獲得をめぐる、生臭い対立が生じ、これが政治的対立に発展し、民族的対立感情のおもむくところにより、暴力やテロが発生したり、強者が弱者をねじ伏せる態度に出た時、戦争を誘発している。

日本の一部には、「武力を全面放棄して、平和的話し合いに徹すれば、戦争に巻き込まれない」という主張がある。
すなわち国の安全保障政策の中の、軍事的な分野には、意図的なまでに神経質に否定的な反応を示し、「軍事力は弱ければ弱いほど、それは限りなくゼロに近いほどよい」とする極めて無邪気な情緒的な考え方である。
しかし、歴史的事実に照らす限り、この考え方は百八十度現実に反しており、自信をもって「誤っている」と断定しても、嘘つきにはならない。

つまり二度の大戦に限らず、弱小国家は、自国の運命を自らの意志によって決定できず、強大な勢力の意志によって、自国の運命について決定されてしまうのが歴史の常であった。

戦争と法規の限界

現在、「日本は世界に先がけて平和憲法を作った。この憲法の理念を守ってゆけば、日本は平和だ」という素朴な平和希求の考えがある。
その典型的な市民活動の一例として、6年前(1985年頃)の初秋の頃、大要、次のような内容の手紙を次々と知人に送って、平和主義の輪を広めようとしている婦人や当時70代の老人を中心とするグループの存在を知った。

① 平和憲法を絶対に守る。② 憲法を守れば武器は要らない。兵士は要らない。軍備は永久に拒否する。③ 戦争犠牲者に軍人も民間人もない。軍人、戦犯を祀る靖国は要らない。すべての戦争犠牲者への補償と戦争責任の明確化を求める。④ 万一、再軍備、徴兵実施となれば、我ら腕を組み眉を上げて、敵戦車に向かって立つ。その轍の下に果てる。孫や子の生命に代えて、毛頭悔いることはない。

以上の4項目を見ると、平和を希求する心根は立派だが、直ちに次の点を質問してみたくなる。

つまり、日本国憲法は確かに平和主義の精神によって作られている。
しかしこの程度の内容なら、1928年8月27日にパリで調印され、1929年7月24日に発効し、日本も参加しており、一般に不戦条約と呼ばれる「戦争放棄ニ関スル条約」の第1条と第2条に盛られている。

すなわち第1条(戦争放棄)に

「締結国ハ紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」と規定し、第2条(紛争ノ平和的解決)に「締結国ハ、相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ、其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ、平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス」

と規定している。

しかし、この条約の精神は、1929年に端を発した、世界的大恐慌とこれに引きつづくブロック経済政策のもたらした、諸国間の対立の前には、あまり活かされなかった。

まして日本の国内法でしかない日本国憲法を守ることの反対給付として、日本に平和を与えてくれる外国は一つもないであろう。

また、「戦車の前に腕を組み眉を上げて、敵戦車に向かって立ち、その轍の下に果てる」というような、日本古来の自殺の美学に従うよりは、「バズーカ砲や対戦車用武器を整備し轍の下に果てなくてもよい道を講ずる」のが正しい現代の常識に合致したありようである。

また永世中立や平和主義を国是として維持していれば、平和国家たり得るか、歴史的事実を検証してみよう。

永世中立の概念について

「永世中立国」とは国際法上どのようなものか確認してみると、ある国が国際条約によって戦争を行わないことを約束するとともに、他の締約諸国から、その独立と領土の尊重を約束されている場合に「永世中立国」と言い、その条約を「永世中立条約」と称している。

過去の事例の永世中立国は、強大な数箇国が弱小な国を中立とする、一種の集団的安全保障関係の形をとる。

ウエストファリア条約のころから、国際社会における勢力均衡(Balance of Power)の諸政策を反映し、ある戦略的重要拠点をめぐり、強国の利益が対立するような場合に、その地域を緩衝国にして、対立を柔らげることをねらって、永世中立国が置かれた。

つまり、ある程度以下の小規模な国でないと、国際的に中立が認められにくい側面があった。次に永世中立国の具体例をみることにする。

歴史上に見る永世中立国

1802年、ナポレオンが台頭してきた時代のフランスとイギリスの間に「アミアン和約」が成立した際、「マルタ島」を英国、フランス、スペイン、プロイセン、オーストリア、ロシア等の諸国によって永世中立化することが企てられたが、結局プロイセンとロシアが批准しなかったので実現はしなかった。

ナポレオンは、この2年後の、1804年には皇帝になり、フランスだけでなく、ヨーロッパ大陸に広く彼の威光は輝いたが、英国とロシアが彼の意のままにならなかった。1805年英国を征伐しようとはかったナポレオンの企図は、トラファルガーの海戦で、フランス・スペイン連合艦隊が、ネルソンの率いる英国艦隊に大敗したため、挫折した。

しかしその後も、彼はアウステルリッツの戦いなどで勝利を収め、1806年7月にはライン同盟の盟主となり、962年以来つづいていた神聖ローマ帝国を解体する等、大陸における武威は衰えなかった。しかし1812年、モスクワ遠征を企て、冬将軍のため失敗した彼は遂に覇王の座を降りた。

ナポレオン以後のヨーロッパをどうするかを議したウィーン会議で、1815年、スイスを永世中立国とすることを、英国、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシア、スペイン、ポルトガル、スウェーデンの8箇国が承認した。

これが世界最初の永世中立国の例である。
スイスの地理的位置が、軍事上戦術的、戦略的に比較的重要な場所にあり、且国土全体が険阻な山岳地帯にあって、しかもそれほど広大ではない。
そして資源地帯でもない。

その上スイス人は、勇敢で独立の気風も強く、外敵と断固戦うであろうから、簡単に外国がスイスの中立を侵犯することもできない。

永世中立国スイスは、その周辺にあるヨーロッパの強国にとっても、信頼できる緩衝国として、価値の高い存在となった。
少なくとも、スイスを軍事的に攻撃したときに払うかもしれない犠牲と、スイスの永世中立を保障して緩衝地帯としておくことによって得られる利益を天秤にかけた場合の解答は明らかで、以後のスイスは、二度の大戦にも永世中立国としての立場を守り抜いた。

1830年、ベルギーがオランダから分離独立したが翌年、ロンドン条約により、英国、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアがベルギーの永世中立国としての地位を承認した。1839年ベルギーの永世中立は再確認されている。ロンドン条約は、1867年にルクセンブルクの永世中立を、英国、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシア、ベルギー、オランダが承認し、追加した。

中立国の変質

1870年ごろまでの永世中立国は、諸強大国の立場から、緩衝地帯としての機能を期待されて設定されていたといってよいであろう。そこには強大国家の意志が強く作用しており、それだけに永世中立国の地位の保全は、強国によって、積極的に守られた

ところが、近代以後の強国の対立が、世界的規模で分割や勢力圏をめぐる争いの様相を呈しはじめると、強国間の争いに巻き込まれたくないという、小国の側からする永世中立の主張が目立つようになり、かえって永世中立国が本来もっていた、国際紛争の緩衝装置としての機能は失われ、積極的な存在意義がなくなった
すなわち強大国の側に、何の利益もない中立の主張は破られやすい。

例えば1885年、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割の時代に、ベルリンで開催された「コンゴ会議」で、ベルギーはコンゴ自由国の永世中立を主張したが、この主張の担保国はなく、宗主国ベルギー王国のみが認める「永世中立国のコンゴ自由国」であったので「不完全な中立」と言われた。

また1907年、ホンジュラスの永世中立宣言があり、1919年にはアイスランドがデンマークから分離した際に、永世中立宣言を行った。
しかし、国際的な承認や保証はもちろん、国際会議場で意志を表明したわけでもなく、一方的な宣言であり、国際法上も中立国として認められていない。

近代以後、永世中立国が積極的な存在意義を失い、弱小国の保身のための、担保国のない、一方的中立宣言や中立国にしてもらいたいという主張が目立つようになったが、これはあまり守れない中立である。
国際関係が複雑になった20世紀において戦われた第1次及び第2次世界大戦は、永世中立国の存在に、いくつかの問題点を提議した。

たとえば、1830年来承認されていたベルギーとルクセンブルクの永世中立さえも、第1次大戦の際、ドイツによって侵犯された。
ベルギーは、1885年のコンゴ自由国の永世中立に担保国が得られなかったこと及び第1次大戦で長い間保障されてきた永世中立が侵犯された事実に鑑み、自ら進んで、ヴェルサイユ条約第31条、サン・ジェルマン条約第83条、トリアノン条約第67条、ロカルノ条約および1926年のパリ条約で、ベルギーの永世中立を廃止した。

ルクセンブルクについても、大戦中に中立侵犯を行ったドイツがまず永世中立の終了に同意した。連合国もヴェルサイユ条約第40条、サン・ジェルマン条約第84条で、ルクセンブルクの将来について、永世中立国であるのか否かの協定を作ると約束した。

ところが、その協定は作られないままに経過したため、ルクセンブルクは成文法的には、「永世中立国の地位」を保ちつづけている。

しかし、現実において、「永世中立は終了した」と認められており、NATOにも加盟を認められた。
国際的には成文法よりも事実たる慣行に基づく慣習法が優先することは珍しくはない。

また第2次大戦後、国際連合を含む国際的組織が発達し、国家以外に諸国の権利・義務の関係を律したり、国家の行動を制約する団体が国際社会の秩序や規律の維持に大きな機能を発揮するようになった。

このように国際社会が組織化されると、永世中立の意義が相対的に変化する。
たとえば、スイスはヴェルサイユ条約第435条で、「永世中立国」であることを再確認された。ところが、その後国際連盟に加盟した際、連盟規約第16条の「侵略国制裁協力義務」への対応に苦慮した。

国際法上の中立国の概念と、制裁措置への協力が矛盾するためであるが、第2次大戦後の国際連合による集団安全保障制度は永世中立の概念を一層変化させた。つまり、国際連合設立時、原加盟国の間で「国際連合の活動を国際連盟の時よりも強力に実りあるものとするために、加盟国は国際連合の決定対して、中立の態度は許されず、協力すべきである」という声が強かった。

特にフランスは、「中立国は国際連合に参加できない」ことを国連の規約に明示すべきだと主張したほどであった。これに対してソ連が、国連設立の趣旨や他の規約により当然のことで、わざわざ明示するまでもないと言ったので、フランスの主張は文字にはならなかった。

しかし、こういう、やりとりが大国間であった事実そのものが、永世中立国の国際連合への加盟を不可能にする。
スイスは国際連合に加盟していないが、事実上拒否されているという方が妥当であろうう。

国際連合憲章は、国際紛争は国際の平和及び安全と正義を危うくしない方法で、平和手段によってのみ解決されるべきことを定め、武力の脅威または行使を禁止した。国連加盟国は、国連が憲章に従ってとる行動について、国連にあらゆる援助を与えなければならないことになっている。

中立国の義務

従来、世界のどこかで戦争が始まると、他の諸国の中に、中立宣言を発する例が多かったが、国際法上は中立宣言の義務はない。一般に中立宣言は、自国民に対して中立義務に違反する行為に出ないよう示達する主旨のものであるとされている。

したがって宣言を出したから、中立が保障されるとか、中立国の地位が安泰になるというものではない。中立国の地位が安泰であるためには中立国の義務を守ることが必要である。
中立国の義務には「避止の義務」、「禁圧の義務」及び「容認の義務」の3種類がある。
「避止の義務」は「回避の義務」とも言われ、中立国政府自身が交戦国を援助しない義務のことを指す。
「禁圧の義務」は「防止の義務」とも言われ、中立国がその領域内で、交戦国が戦争遂行に役立つ行為をすることを禁圧する義務である。
「容認の義務」は「黙認の義務」とも言われ、中立国の行為が、交戦国のいずれか一方に対して有害となる行為になることを防止抑制するために、交戦国が一定の防止抑制手段をとる場合、これを容認する義務である。たとえば中立国船舶の臨検捜索、封鎖侵犯、戦時禁制品輸送、軍事的ほう助等の理由による拿捕等の措置を容認する。

ここで中立に関する条約の規定について、概観してみよう。

  1. 陸戦に関連する主要規定
    1. 交戦国軍隊の領土内通過の禁止
    2. 軍事通信機関の設置・維持の禁止
    3. 交戦国戦闘部隊の領土内編成の禁止(但し、個人が義勇兵等に応募したり商取引で兵器等が輸出されるのは合法)
    4. 交戦国の戦時禁制品の領域内通過の禁止
  2. 海戦に関する主要規定
    1. 中立国の主権侵害排除
    2. 中立国領域内に捕獲審検所設置禁止
    3. 中立国領域内で、敵対行為に参加すると認められている船舶艤装、武装の防止
    4. 中立国政府自身による軍用資材供給禁止
    5. 交戦国軍艦の同一港湾へ同時に3隻以上入港の禁止
    6. 交戦国軍艦の滞在期限24時間以内
    7. 双方の交戦国軍艦が同一港湾停泊時の同時出港禁止(48時間以上時間差をつける)
    8. 交戦国軍艦の修理は航海の安全に関するものに限定し、戦闘力増加に関するものは一切禁止
    9. 捕獲戦の中立国港湾への引致禁止
    10. 中立国領域内における強力行使禁止
    11. 中立国領域内の中立違反事象防止義務
    12. 違法な交戦国軍艦の抑留
  3. 空戦に関する主要規定
    1. 交戦国軍用機の中立国管轄区域内への進入禁止
    2. 交戦国への中立国政府による航空機及び同部品等供給禁止
    3. 攻撃可能状態の交戦国航空機の中立国管轄区域内からの発信禁止
    4. 一方の交戦国に通報する目的を有する中立国管轄区域内からの空中偵察の禁止

以上、中立国が戦時に課せられる主要な義務を概観したが、これらの義務には、多分に軍事力の裏づけを要するものもある。
しかし、中立国がその権利を守るためにとった実力行使は、国際法により交戦国側で、これを非友誼的行為と認めることはできないと規定されている。
すなわち、中立国が中立維持のために、兵力またはその他の手段を用いて、強力に対応しても敵対行為とは認められない。

それどころか必要な対応をせず、中立国に課せられた義務を怠ると、中立国としての資格が否定されて、交戦国が敵性地域として、公然と武力を行使し得る地域になることもある。

たとえば、ベネルックス3国やバルカン諸国は第2次大戦中、ドイツの占領下に入った。ドイツの軍事占領下に置かれることは、これら諸国が望んだものではなく、多少なりとも、各国は抵抗したが、降伏したことにより、その国土はドイツが全面的に自由に軍事的利用が可能な地域となったわけである。
すなわち、連合国側から見れば敵国ドイツの支配下に置かれた敵性地域であり、国際法上公然と武力を行使できる地域になったことになる。
つまり一方の交戦国に降伏したり、征服されたりすると、他方の交戦国から見れば実質的には最も忠実な敵国の同盟国であり、敵国の一部とみなされることを覚悟せねばならない。

中立国を軍事的に侵犯するなどという蛮行は、ファシストの国だけがやるのだと、戦後の日本では、主として社会主義の立場の人が、マスコミ等を利用して主張していた時期がある。だが、スカンジナビア3国のうち、ノルウェーとデンマークはドイツに軍事占領されたけれども、ドイツ占領に先立ち、イギリスがノルウェーに小部隊を上陸させたり、同国沿岸に機雷を敷設したりしている。
ドイツの全面的軍事占領という、より大きな事象の前に、かすんでしまっているが、国際法上は重大かつ容易ならざる行為であり、この事実をノルウェーが英国に対して、黙っていたとすれば、ドイツ側から見れば、ノルウェーは利敵行為をしていたことになり、中立国としての要件の一部を欠くことになる。

また、1991年の夏になって、半世紀ぶりに独立を回復してソ連邦を離脱した、バルト3国が、ソ連に併合される際の発端は、ドイツとソ連の密約があったことが最近明らかになっている。
しかし、既に主権国家として存続している三つの国を、併合するためには、ソ連も相応の手順を踏み、合法を装う必要があった。
当時のソ連外相モロトフは先ず、「バルト3国の領海内でソ連の船舶が、国籍不明の艦艇から不当な強力行使を受けた」と抗議を申し入れた。そして追い打ちをかけるように、「同様の不当な強力行使が続発しており、バルト3国には中立国の義務を遂行するに足る軍事能力がないので、ソ連軍がバルト3国の安全を守ってやる」という主旨の申し入れを行った。

当然、3国の政府当局は拒否したが、遂に、ソ連の恫喝に屈して、ソ連軍のバルト3国進駐は強行された。そしてソ連軍の武力を背景として、3国の共産主義者たちが政治の実権を握り、「ソビエト連邦への参加」を希望し、ソ連はこれを承認するという形で、バルト3国のソビエト連邦への併合を完成した。
しかし、常識的に、自立し得る能力を有する主権国家が、主権を放棄して、他の民族の構成する連邦への参加を希望するというのは、極めて不自然なことである。この不自然なことが、行われた裏に、

  1. 独ソという当時の強国が、当事国の意志に無関係に、密約を交わしてバルト3国をソ連に併合せしめたこと、
  2. 併合に至る口実に、バルト3国の中立国の義務不履行が用いられた

という2点は、日本国内の一部に存在しつづける、「非武装中立論」に大きな疑問を呈するものである。

また、第1次、第2次の両大戦時、植民地が宗主国と共に直ちに戦争に巻き込まれたこと、一方の交戦国に占領された中立国の領域は他の交戦国から敵性地域として空爆のみならず、地上戦を含む攻撃対象地域となったこと、東南アジアや中国、ソ連などは、日独両軍に占領された地域が、味方であるべき宗主国や母国の軍隊の攻撃対象地域となったことなどを想起するならば、一時期ロンドン大学の日本人客員教授の三島氏が提唱した「戦わずに斉々と降伏する」方法は、最も危険な、降伏することによって、降伏した交戦国の最も忠実な同盟国となることである。すなわち姿を変えた同盟政策である。

外交と軍事

ここで、歴史の修羅場をくぐり、しばしば運用の妙を見せることの多い英国の例をもって、外交と軍事の冷厳な事実を見てみよう。

英国の外国政策は一口でいうならばヨーロッパに、自国より強力な国家が存在することを抑えることであり、もし戦いがあれば、「勝ち馬にかけ」自国の国家利益を、最悪の場合でも現状維持とすることをねらい、時には「冷酷」とか「無節操」と思われることを、敢て行う。

たとえば、1740年から1748年まで戦われた、「オーストリア継承戦争」のときは、フランスとプロシアの力関係を横目でにらみ、プロシアが強大になることを防止するため、オーストリアの女帝マリア・テレジアを支援した。
ところが、マリア・テレジアが1756年から1763年にかけてプロシアに割譲したシレジア地方の回復をねらいプロシアと戦いを行った「七年戦争」では、オーストリアをフランスが助け、プロシアが敗れそうな情勢となると、苦境に陥ったプロシアのフリードリッヒ大王を助けた。
そしてついでに植民地をめぐりライバルだったフランスに対して、優勢な海軍力を利して、各地で多くのフランス領植民地を奪取した。

第2次大戦後の日本では、勝敗にかかわらず、対外的戦争のすべてを悪として描くが、英国の教科書では、対外戦の勝利は誇らかに、「Won]と表現している。

また、ナポレオンがヨーロッパ大陸で覇を唱えていた頃、デンマークの艦隊がナポレオンの麾下に入るのを恐れて、デンマークの艦隊を英国の力の下に入るよう要求し、拒否に会うと「緊急避難」の名の下に、攻撃し壊滅させた。くどいようだが、この時デンマークは英国の敵国ではなかったのである。

また第2次大戦時、フランスがドイツに降伏してヴィシー政府ができると、英国は直ちに、今まで味方同士だったフランスの艦隊を、北アフリカのダカールやオランで急襲して、フランスの戦艦ダンケルク、ブルターニュ、プロバンスを撃沈、英国やエジプトの港にあったフランス軍艦を武装解除してしまった。
しかも、これらの英国の行為は国際法上は合法的である。だが戦後、情緒的、観念的に戦争を捉え、センチメンタルに考える風潮の日本では、「恐ろしい」とか「残酷」といった、否定的な受け止め方しかされないであろう。

しかし外交の実相は、強い者同士を噛み合わせてその力を減殺し、勝ち馬にかけて国家利益を守り、国際法上許される限りの手段を尽くして敵の戦力の増大を抑えるのである。
一歩引き下がって譲歩すれば相手は十歩出ようとし、お世辞を使ったり御機嫌をとれば、更に相手は尊大になり、弱くなれば強者が奪いに来るのが、国際政治の実相である。
強者が弱者を助けるのは国家利益の足しになるときだけである。ちなみに湾岸戦争で、クウェートが有数の産油国でなかったら、あれほどまで諸国は助けなかったかも知れない。
国際政治は決して正義の論理だけではなく、国家利益に関する損得勘定のバランス感覚が、より多く働くものであることを、しっかり認識してかかる必要がある。ただ行為が正義の名においてなされているに過ぎない場合が多い。
まして理念や理想をいくら主張してみても、現実から著しく遊離していては、現実主義や実用主義に重きを置く諸国に対しては説得力を欠く。米国、中国、ヨーロッパ諸国は、考え方においては、日本に較べるとより現実主義的であり、実用的である。

法規に対する諸外国の考え方

既に述べたところでも、部分的にふれたと思うが、文明国は常識的に、成文若しくは慣習のいずれかによる憲法をもつが、その憲法の中で、国際法を高く位置づけており、国際法の格式は、憲法を含む国内法の権威を上まわり、国際法と国内法が競合する事象が生じたときは、国際法の考え方を尊重するのが、当然とされている。
憲法は国内法であるから、他国に影響を及ぼす力がない。世界という見地から見ると各国内のいわばグランドルールのようなものだから、国際法を尊重するのが当然なのである。

ヨーロッパはソ連のヨーロッパ部分を除くと、中国全土よりも狭いといわれるが、その範囲に、30箇所ほどの大小主権国家が存在しており、平時は国際列車も普通に運行している。弁護士や判事も国際法の概念を頭の一隅にとどめながら仕事をするといわれるほどで、日本の法律専門家が、まったく国際法の概念を欠いたまま仕事ができ、国際関係論の学者が、国際法上の存在を無視して、講義したり論文を発表したりできるのとは大いに環境が異なる。
しかも現実に国境を接し、地続きで人や物が往来する状況下では、学者の抽象的な言葉だけの論理や、官公署の言葉の辻褄合わせ主義者の独りよがりの主張などは、何の意味もない。議論やそこから導かれる結論は、具体的かつ現実的で、実用に耐え得るものでなくてはならない。

国際法の解釈運用も、極力国家利益を損なわず、しかも国際協調を崩さないように頭を使う。

アメリカ大陸も、ヨーロッパの植民地であったアジア・アフリカの諸国も、法規の解釈は、かなり柔軟で、多分に判例主義的である。

第2次大戦後、従来は法の解釈運用が硬く、法文の中の文言にこだわることの多かったドイツが、世代交代を重ねるうちに、いつしか比較的柔軟な解釈をするようになり、湾岸戦争の後、ペルシャ湾掃海やクルド難民保護のためには、ドイツの憲法に相当する国家基本法の規定では、NATO諸国の範囲までしか、軍を出せないにもかかわらず、停戦後の人道目的のために貢献する部隊を、基本法の規定の外の区域まで出したが、異を唱えたものは少数派であった。

日本では柔軟な解釈運用や慣習法的な考え方を「日本は成文法の国だ。」とか「慣習法的運用は際限もなく拡大解釈を許すことになる。」と、非常に硬い旧プロシア流の解釈を主張する人がいる。
だが、世界史で見ると、柔軟な、例えば英米法流の国では、市民の常識の範囲で、法というものが現実的、実用的に運用され、むしろ法の悪用が防止され、望ましい歴史をたどっている。
例えば、ナチス・ドイツの第三帝国は、民主的なワイマール憲法の原理を悪用し、ヒットラーに「授権法」という、法規を作る権限を多数決で与えたことにより誕生したといわれる。慣習法にドイツ人が長じていれば、絶対に防止できたはずである。

つまり、慣習法は市民の常識や、しきたりが優先し、簡単に多数決で改めることはできないからである。

日本も他人事ではないのであって、昭和初期、大日本帝国憲法の第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあったのを、海軍軍縮条約締結をめぐって軍令部が反対したときに、政友会の鳩山一郎が「軍令部が反対するものを無視して政府が調印するのは、統帥の大権を干犯するものだ。」と、当時の与党民政党に対する政争の具に利用した。
鳩山代議士は東京帝国大学でドイツ法を学んだので、直ちに文字解釈による、このような論理を思いついたのであろうけれども、以後の軍は「統帥権」という錦の御旗を振りかざし、遂に政府の制御不能な組織と化した。

要するに、国際法の権威は日本国憲法第98条の第2項にも認めているところであるから、国際法優位の一元論というセンスをもって国内法を解釈運用し、国際政治の動きに照らして、どのように内外の法規を柔軟に活用するかという、慣習法的な考え方に熟達することを要する。
残念ながら明治維新以後の日本人は、ドイツ法の法文解釈に学び、これを使いこなすよりも振りまわされて、統帥権を暴走させ、第2次大戦後は、米国の強い影響下に英文法の感覚に基づく憲法を作ったにもかかわらず本場のドイツ人が既にやめている、極めて硬いプロシア流の法解釈により、国際問題への対応や国家や公的機関の行う行事や儀式を、ぎこちないものにしている。

戦争を含め、国際間のことは国際法で処理されることはいうまでもないが、国際法の渕源は「条約」、「慣習」が二本柱で、これに「法の一般原則」を加える説もある。
いずれにしても硬直した文字解釈は、国際社会で通用しないことは明らかである。

例えば、「不戦条約」の前文は、当時の世界で強国と目されていた、米国、英国、ドイツ、日本、フランス、イタリー等を網羅した60箇国が参加して、作成したもので、平和に対する理想が盛り込まれていた。
すなわち、

「人類ノ福祉ヲ増進スベキ其ノ厳粛ナル責務ヲ深ク感銘シ、其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ関係ヲ永久ナラシメンガ為、国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ、率直ニ抛棄スベキ時期ノ到来セルコトヲ確信シ、其ノ相互関係ニ於ケル一切ノ変更ハ平和的手段ニ拠リテノミ之ヲ求ムベク、又平和的ニシテ秩序アル手続ノ結果タルベキコト、及今後戦争ニ訴ヘテ国家ノ利益ヲ増進セントスル署名各国ハ、本条約ノ供与スル利益ヲ拒否サラルベキモノナルコトヲ確信シ、其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ国ガ此ノ人道的努力ニ参加シ且本条約ノ規定スル恩沢ニ浴セシメ、以テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ、玆ニ条約ヲ締結スルコトニ決シ、之ガ為左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ。」

という文言には、日本国憲法の文言とも共通した表現が見られる。

本条約の第1条と第2条は既に紹介したがこの前文を併せ読むとき、「不戦条約」は日本の憲法起草の際に参考にされたことが、十分想像できるほど、日本国憲法の前文と第9条に似ている。
日本ででは第2次大戦後、この条約のもつ非現実的な理念や理想が、頑迷なまでに文字解釈的な条文解釈をもって受け入れられ、唱導されている。
しかし、既述のとおり、この条約は、あまりにも理念や理想に燃え過ぎたせいか、守られなかった。
ちなみにプラグマティズムの国アメリカは、この条約があまりにも理想的に理念を追い、多分に現実性を欠いており、国家の基本的権利の一つである「自衛権」までも否認しかねない点に配慮し、提案時、大要次のような内容の「アメリカ合衆国政府公文」を発した。
すなわち「不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限または毀損するなにものも含むものではない。この権利は各主権国に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている
各国は、いかなる場合にも、また条約の規定に関係なく、自国の領土を攻撃または侵入から守る自由を訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ。」というものである。

かつて、日本占領軍の最高司令官として、オール・マイティーで日本で最高権力を振った、マッカーサー元帥が、1950年(昭和25年)元旦、日本国民に与えることをねらって発表した年頭の所感の中で、「日本は自衛権を有する。」と述べたくだりがある。
朝鮮戦争は約7箇月後の6月25日であり、フルシチョフ回想録では、4月に北朝鮮とソ連の間で、南へ進撃する合意がなされたということであるし、北京政府すら直前まで、そのことを知らされていなかった事実に照らし、このマッカーサー発言は、朝鮮戦争等とは無関係である。また英米法の感覚に立てば、こじつけでもなんでもない。
まさに、自衛権は国家固有の権利であり、そのことはすべての条約に暗黙裏に含まれているのであって、まして国内法たる憲法に、どのような規定があろうと暗黙裏に自衛権にかかわることは、肯定的に含まれているのである。マッカーサー元帥は、そのことを言ったのである。

これからの安全保障の考え方

既に述べたところであるが、現代の日本には「東西対立が終ったから平和になる。」、「ソ連は最早、力を失い脅威ではない。」等、大変楽観的な論調が行われた。
あるテレビの男女アナウンサーが、ニュース番組で平成4年度から、防衛大学校が推薦入学を実施することになったが、男女ともに大変、狭き門だったことを報じ「東西対立が終り、世界が平和に向かっている時に……」と、半ばしたり顔で批判するような、半ば呆れたような顔でコメントしていたが、今後は一切、安全保障機構は不要であるかのような、この手の論調が目立つ。
外国では常識的な、安全保障は重要であるから機構や制度は常時整備し、兵力のみを必要に応じて伸縮させるという考え方が、この男女のテレビ・アナウンサーにも欠けている。

東ヨーロッパの、ポーランド、ルーマニア、チェッコ・スロバキア、ハンガリー、ブルガリアに東ドイツを加えた諸国は、第2次大戦後の四十数年間、マルクス主義というイデオロギーのたがをはめられ、とにかく共通の哲学を持ち、ソ連という巨大な力の統制下に曲がりなりに秩序を保ってきた。

ところが、マルクス主義という共通の価値観の尺度がなくなり、ソ連という巨大な統制力も取り除かれてしまった。
一見して言えることは、「東ヨーロッパは第1次大戦前の多数の民族が対立したり、連合したりしていた、不安定な状態に戻った。」ということである。

東ヨーロッパ諸国相互間には複雑な、領土を奪った奪われたとか、支配した支配されたという、歴史的、民族的対立感情がある。
ハンガリーはチェッコ・スロバキア、ルーマニア、ユーゴースラビアとの間に対立感情があり、ポーランドはソ連の白ロシア共和国やバルト3国の一つのリトアニアに、ルーマニアはソ連のモルドバ地方に、微妙な感情を抱いている。
ドイツも現在は要求しないと約束しているが現在ポーランド領になっている、旧東プロシアの地方やロシア共和国に併合され、カーリングラードと呼ばれている旧ケーニヒスベルクについて、微妙な感情がある。

こういう微妙な対立感情は、世代が交代して、かえって激しくなる場合もあり、東ヨーロッパは不安定要因が多い。

またユーゴースラビアも、小さな民族国家が連邦を構成していたが、かつてオーストリア・ハンガリー帝国とトルコ帝国が接触していた地域であり、歴史、言語、宗教、文字等が異なる多民族の寄り合い所帯で、まとまりにくい要素が多い。

中東地域やアフリカ、西アジア方面はヨーロッパ諸国間の談合で決定されたものが多く原住民の歴史や生活文化に対する配慮は、ほとんど払われていない。
そのような地域では不自然な国境をめぐり、部族間の対立や国家間の対立が生じ、恰もパレスチナ紛争やイラク・クウェート間のもめごとに起因する、湾岸戦争のような争いが生起する可能性が、比較的高い確率で残される。

この種の紛争は、米ソのような大国やヨーロッパの旧宗主国の力が強い間は、そうした力が抑止力として作用するが、大国や旧宗主国の影響力がなくなったときに、顕在化しやすいといってよいであろう。
しかも、喧嘩のとめ男役の大国の存在がないため、紛争は長引き、各地に慢性的不安定状態が現出する可能性がある。「東西対立がなくなったから、世界は平和になる。」とは、いかにも皮相的な、軽率な台詞であり、自ら歴史をひもとき、世界の流れを考察することを億劫がる怠惰な姿勢を反映しているものである。
また、ソ連の現状を見て、ソ連をあなどる者がいるが、例えソ連が解体しても、約2240万平方キロメートルという巨大なソ連邦の面積の約70パーセントを占めるロシア共和国は、997.6万平方キロメートルの国土を持つカナダ、959.7万平方キロメートルの中国、936.3万平方キロメートルの米国等と比較しても、断然大きな面積を有する大国である。
人口においても、ソ連は1991年現在、約2億7000万人であり、この約50.8パーセントがロシア人である。埋蔵資源も豊富であり、あなどれるような国ではない。

一世代約30年経過した21世紀の初めには、ロシアを中心とした強国として復活する可能性もある。
その時は国境を接する中国や、ベーリング海峡をへだてて向かい合う米国にとっても、また他の地続きのヨーロッパ方面でも新たな対立を生ずる、大勢力として再生する可能性がある。

ただ、かつてのような膨張主義は、国策として採用しにくく、権益や影響力をめぐる勢力争いとしての様相をとる公算の方が強いであろう。
つまり、その頃は現在発展の途上にあって、国内の近代化が遅れている、アジア諸国が、ある程度後進性を脱却しているであろうし、国際機関の発達が、膨張主義を許さないであろうからである。
国際政治は複雑に波打っているものだということを、マスコミを含めて、日本人は強く認識すべきである。単純に軍縮だから、あるいは東西冷戦が終ったからと、現在この瞬間、瞬間の事象に踊ったり、ムードに酔ったりして、日本程度の国家なら当然常備兵力として保有すべき、現在の自衛力を否定したり、安全保障のための組織や政策を根こそぎ否定することは、軽率あるいは国際感覚の欠如という批判を免れない。

国家の歴史を2年か3年で終焉に導こうというのならともかく、自国の永続的繁栄を望むなら、当然歴史的経験に学び実効ある、具体的な安全保障策を、常に視野に置くべきである。
センチメンタルかつ情緒的な小学生の発想なら「軍備に頼らぬ安全保障政策」や「非武装中立でみんなと仲良く」という論を展開することも許される。
しかし、国際的に信頼されるよう貢献もし、かつ実効ある、具体的安全保障政策を行うには、軍事力の裏付けは不可欠である。
世界は、まだ当分、決して一方づいて安定化の方向へ、歴史の流れが生ずることはない。
ことさらに危機感を持つ必要はない。しかし「平和だ!」と浮かれて油断してはならない。「ぎょっ」としたり「はっ」としたりすることが、まだまだ多発するであろう。
日本をして無頼の輩を横目で見ながらびくびくする弱い老幼婦女子のように、他国の慈悲にすがって身の安全を保つような国にしてはならない。それとは逆に無法者が遠くから、ペコペコして愛想笑いをし、手出しどころか、口をきくのも遠慮して、視野の範囲内では悪事をなすことを憚るくらいが、地一番よろしい。

事実、第1次大戦の時もそうだったが、第2次大戦でも、弱小国家は中立が保てず、強さを持った国だけが中立を保ち得た。

例えば、スイスは48時間以内に60万人の兵員を動員できる国で、国家や地方の制度が、ただちに軍事組織として機能し得るようになっていた。すなわち、州知事や市町村長が、直ちに、「連隊長」、「旅団長」、「師団長」となり、予備役として各地に、軍の階級を持って生活している市民が日頃、個人貸与されている武器をたずさえ、制服を着用して召集されるや、たちまち軍隊の組織が機能し始める。

常備兵力としては、教育訓練に当る者や基幹要員として、僅かな者しかいないが、国民皆兵の徴兵制度の長所を活用し、48時間で60万人の大群を編成できる体制ができていたのである。

また、小銃を含む個人の装具一式が個人貸与され、各市町村長の下で、「大隊」や「連隊」規模の部隊が極めて迅速に編成されてしまうという制度が特に有効であった。第2次大戦中この大軍を議会が任命したアンリー・ギザンという元帥が統率して、遂に中立を守り抜いた。

ナチス・ドイツも「例え奇襲で落下傘部隊を降下させても、スイスの各家庭に訓練された壮丁が武器を準備して待ちかまえている。すなわち各農家の庭先に降下したら、そこに武装兵が待ち受けているという状態は尋常ではない。」という判断により、スイスの中立を侵犯しなかったといわれる。

スペインの場合は、ヒットラーやムッソリーニらと指導者フランコが、政治的信条は酷似しており、かつて内乱のときは非常に助けてもらったが、フランコは大局的に判断し、ヒットラーによる参戦の誘いは、丁重に断った。これが許されたのは、スペインが、いわゆる弱小国ではなかったからと言えよう。

ちなみにベネルックス3国は、中立を望みながら侵攻を受けた歴史的教訓に基づき、第2次大戦後フランスと共に、集団安全保障の方策を協議し苦心していたが、戦争に疲れ切ったこれら諸国の苦労ぶりを見かねた英国が手を貸して、「小さな同盟」とも俗称された、「経済的、社会的及び文化的協力並びに集団的自衛のための条約」すなわち「西洋ブルッセル条約」を、1948年3月17日に締結した。

この締結の時とほぼ時期を同じくして、チェッコスロバキアでクーデターと言ってよい手段で、共産党が政権を奪ったため、米国の対ソ不信は決定的となり、冷戦は、激化した。

そして米国がヨーロッパの安全保障問題に本格的に乗り出し、1949年4月4日、西ヨーロッパの大半と北アメリカが一体となって、NATOが結成され、これにはベネルックス3国同様、中立を願いつつ守りきれなかった、デンマークとノルウェーが、歴史の体験に基づき、加盟した。

以上のように弱小国は、戦争に巻き込まれたくない一心から、一生懸命に中立の道を探り、努力するのだが、力の裏づけがないとそれが不可能であるというのが歴史上の事実である。戦争の初めと終りを眺めてみると、そこには、どろどろとした国益の対立があり弱小国は自分の意志によらず、大国の意志によって、ある時は中立を維持し、ある時はそれを犯されている。

最後にもう一度、重要と考える事項を繰り返して言っておこうと思う。

それは「歴史的事実に照らすと、国防力が非武装に近いほど、戦争に巻き込まれる可能性が大きくなる。また卑屈であればあるほど、国益を失う。そして国際慣習や条約にうといほど、国家として軽蔑される。」ということである。
さらにもう一つ、付け加えるなら、「日本は資源の乏しい、米国のカリフォルニア州よりも小さな国土に、約1億2000万人がひしめき、一歩誤れば、約1億人餓死しかねない国であり、辛うじて、加工貿易でこれを回避しているという脆弱性を持った国だということを、忘れてはならない。」ということである。

日本は明治維新以後、第1次産業製品を輸入し、付加価値をつけて輸出して、経済的基盤を固めながら、消費経済を豊かにしてきたのであり、海外との交通路が脅かされたり、重要な輸入物資が入らない状態となれば、直ちに豊かさは失われるという弱点は常に存在する。決して孤立してはならない国であり、日米安保も軍事、経済の両面から考えるように心がけねばならない。

日本の人口と、経済の大きさは、国内で自給自足できる規模をはるかに越えている。
かつて、ある政党の幹部が、「湾岸戦争への対応をめぐり日米関係が悪化しても、その時は厳粛にその事実を受け止めるべきだ。」と述べた。
平和に徹しよう、平和に殉じようというその心は尊いが、第2次大戦末期から終戦直後の、輸出入が全面的に止まったことにより生じた、現在の日本では想像できない物不足と貧困を想起するとき、同意しかねる考え方である。
しかも当時より日本の人口が約4000万人ほど増加し、高齢化も進んでいる現在、日本と米国の関係悪化は、日中、日ソ、日欧関係にも悪影響を及ぼし、日本人の生活を想像以上に大きく破壊するであろう。

また孤立し、混乱して弱体化した日本は、それだけ戦争に巻き込まれやすくなるのであり、「米国の極東戦略に巻き込まれるな。」と日米関係を粗略に扱うことは、かえって危険な状態を作ることになる。私のこの結論は頭の中の理論ではなく、歴史の教空の示すところにより導かれるものである。

国際社会では「あいつは馬鹿だが、いい奴だから、大目に見てやろう。」ということはない。馬鹿やお人好しには相応の低水準の社会的ステータスと生活が強要される。びくびくして頭を低くすればその分、相手は尊大になり、踏みつけられ、謝れば文句なく謝った方が悪者と判定される。沈黙し、主張しなければ、万事了承したものと理解され、義理人情による手心は、一切ない。こういうことをしっかりと認識し、国際関係の動きをよく観察し、間違っても負け馬に賭けないことと、自分の権利や主張を明確にし、強い敵に対しては強い味方を作って対抗することが必要である。

日本人にしか分らない情緒的な平和論を唱える人は、「こういう主張」を危険だというであろう。
しかし国際関係にあっては、「こういう主張」こそ、常識的であり安全なのであって、国際関係について、日本人の経験が豊かになるにつれ従来、わが国で唱えられつづけてきた、センチメンタルな、そして情緒的な平和論が次第に力を失い、ペルシャ湾への掃海艇派遣が実行され、PKO参加や国際緊急援助隊への自衛隊参加の国会の審議にも、日本国内の反対世論は、かつてなく弱い。平和目的のための自衛隊の海外派遣は、極めて近い将来のことになってきたようであるが、日本国民が国際的になればなるほど、外国人の感覚が理解され、当然、前述の「こういう主張」が、安全かつ現実的なものとして、受容されるはずである。

第2次大戦後、約半世紀を経た今日、日本人がようやく悪い夢から醒めて、現実的に対応する姿勢を示し始めたのは、喜ばしい。

※1991年頃に作成された原文の一部(何年などの表現を加えるなど)修正をして掲載しています。

パレスチナ戦争

中東地域は第2次大戦後の世界において最も不安定な、紛争の多い地域の一つである。

一般に「中東(Middle East)」という表現は、ヨーロッパから見て、東方へ測って中位の距離に位置する地域という意味から出たといわれ、かって地中海に最も近い東方の非ヨーロッパ世界を「近東(Near East)」と称した。

第2次大戦後しばらくして、ヨーロッパの力が弱まるにつれて、あまりにヨーロッパ中心の考え方であり、非ヨーロッパ世界、なかんずくアラブ世界の反発を恐れ、「Near East」は用いられなくなり、「Middle East」に統一されている。

「極東(Far East)」は、その地域の中国や日本が、はるか東方の国と言われることを嫌悪しないので、そのまま用いられている。

では、一般に漠然と中東というのは、世界地図のどのあたりかというと、これは定義が一様ではない。

「アジア州」にこだわると、北アフリカに存在するモロッコ、アルジェリア、リビア、チュニジアはもちろん、エジプトやスーダンのような重要なアラブ諸国と、ヨーロッパとアジアにまたがるトルコを除外しなければならない。

しかし、国際政治を考えるとき、これら地域を除外して中東を論ずることは、現実的でない。

ここでは、アジア州に固執せず、これら地域も含めて、柔らかく中東を考えることにする。中東の範囲を厳密に定義してみても、ここではあまり利益はないからである。

パレスチナをめぐる紛争の経緯

パレスチナ地方とはどういう地域か

西暦70年、イェルサレムがローマ軍の手におちて、ユダヤ人の王国が滅亡した。

ユダヤ人の聖地でユダヤ教の祭祀が絶えた後、ユダヤ人たちは世界各地に離散したが、ユダヤ教の教義を忘れることはなかった。

彼等はいつの日か、乳と蜜の流れるカナンの地に、ユダヤ人の国を再興するという共通の願いを失うこともなかった。

世界各地で異なる文明や環境の中で、約2000年の歳月を経て世代を重ねても、ユダヤ人としてのアイデンティティーは保たれつづけて、現代に至っている。

パレスチナという地名は紀元前12世紀頃、エーゲ海方面から移り住んできたペリシテ人にちなんだもので、ユダヤ人が現在この地に樹てているイスラエルという国は、ヘブライ語のエルツ・イスラエルにちなんで名づけられたものである。

旧約聖書ではユダヤ教の神、ヤハベがユダヤ人たちに与えると約束した「乳と蜜の流れるカナンの地」として記されており、ユダヤ人は紀元前10世紀ごろ、イスラエル王国とユダ王国を、このカナンの地に建てた。

乳と蜜のながれる豊饒の地は、メソポタミア地方で興亡を繰り返した。

アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシャ帝国等の諸勢力も見逃さず、絶えず侵攻と征服を受けた。

ヨーロッパ方面からもマケドニア帝国の侵攻があったが紀元前1世紀以後は、ローマ帝国の支配下に置かれ、西暦70年以後、ユダヤ人の自治も失われた。

ローマが衰亡するとアラブ世界に組込まれ、やがてトルコ帝国の統治を受ける。

第1次大戦でオスマン・トルコがドイツ・オーストリアの側に加担したため、大戦後は名目的にせよ広大な地域にわたっていたトルコ帝国の宗主権の大半が失われ、ほぼ現在のトルコの領域内に閉じ込められた。

パレスチナ地方も1917年以降、英国の委任統治の下に入り、約30年間英国の支配を受けた。

ところが既に述べたように、ユダヤ人のカナンの地への帰還の希望は、ローマの支配以後も2000年の時間を経た後も失われず、19世紀末ごろから「シオニズム」の影響で多数のユダヤ人が各地からパレスチナに集まりはじめた。

シオンというのは聖地エルサレムにある丘のことで、転じてエルサレムを指すことも多い。

英国の委任統治下におけるユダヤ人口の激増ぶりは大変なもので、英国が統治を開始した当時は、パレスチナの総人口約70万人中ユダヤ人口約6万人だったのが、英国の統治が終わる1948年までの30年間に、総人口215万人中の約65万人がユダヤ人であると言われるまでに増加していた。

しかもユダヤ人は資金力にものをいわせて土地や不動産を買い取り、パレスチナの地では、次第にユダヤ人が経済的地盤を固める様相を示しはじめた。

ユダヤ人たちのこういう行動の根拠は、第1次大戦後半期の1917年11月に当時の英国外相バルフォアが、著名なユダヤ系の大財閥ロスチャイルド卿を通じてユダヤ人シオニストグループに宛てた声明にある。

これは「バルフォア宣言」として世に知られているが、世界中に経済的に大きな力を持っているユダヤ資本を味方につけることにより、米国やロシアをしっかりと英仏側にとどめようという、深謀遠慮によって発せられたものであった。

ところが英国は、「バルフォア宣言」に先立ち、エジプト駐在の高等弁務官マクマホンをして、メッカの太守フセインとの間で「マクマホン書簡」を交換させ、当時中東地帯に宗主権を持っていたトルコがドイツ・オーストリア側に加担していたので、「対トルコ反乱を起こすならば、アラブ人による独立王国建設を認める。」と約していたが、アラブ人はメソポタミアの地域に、パレスチナが含まれるものと、考えていた。

しかし、英国は1916年フランスと、大戦後に広大なトルコ帝国の支配地域の分割について、協定を結んだが、その中でパレスチナ地方について、南部のネゲブ砂漠を一度英国の管理下に置き、その後英国の影響下に自治権を与え、パレスチナの他の地域は国際管理化にとどめるという内容の部分があった。この協定は締結者の名にちなみ、「サイクス・ピコ条約」と呼ばれる。

1916年アレンビー将軍麾下の英軍は、エジプトから進撃し、1917年12月イェルサレムを落とし、パレスチナ全域に軍政を布いた。

英国が出した宣言や書簡により、パレスチナのアラブ人とユダヤ人は互に、自分たちの故国としてのパレスチナを主張して争うこととなる。

パレスチナ在住のアラブ人たちは、パレスチナの委任統治を行う英国に対して、ユダヤ人の移住制限と土地取得禁止、アラブ人の独立国家樹立等を要求して1933年ごろに反英活動としての色彩が目立つようになった。こういう状況下で対ユダヤの「バルフォア宣言」、対アラブ人の「マクマホン書簡」、対仏の「サイクス・ピコ条約」と3通りの約束をしてしまった英国は統一した考えや方針をどのように打ち出すかで、国内がもめた。

1939年5月に英国が示した白書は、アラブとユダヤの人口比を2体1とするパレスチナ独立国家を10年以内に承認することを提示した。

この人口比を保つため、ユダヤ人の移住が制限されることになり、ユダヤ人の自治権も認められていないこの白書にユダヤ人シオニストはもちろん、即時独立を叫ぶアラブ人も反対した。

つまり、ユダヤ人にしてみれば神との約束に従って与えられた、乳と蜜の流れる地であり、英国がバルフォア宣言で、「英国政府はユダヤ民族の郷土をパレスチナの地に置くことに賛成であり、ユダヤ人のこの目的達成を容易にするため、最善を尽くす。」と約束した地である。

一方アラブ人の立場からみれば英国がマクマホン書簡でメッカの太守フセインに独立王国を約した地である。

もしも英仏が支配者として乗り込んでくるならば、支配者がトルコから英仏に代わるだけのことであり、それはアラブ人が望む「アラブ人の独立王国」とは、およそ掛け離れたものになる。

また、ユダヤ人が神との約束というような旧約聖書の話を盾に取り、たとえその話が本当のことだったとしても、2000年近く前に喪失しているユダヤ人国家の宗主権の回復を主張するということは、イスラム教徒のアラブ人にとってはいかにも受け入れ難いものであった。

メッカの太守フセインの脳裏にあったのは「大シリア王国」の構想であった。

現在のヨルダン、シリア、レバノンにパレスチナ地方を合わせた、いわゆる「肥沃の三日月地帯」からイラクを除いた地域を一つの王国とする大シリア王国を建国しようというもので、マクマホン書簡の交換により、それは可能だという考え方もあった。

しかし、英国はフランスとの間のサイクス・ピコ条約を無視するわけにはいかず、この大シリア王国の樹立を承認しなかった。

英国の主導で第1次大戦後のメソポタミア地方は、英仏によって分割され、ヨルダンとイラクは英国の影響を受けながらも、独立王国としての地位を得たがパレスチナ地方は英国の、そしてシリアとレバノンはフランスの委任統治下に入った。

バルフォア宣言もマクマホン書簡も十分に守られず、パレスチナ地方を含む中東地域にまつわる問題はユダヤ人とアラブ人の双方に大きな不満を残しながら、第1次大戦終結時は、中東地方の英仏の力の存在によって、潜在化させられ、表面立った大きな騒動は起こらなかった。

だが、パレスチナ地方は肥沃な三日月地帯の一端を担う地方であり、ヨルダン川沿いの低地は、水利と温暖な気候に恵まれ、果樹や野菜の栽培に適し、重要な食料供給地である。

死海では製塩ができ、イェルサレムやジェリコーの周辺を中心に、中東では最も緑に恵まれた地域であるといわれている。

そして西は地中海に面し、南はアカバ湾に臨み、ヨーロッパとアジアの両方面への海の出口を持っている。

面積は約2万平方キロメートルの小さな地域であるが、中東地域では、比較的自然に恵まれており、勤勉に努力すれば、かなり豊かな生活基盤を築くことも可能な地帯である。

パレスチナに長い年月にわたって住みなれたアラブ人にとっても、2000年にわたって、この地に固執しつづけたユダヤ人シオニストたちにとっても、譲り難い地帯なのである。

このパレスチナの地は、第2次大戦後のアジア・アフリカで、ヨーロッパの植民地が、民族国家として独立する傾向を示し始めた、時代の潮流の中で、ユダヤ人の国家をこの地に再興する動きも活発になってきた。

そして、この動きはパレスチナをめぐり、ユダヤ人とアラブ人の熾烈な対立感情に火をつけ、第1次大戦以来潜在していた問題を顕在化させた。

パレスチナの紛争の遠因、近因

イスラエル人は、「パレスチナ地方におけるユダヤ民族の歴史の起源は、約3500年以前にさかのぼり、バビロニア帝国の時代にある。」と主張する。

その頃エジプトでは、紀元前1550年にアアフ・メス1世が第18王朝を開き、新王国時代の幕開けを見ていた。

そして紀元前1269年、エジプトの王メソポタミアに武威を誇っていたヒッタイトと和議を結んだが、紀元前1172年エジプト第19王朝が滅亡し、ヒッタイトも前後して亡びた。メソポタミア各地は分裂し、シリアの地を中心にユダヤのダビデやソロモンらがサウル王朝を樹てたという。

紀元前743年、アッシリアの勢力が強力な軍事力を背景にティグリス川上流域から急速に近隣に拡大し、ティグラトピレセル3世の時、メソポタミア一体を統一し、シリア・パレスチナ方面をも占領して、アッシリア帝国を建てた。

そして紀元前663年、アサルハドン王のとき、エジプトのメンフィスを陥れ、エジプトをアッシリアの属州とした。

しかし、その後ペルシャ人の勢力が伸びてきて、紀元前538年ペルシャの支配はエジプトにも及んだ。

このように、古来メソポタミアの地は、多くの民族や部族が、入れ替わり立ち替わり、支配と服属、興隆と滅亡を繰り返したが、その中にあって、ユダヤ民族だけが、多くの勢力の支配の間隙をぬって、民族的アイデンティティーを失わず、文化や宗教を維持しつづけ、パレスチナに単独のユダヤ民族の独立国を樹立した歴史を有する。

すなわち、「パレスチナの地に、民族の独立国家を建てた歴史を有するユダヤ人が、神の啓示によって、約束された乳と蜜の流れるパレスチナの住民になり得る。」というのがユダヤ人の主張である。

これに対して、アラブ人はこう主張する。

「アラブ人はユダヤの民が、パレスチナの地に移住してくる以前から、この地にあったカナン人の子孫であり、約4000年の歴史を持っている。」

メソポタミアの歴史は、紀元前3300年ごろにはシュメール人が農耕文明を形成し、紀元前3000年ごろになると都市国家が成立するようになった。

そして紀元前2500年ごろにはシュメール人のウル第1王朝が樹立され、かなり強力な勢力がメソポタミアの地に生まれた。古い時代のメソポタミアは北部をアッカド人、南部をシュメール人が支配していたが、紀元前2250年にアッカド人出身のサルゴン大王により、シュメール・アッカド王国が成立した。

紀元前1800年にはバビロニア帝国が成立し、有名な世界最初の成文法と言われる、ハンムラビ法典がつくられたのも、この頃であった。

これら諸勢力の子孫が直接パレスチナ在住のアラブ人というわけではないが、ユダヤ人が2000年も前の故事来歴を持ち出すのなら、こちらにも古い歴史があるのだというのがアラブ人の言い分である。

もう一つ、アラブ人指導者たちが、釈然としないのは、第1次大戦当時の英国によるマクマホン書簡初め多くのアラブ懐柔策とその裏切行為である。

ドイツ・オーストリア側に立って参戦したトルコに対応するために、マクマホンとメッカの太守フセインとの間に書簡が交わされ、「アラビア半島および地中海に沿った肥沃の三日月地帯のほぼ全域に、トルコ帝国の影響から脱した、、アラブの大王国を樹立する。」ことが双方の了解事項となった。フセインはトルコに聖戦を宣し、メッカやダマスカスを陥れた。

だが既に述べたように、英国はフランスとの間に、アラブ分割を約したサイクス・ピコ条約、ユダヤ人の資産家との間に、「パレスチナにユダヤ人の郷土を再興する」ことを約したバルフォア宣言を交わしており、フセインはアラビア半島の一部にヘジャズ王国樹立を認められただけであった。

英国の裏切りがなければ、パレスチナ、レバノン、シリア、ヨルダンからアラビア半島にかけて、大シリア王国として、アラブの世界が統一されていたはずであった。

この当時のアフリカ大陸や中東地域は、英国やフランス等のヨーロッパ諸国の都合により、歴史的国境線として長い歳月の間に自然な慣行で定まっていた部族の境界線は無視され、「あたかもバターナイフで切るように国境線が定められた。」のである。

トルコに対応するためだけではなく、ヨーロッパに対抗するイスラム勢力を弱め、ヨーロッパに従順で友好的なアラブ世界を作るため、当時の英国植民相チャーチルを中心に、アラブの親英的な勢力に多額の買収工作費が送り込まれた。

こういう英国の政策は一時的に、英仏による平和をアラブ世界にもたらしたが、第2次大戦後の中東の不安定や紛争の火種子の遠因となるものであり、4次にわたるパレスチナをめぐる、イスラエルとアラブの戦い、レバノン紛争、イラクのクウェート侵攻、シリアとイラクの対立等の事象は、多少なりとも、第1次大戦後の英仏のこのとき交わしたサイクス・ピコ条約やバルフォア宣言に起因する。

ブラック・アフリカ諸国も歴史的由来や自然発生的な部族間の境界線を無視し、「バターナイフで切るように」ヨーロッパ諸国が境界線を定めたところが多く、いずれの日か民族や部族の対立による流血の惨事が生起する可能性を内包していると言えよう。

イスラエル建国と紛争の勃発

第2次世界大戦はヨーロッパの会議室で世界の方向が定まると言われた、ヨーロッパによる世界支配に終止符を打った。

19世紀後半から、ヨーロッパとアジアの国際政治に、良きにつけ、悪しきにつけ強い影響を与えてきた日本とドイツが世界を相手として戦い、軍事的に敗北して一時期国際政治の舞台から下りた。

しかし、英国、フランス、オランダ等の西欧列強も米国の援助の下で名目的に戦勝国の座に着いたが、既に述べたとおり、その国際社会における政治的影響力を著しく低下させ、代わって米国とソ連が巨大な軍事力を背景に、国際政治の舞台の主役の座に着いた。

第2次大戦は、戦後のある期間日本とドイツを国際政治の舞台から、引きずり下りし、その役の全てを奪ったが、西欧もまた主役の座を失った。

中東方面に強い影響力を持っていた英仏の力が後退するとともに、アジア方面で日本軍によって、有色人種に対して白人が持っていた支配者あるいは御主人様としての権威が失意して各地に民族意識が勃興し、民族自決と独立国家樹立の機運が高まり、あじあ・アフリカ各地の、その後の歴史に微妙な影を投ずることになった。

パレスチナ地方も英仏の勢力衰退と米ソの登場により、第2次大戦後の歴史は大きな影響を受けた。

大戦中、ナチス・ドイツはドイツ本国だけではなく、その占領地でユダヤ人に対して激しい弾圧を加えたというよりは、老幼婦女子を含むユダヤ人を計画的に、情容赦なく大量に虐殺した。

シェークスピアの作品「ベニスの商人」に登場するユダヤ商人シャイロックはこの戯曲の中の主要登場人物中、ただ一人極端にいやな性格の人物として描かれ、悪役を与えられており、他の登場人物のアントニオやバッサニオ、その許婚者ポオシャ姫などがすべて立派な人柄に描かれているのと対比すると、ヨーロッパでは、ユダヤ人が各地で迫害されていたことは、想像がつく。

ただ、ヒットラーのように、ユダヤ民族を無差別に国家機関の手で抹殺しようとして、有名なアウシュビッツの強制収容所をはじめ各地の収容所で、大量に組織的に虐殺した例は、極めてまれな例である。

当然、ナチスの支配下に入ったヨーロッパ各地のユダヤ人の迫害を逃れ、パレスチナへのユダヤ人の移住は激増した。

また、移民の国アメリカでは、ユダヤ人の扱いは、この時代、日本や中国のような東洋系の人種に加えられた人種差別に比べれば無いに等しく、経済やマスコミの大きな部分をユダヤ人が制していた。

この米国在住のユダヤ人たちは、ナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺に刺激され、ユダヤ人が、流浪の民であることをやめて、自分自身の独立した民族国家を樹てることを目指して、活発な行動を起こした。

米国内で社会的影響力を持つ、ユダヤ人組織が当時の米国大統領のトルーマンはじめ、米国政府首脳に対して、世界各地で流浪の民としての生活を余儀なくされているユダヤ人と、ナチス・ドイツに弾圧されて各地の強制収容所に送り込まれたり、非難したりしているユダヤ難民の救済問題を解決すること、シオニストの目標達成を助け、可及的速やかにユダヤ人の祖国建設を実現することを働きかけた。

大国のアメリカが動き始めたことにより、シオニズム運動は加速されることになった。米国は1945年11月、米英合同パレスチナ問題調査委員会を現地へ送り込んだ。

調査委員会は、翌1946年5月、「ドイツ等にいる約10万人のユダヤ人の難民をパレスチナに移住させる。」こと、「パレスチナにおけるユダヤ人の土地取得の制限を撤廃する。」こと等を勧告した。パレスチナ統治は、従来は委任統治権を持つ英国の仕事であったが、この勧告は米英合同でなされており、しかも明らかに米国の考え方が色濃くにじみ出ている。

パレスチナ問題にも、大戦で国力を消耗した英国ではなく、大戦後の国際政治に大きな発言権を持つようになった米国が、大きな影響力をもって、かかわってきた。

パレスチナ在住の、アラブ人やユダヤ人の間には、この地が英国の委任統治領になって以来、反英感情がわだかまっていたが、大戦後は、反英闘争として顕在化しはじめた。

1946年5月の米英合同パレスチナ問題調査委員会の勧告を受けてから4箇月後の同年9月、英国はアラブとユダヤ双方の代表をロンドンに招き、円卓会議を開催することを提案した。しかし、ユダヤ人シオニストは出席を拒否し、一度は交渉のテーブルに着いたアラブ代表も、先に出された米英合同委員会の勧告に従って、「パレスチナにアラブ人とユダヤ人の連邦国家建設」という、英国の提案を拒否した。パレスチナ問題解決の方途を失った英国は、1947年2月、この問題を国際連合へ移管することを決定した。

移管を受けた国際連合は、1947年4月、パレスチナ特別委員会を設置し、委員の現地派遣を決定し、行動を開始した。

そして同年11月29日、国連総会は、「パレスチナ地方をアラブ人国家、ユダヤ人国家、イェルサレム特別国際管理地区に3分割し、1948年10月1日までに実現する。」という「パレスチナ分割決議案」を採択した。

この決議の採択は、米ソを含む33ヵ国が賛成し、13ヵ国が反対、10ヵ国が棄権するといった結果であった。

ソ連は必ずしもユダヤ人に好意的ではなくヒットラーのような虐殺こそなかったが、反ユダヤの動きがしばしばソ連国内には見られた。

当時のソ連にあって、絶大な権力を掌握し、血の粛清を行って、多くの反対の立場の人々を大量に処刑したり、僻遠の地へ追放して社会的に葬ってしまう等、後に厳しい批判を受けるスターリンも、ユダヤ人を嫌い、弾圧していた。

そして、このような国内の雰囲気を反映していたばかりでなく、中東に進出することをねらっていたソ連の国連代表団は、この総会に数箇月先立って開かれた、国連臨時総会では、アラブ諸国に歩調を合わせて、「分割案に反対し、パレスチナは統一国家として独立を達成すべきこと」を主張していた。

それだけに、この時、ソ連がパレスチナを分割する案に同意の票を投じたことは諸国を驚かせた。
この時のソ連の首席代表ヴィシンスキー外務次官は、「ヒットラーによって迫害されたユダヤ人が自らの祖国を持つことの人道的意義」を強調した。

国内のユダヤ人を以前から弾圧し、この後も弾圧しつづけ、独立後のイスラエルには一度も好意を示さないソ連が、このときだけイスラエル建国を支持した理由の深いところは、はっきりとしたものが今も明らかになっていない。

この頃、ソ連はイランのアゼルバイジャン州をイランから分離しようとして「人民共和国」を無理に作って失敗して不信をかっており、また一方では唯物主義哲学としての側面がイスラム教徒から嫌われるのか、マルクス主義が他の地域ほど中東の貧困の大衆に受け入れられなかったことも事実である。

中東地域に非アラブの、それもアラブ人の嫌う国家を建てることで一時はアラブの反感を買っても、反発を買うことにおいては、絶えずユダヤの立場に好意的であった米国や西欧諸国と同じ立場である。

イスラエルが一旦独立した後で再び反ユダヤの立場にもどれば、中東世界のアラブ民族主義に対抗して、この地域の既得権益を守るため、将来もイスラエルを支持しつづけるであろう米国や西欧諸国に対し、反ユダヤ、反イスラエルの姿勢を示すソ連が相対的に、アラブの支持を得やすくなる。

スターリンや当時のモロトフ外相がそこまで先を読んでいたという証拠はない。
しかし、以後の歴史をみると、ソ連はアラブ諸国の反イスラエル感情やイスラエルとアラブの4次にわたる戦争等を利用し、シリア、イラク、エジプト、リビア等と、かなり親密な関係を作り上げることに成功した事実がある。

パレスチナの地にイスラエルが建国せず、アラブ人の気に入った統一国家ができていたら、親ソ的な雰囲気は生まれなかったかも知れない。

逆に、米国や西欧に対する親密な雰囲気が常続的に存在しつづけたかも知れない。

歴史に「若しも」はないというが、イスラエル建国という出来事がなかったら、以後の4次に及び紛争はなく、別の形態の民族紛争や勢力争いが生起していたであろうことは確実に言えることである。

しかし、パレスチナの歴史は、この地にイスラエルが建国したという事実の上に第2次大戦後の流れを刻することになる。

1948年5月14日をもって、英国の委任統治は終了した。同日夕刻の16時、イスラエルの初代首相ベングリオンはテルアビブで宣言文を読み上げた。

この時のイスラエルのユダヤ人の人口は約65万で、パレスチナの全人口の約30パーセント、土地の所有は、パレスチナ全土の5パーセントあまりでやっと統計的に優位性が認められる程度の僅かなものであった。

しかし、この宣言の時を境に国連の決議によりユダヤ人の支配地はパレスチナの約57パーセントになったのである。しかし、ユダヤ人の人口は増大するわけでなく、圧倒的多数のアラブ人の中に孤立した国家であった。

後にイスラエルの首相になる、ゴルダ・メイア女史は、この年の春、米国を訪れ、米国在住のユダヤ人から5000万ドルの武器購入のための資金を得ていた。

しかし、老人、婦人、幼児まで合わせても約65万人という、ユダヤ人の人口はパレスチナに住むアラブ人の三分の一以下であり、パレスチナ周辺のアラブ諸国が、アラブの大義を旗印に攻撃して来たら対抗できるか否か、極めて大きな不安要素であった。

パレスチナ周辺のアラブ諸国による攻撃は、5月14日夕刻のイスラエル建国の祝典が終わるか終らないうちに、14日夜のエジプト軍の空爆を合図に開始されたという。

アラブ諸国軍の侵攻の報を受けた各地のユダヤ人たちは、建国祝賀の会場から、あるいは家庭や農場から、老若男女を問わず直ちに戦場に赴いたという。
子供も婦人も、老人も、「二度と再び流浪の民にはならない。」と、誕生して間もない、2000年間求めつづけた祖国の生き残りをかけて、死に物狂いの戦いを行った。
語り伝えられるところによると、ある場所では普通の主婦が、幼児を側の土のうの陰に寝かせて夫と共に戦い、年長の小学生が止むを得ない場合に大人を助けて、伝令、給食、小銃弾の運搬を手伝ったという。

通信兵の役割を担ったハイティーンの少女たちが、敵の機甲部隊の攻撃を受けつつあり、自身の周辺にも猛火が迫っていることを報告しながら、連絡を断った例も報告されている。

また、対戦車砲がないため高射砲の水平射撃で対抗した例もあったという。

65万人のユダヤ人のうち、幼児と病人以外は、ほとんど全員がユダヤ人のアイデンティティを強く抱いて、「負けたら自分たちは祖国を失い、また流浪の民になる。」と、必死に戦ったといわれる。

この戦いを第1次パレスチナ戦争と呼ぶが、イスラエルの独立をかけた戦いであるところから「独立戦争」とも称する。

この戦いの帰趨についてみると、イスラエルは国際連合が当初ユダヤ人国家として割当てた地域よりも面積にして約50パーセント広い地域を獲得して休戦したが、この結果はユダヤ人とアラブ人の戦闘能力や軍の強弱の差よりも、両者のモラルの差、特にリーダーのモラルと能力の差によってもたらされたといえよう。

もう一つ無視できないのは、ユダヤ人とアラブ人の教育水準の差がある。
祖国を持たなかったユダヤ人は国家の保護に依存できないので、自分の能力と富の力以外に頼るすべがない。
したがってユダヤ人たちの親は、可能な限り高い教育と厳しいしつけを子供に与え、幼児のうちから、「我慢して耐えること」と、「他人の力に依存しないこと」を徹底的に教え込むと言われる。

こういう気質のユダヤ人は兵器の操作法や指揮官の企図するところについての、飲み込みが早く、教育訓練の成果が短期間に上がる優秀な兵士の素質を持っていた。

また、「ここで負けたら祖国を失う。」という共通の危機感は、世代、性別、職業、信条のすべてを越えてユダヤ人の心を、見えないが、しかし極めて強い一本の糸で結びつけており、これがユダヤ人のモラルを高めたことは明らかで、老幼婦女子までもが勇敢に戦闘に参加したゆえんのものであろう。

このように、パレスチナをめぐるユダヤ人とアラブ人の対立は1948年5月15日以降、イスラエル対イスラム諸国の戦いという様相を帯びるようになった。

パレスチナの戦争は、1948年に戦われた「独立戦争」を第1次として以後、1956年の「スエズ戦争」、1967年の「六日戦争」、1973年の「十月戦争」というように4次の戦いが断続的に生起しているが完全な平和は、2015年現在まだ訪れず、中東地域は世界で最も不安定な地域の一つであるといってよい。

しかも、アラブ人以外のイスラム教の諸国、例えばパキスタン、バングラディシュ、マレーシア、インドネシアその他のアフリカ諸国にも、反イスラエル感情が存在し、国際政治や国際的行事にも影を投じている。

一例を挙げるならば、かって「アジア五輪大会」でジャカルタが開催地となったとき、インドネシアはイスラエル選手の入国を拒否したし、湾岸戦争のとき、これらアラブ以外のイスラム教国の大衆も、イラクのフセイン大統領が、パレスチナ問題と結び付けて、「アラブの大義」を説いた強引な論理に同調的であった。

パレスチナ現地ではイスラエルとアラブの撃ち合いは今はやんでいる。

しかし現在の見かけの平穏だけでは、国際政治に思いもかけない複雑な波紋を生ずる原因を温存していることになるので、早い解決が望まれる。

しかし、それは言うべくして困難なことであり、21世紀に長く持ち越されることとなった。

パレスチナの戦争概観

既述のとおり、1947年11月29日の国連総会で、パレスチナ分割案が採択され、イスラエル建国の根拠が与えられたが、この時国連に加盟していたアラブ6ヶ国は反対した。

またパレスチナ在住のアラブ人たちも当然反対し、ソ連が反対に回ることを見越したユダヤ人共産主義グループも「シオニズムに基礎を置く、ユダヤ人の国家を建設することに反対し、アラブ人とユダヤ人の階級的連帯による統一パレスチナの独立」を主張して、分割案に反対していた。

このパレスチナ分割案がソ連の賛成をも得て採択されると、翌年5月のイスラエル建国を待つまでもなく、パレスチナ内部でアラブ人とユダヤ人が武器を取って激しい争いを始めた。

ユダヤ人の過激派は、地下組織のハガナイやイルグンを作り、アラブ人はエジプト、シリア、イラクから志願兵の支援を受けて両社は武力テロを応酬し合った。

中でもユダヤ人組織のイルグンのテロは激しく、イスラエルの建国宣言を翌月にひかえた、1948年4月エルサレム近郊のデイルヤシンという村落を襲撃したときは、250人ほどのアラブ人一般大衆を惨殺し、パレスチナ在住のアラブ人をパニックに陥れた。
この事件は、アラブ人のイスラエルからの脱出のきっかけを与えた。

第1次中東戦争前後に、周辺のアラブ人国家へ逃げ込んだアラブ人が、パレスチナ難民として、今なおPLO等の下にイスラエルという国家を敵とみなし、イスラエルによって占領されている、パレスチナの地へ復帰することを主張している。

パレスチナ難民はアラブ人同士ではあっても、ヨルダンやシリア等の流入先で必ずしも、各国の市民として同化してしまうことをせず、難民キャンプにとどまり、子供や孫に対して、「出生地はここだが、故郷はパレスチナである。」という教育を反復し、パレスチナ難民のアイデンティティや反イスラエル感情は、世代交代や歳月の経過によっても、思いの外色褪せずに継承されている。

(1)第1次中東戦争(独立戦争)

ペングリオン首相がイスラエル建国の宣言を行った翌日の1948年5月15日、このようなパレスチナ内部のユダヤ人とアラブ人の争いは、イスラエル対アラブ諸国の本格的な戦争に発展した。

エジプト機の侵入は、建国宣言のあった14日夜にも伝えられ、アラブ諸国軍の侵攻は、時間の問題であったが、15日朝エジプト空軍のテルアビブ空襲を機に、地上からエジプト、シリア、ヨルダン、イラクの軍が一斉に、パレスチナに進軍を開始した。

兵力において圧倒的に劣勢なイスラエルはアラブ諸国軍に四方から圧殺され、誕生すると同時に消滅してしまうかと思われた。

ところが、エジプト、ヨルダン、シリア等の諸国が、パレスチナ進軍の際に、それぞれ違うことを考えていたことと、軍のモラルが低かったのに対して、イスラエルは既述のとおり、子供から老人まで、男女を問わず、事態の重大なことを認識しており、敗れれば流浪の民に戻るのだということを感じながら、死を決して反撃した等の事情が、戦争の帰趨を決定づけた。

まずヨルダン川の東から、アラブ人国家の領域として国連から割当てられたヨルダン川西岸へ進攻したヨルダン軍に変化が生じた。

ヨルダン川西岸に進攻してみたら、そこはヨルダン川の水利を生かした肥沃な農業地帯であり、ユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとっても聖地である、イェルサレムがある地域であった。

当時のヨルダン国王アブドゥラ王は、この地域をヨルダン領に加えることを考えた。そのためには、将来のことはいざ知らず、当面はイスラエルを抹殺してしまわずに、休戦し、休戦ラインという名目で実質的なイスラエル・ヨルダン国境を策定するのが最良の策である。

すなわち国連はヨルダンにパレスチナの地は寸度たりとも与えておらず、イスラエルを滅ぼせばヨルダン川西岸の占領地は、パレスチナのアラブ人に帰属させて、ヨルダン軍は撤収しなければならない。

アブドゥラ王は急遽イスラエルと秘密裏に交渉を開始し、翌年7月、アブドゥラ王は、ヨルダン西岸の大半を、休戦ラインの内側に収め、実質的なヨルダン領編入に成功した。

この第1次パレスチナ戦争で、後にイスラエル国防相として勇名を轟かせるダヤン少佐はシリア方面の戦線で火焔びんで戦車と戦いシリア軍撃退に大功を樹てていた。
一方エジプトと接するガザ地区の戦線に、後のエジプト大統領となるナセル少佐がいたが、ヨルダン方面とシリア方面の戦線が一応の目鼻がつくと、イスラエルの反撃はエジプト方面に集中し、一度は侵攻を許したネゲブ砂漠からエジプト軍を撃退し、ガザ地区やシナイ方面へ向かって逆に撃って出た。

結局エジプトは1949年2月、単独でイスラエルと停戦した。
ヨルダンは後のイスラエル首相となるメイア女史を相手に2回にわたる秘密交渉を行った末、前述のとおり7月に休戦を約したが、最も強硬に戦う意志を持っていたシリアもヨルダンと同じ頃、停戦した。

ところが停戦になってみると、ヨルダンはヨルダン川西岸を、エジプトはガザ地区を占領下に置き、イスラエルもアラブ人に割当てられた地域のかなりの部分を占領して国土の領域を、国連の当初の割当てた地域より約50パーセント拡張するという結果となり、パレスチナのアラブ人地区は事実において消滅してしまった。

イスラエルの支配下から周辺アラブ諸国へ逃れたアラブ人はパレスチナ難民となり、以後の世界の大きな問題の種子となったことは既述のとおりである。

この戦いの結果から見る限り、イスラエルというユダヤ人国家が、当初の国連分割案より、大きな領域を獲得して、独立国家として存続できたのに対して、パレスチナのアラブ人割当地区が消滅したので、第1次中東戦争(独立戦争)は、アラブ側が敗れたというのが一般的見方である。

(2)第2次中東戦争(スエズ戦争)

第1次中東戦争で、見かけの兵力が圧倒的だったにもかかわらず、アラブ軍が敗れたことについて、当時エジプト軍の少佐で参加していたナセルは、腐敗したファルーク国王らの政府の責任と考えていた。

当時のファルーク王は、歴史的にエジプト人よりも、アルバニア人やフランス人の血統を引いており、エジプト国民との間に精神的結合は極めて稀薄であり、国王という地位は、単に「富」と「権力」を手にする手段でしかなかった。

現在のヨーロッパやアジアに存在するロイアル・ファミリーは日本も含めて、長い歴史的経験の中で、その権力は名目的なものとなり、その一方で権力と権威を分離し、国家の統一、国民の精神的統合の中心としての象徴的権威として、「歴史の連続性」、「社会・政治・文化の継続性」・「統治機構の正当性」の面で、実際問題として共和政体では発揮することが非常に難しい機能を比較的容易に発揮し、政治的・社会的安定に優れた効用があると評価されている。

しかし、これはあくまでもロイヤル・ファミリーに政治的な実権を伴わない、議会制民主主義と和合した立憲君主制の場合である。

当時のエジプト、ヨルダン、イラク等の国王は、極めて強い政治的権能を有しており、しかもロイアル・ファミリーの歴史が浅く、国民の間に英国やベネルックス3国あるいはスカンジナビア3国、若しくは日本やタイのロイアル・ファミリーのような権威がなく、君主政体の有する長所よりも、短所ばかりが目立った。
ヨルダンだけはマホメットの血統ということをアピールしながら、王家を存続しているが、国王暗殺や国王と軍の争い等で、幾多の危機があった。

しかし、エジプトでは1952年7月23日、ファルーク王が、ナギブ少将を担ぐナセルらの自由将校団により追放され、1953年6月共和制となったが1958年7月14日にはイラクで陸軍のクーデターが起こり、ファイサル国王やイラー皇太子らが殺されて、王政が崩れた。

エジプトでは1954年4月17日、ナギブも権力の座を降り、ナセルが登場した。
ナセルは貧しい農民に土地を与えようと努力したが、エジプトには可耕地が乏しく、ナイル川の水を利用して大規模な農地造成が必要であった。

つまり大地主の土地を没収しただけでは、必要な農地の10パーセントぐらいしか充足できなかったといわれる。

ナセルはナイル川上流にアスワン・ハイダムを建設し、可耕地を拓くとともに電力もまかなうことを考えた。
ナセルは、このダムを建設するための膨大な資金を米国から調達することを考え米国も1955年12月17日7000万ドル供与を約束したが、エジプトの財政が極度に悪化していたことと、アラブ民族社会主義を掲げるナセルが、従来の西欧によるアラブ支配から急いで脱するために、ソ連と接近して武器の購入について交渉を持っていることが障害となった。
米国は「エジプトの財政の、特に外貨に関する発言権」と「ソ連圏との武器取引中止」を、資金提供の条件とした。

この条件は、エジプトの財政と外交への介入であり、主権の侵害になりかねないものであり、民族主義者でもあったナセルは、当然に拒否し1956年7月19日、米国は借款供与を撤回してしまった。だが、産油国でないエジプトは他にダム建設資金調達の方策がなかった。

しかし、ナセルは「ダムを自力で建設するためには、あらゆる手段を尽くす。」と語り、1956年7月26日「スエズ運河を国有化し、運河収入はアスワン・ハイダム建設の資金に充当する。」ことを明らかにした。
当時エジプトはスエズ運河会社から、運河収入の7パーセントを支払われているだけであり、ナセルの運河国有化宣言は、エジプト国民に熱狂的歓迎を受けた。運河の株の大半を保有する英仏は問題を国際会議にかけた上で、運河を国際管理して、収益はエジプトと折衷することを提示したが、ナセル大統領の国有化宣言の後では、いかにも遅過ぎた。結局、運河国有化は強行された。

英仏は問題を国際連合の場に持ち出して、国際化を図りながら、イスラエルと秘密裏に対応策を打ち合わせた。
10月29日、アジア方面からの物資輸入に支障を生ずることを恐れ、イスラエルがエジプトを攻撃し、運河地帯へ進撃した。
翌30日、英仏はエジプト・イスラエル双方に「戦闘をやめて運河の両岸から、夫々10マイル撤退し、エジプトは運河の通行を保障するため、英仏軍が運河地帯に駐留することを認めよ。」という、最後通牒を発した。イスラエルは直ちに受諾したが、エジプトは当然に拒否した。英仏軍はエジプトの拒否を理由として、10月31日から11月4日にかけて、爆撃してエジプトの空軍の機能を奪った上で、空挺部隊を運河地帯へ送り込んだ。

しかし英仏の行為は、米ソを含む多くの諸国から非難され、従来から英国と共同歩調を取ることが多かった、オーストラリアをも含む英連邦諸国すら反対し、国際的孤立の中で失敗に終った。

ナセルは戦闘そのものには大敗したが政治的には勝ったと評されているが、11月6日英仏と停戦し、11月15日には国連軍が紛争地帯に入った。英仏の勢力はこの戦いを機に、中東地域から一掃され、ナセルの威信は高まった。

そして中東地域は英仏に代わって米ソが直接、勢力をぶつけ合う地域になり、かつてのバルカンを思わせる、世界の火薬庫のような地域と化した。なお、アスワン・ハイダムも紛争が収束した後に建設され、「ナセル湖」と命名されており、ナセルはこの面でも実をとった。

(3)第3次中東戦争(六日戦争)

既に述べてきたところからもわかるとおり、イスラエルは建国の当初から「イスラエルという国家の存在そのものを認めず、世界地図からイスラエルを抹消するまで戦う。」と主張する、アラブ諸国に囲まれており、現在の国境というのは、休戦ラインでしかない。

このライン附近にはヨルダン川やガリレー湖、チベリアス湖などがあり、イスラエルにとってもアラブにとっても重要な水資源の供給元となっていた。

ところが、アラブ諸国にとっては、自分たちがヨルダン川等の水利を自分たちに好都合に使うことは善いことであるが、イスラエルに好都合を与えることは、不善をなすに等しいことである。いきおい水利権の確保に際しては、相手に対する思いやりなどの配慮があるわけもなく、水路の付け替えなどについての事前の調整なども行われない。イスラエルが入植開拓の精力を傾注しているところの上流で、シリアは勝手にシリア・ヨルダン方面へ水路を変更しようとし、イスラエルが爆撃でこれを阻止するということもあった。

ヨルダン方面でも1965年から翌年にかけてアルファタなどのパレスチナゲリラに対しイスラエルのテロが頻発し、イスラエルの報復テロも盛んに行われた。

1966年11月、ヨルダン占領下のヘブロン附近の3ヶ村に対して、イスラエルの激しい報復があり、国連安全保障理事会もこれを非難したが、この時のヨルダンの対応がイスラエルに甘かったという、批判がアラブ諸国から起こった。

パレスチナゲリラは、この機にエジプトが立って、第3次の対イスラエル戦争に入ることを期待したのであるが、ナセルは動こうとしなかった。パレスチナゲリラは、ナセルの持つ権威に正面から挑むことができないので、その不満をヨルダンに向けた。

パレスチナゲリラに国境警備が怠慢だったと批判されたヨルダンは、エジプトやシリアこそヨルダン川西岸を犠牲にして、イスラエルと妥協しようとしていると反論した。

特にエジプトに対する矛先は厳しく「スエズ戦争以来シナイ地区に駐留している国際連合軍に庇護されて、ぬくぬくとしている。」と批判した。当時、エジプトがチラン海峡とガルフ湾のイスラエルの利用を取り締まらないことに対する、アラブ諸国の批判もありアラブ世界におけるナセルの人気に陰翳が生じかけていた時であったから、ヨルダンの批判に対してナセルは何らかの行動を起こす必要を感じた。

当時も今も、イスラエルの背後には、米国があって陰に陽に助けているが、このような米国の動向に対して中東に勢力を展張しようとしていたソ連は対抗上からもイスラエルに反対し、アラブを助ける姿勢が目立っていた。

ナセルの権威が低下する気配が見え、アラブ諸国間にも微妙な亀裂が生じかけたのを見たソ連は、ナセルに武器援助を約して、イスラエルに強い態度をとるよう煽ったと伝えられる。

事実、エジプトに向けて第3次中東戦争の前後に、ソ連の大型輸送機が高高度でトルコ上空を横断して武器を空輸したらしいことが指摘されているが、発覚すれば国際法上の問題になりかねない行為であった。また、イスラエルが鹵獲したエジプト軍の兵器はソ連製が大半であったことも明らかになっている。

ソ連の後ろ盾を得たナセルは、1967年5月18日、ガザ地区とシナイ半島から国連軍を撤収するよう、国連に要請した。当時のウ・タント国連事務総長は「この結果、パレスチナに戦火が再燃する懸念が大きく、エジプトの要求は遺憾である。」との意志を表明しつつ、この要請に応じた。ウ・タンと事務総長が懸念したとおり、国連軍撤収後の空白をうめるように、パレスチナゲリラが流入してきた。

イスラエルは、シリア、ヨルダン、エジプトの3方面をパレスチナゲリラに包囲された恰好となった。アラブ諸国やソ連の動向から見て、各方面からのイスラエル同時攻撃の可能性が出てきたが、そのことを恐れたイスラエルは先制攻撃を決意し、1967年6月5日戦端を開いた。

兵力量で圧倒的に劣勢だったイスラエルは6月5日午前7時45分を「H-hour」として練習機を含む、航空兵力の約90パーセントを11ヵ所のエジプト空軍基地攻撃に指向した。ソ連製軍用機で装備を固めていたエジプト空軍も大半が地上で破壊され、開戦第1日で空軍力の80パーセントと地上施設の多くが喪失し、空軍としての機能を奪われた。

シリア、ヨルダンも航空基地を集中的に破壊されたが、その結果地上からの官制や誘導に依存するところが大きく、推測航法をはじめ、搭乗員個人の航法能力の低い、当時のアラブ空軍は無力化してしまった。

短時間で制空権を確立したイスラエルは、地上戦でも戦果を拡大し、エジプトの戦車約1000台のうち70パーセントを破壊または鹵獲し、兵員についても戦死約1万1000人、捕虜約6000人の損害を与えた。戦車を含む各種の武器・装備品がイスラエル軍に奪われ、エジプトは地上でも戦力の約80パーセントを喪失したと伝えられ、イスラエル軍はスエズ運河の東岸に至るシナイ半島全域を占領した。

イスラエルはヨルダン川方面でも約4万5000人のヨルダン軍を壊滅させ、ヨルダン川西岸のパレスチナ・アラブ人地区全域を占領した。ヨルダンは第1次中東戦争で、アブドウラ国王が手中に収めた地域をすべて失い、ヨルダン川東岸の本来のヨルダン領内へ退いた。

シリア方面ではシリア軍約3万人が全滅して、ゴラン高原はイスラエル軍に占領された。

開戦6日にして決着がついたこの戦争を、「六日戦争」とも称するが、エジプトのナセル大統領は、大敗北の責任をとって辞任を決意した。しかしエジプト国民のナセルに対する信頼は厚く、自然発生的な「ナセル辞任反対」の大衆運動が起こり「ナセルよ、我々を見捨てるのか。」とプラカードを押し立てた大群衆の声の前に、ナセル辞任は撤回された。

当時来日中のエジプト人女子大生も「我々はナセルのやり方に満足しているわけではない。しかし、誰が祖国のために命をかけているかを、我々は知っている。」と述べている。

この戦争の後、ナセルはソ連に接近し、ソ連に軍事基地を提供し、非同盟政策は放棄された。

(4)第4次中東戦争(十月戦争)

ヨルダン川西岸の地域を失ったヨルダンは、イスラエルとの間に勝利の見通しの立たない戦争をいつまでも続けて、戦いがヨルダン川東岸にまで及び、ヨルダン本来の国土が戦場になったり、イスラエルの保障占領下に入ることを恐れねばならない状態となった。

また、ヨルダン国内の政治的安定のためにも、パレスチナゲリラの組織であるPLOがヨルダン領内に存在することは望ましくなかった。
ヨルダンはPLOをシリア、レバノン方面へ武力で追放し、ヨルダン・PLO間が険悪になった。ナセルは両者の調停に努め、停戦協定を妥協させたが、その翌日、過労のため心臓発作で急死し、サダトが後継大統領となった。

1970年にナセルの後を継いだサダトは、ナセルと比較すると、権威において及ばなかった。当初、ナセルが既に受諾していた米国のロジャース提案に従って、イスラエルに目立った軍事行動を控えていたが、自己の権威を強め、立場を固めるためにも、秘かにシナイ半島の失地回復の機をねらっていた。

1973年10月6日はユダヤ教のヨム・キプール(Yom Kippur)という祭日で、ユダヤ人の多くは断食中であったといわれる。この日、エジプト駐在の各国駐在武官も気付かなかったといわれるほど、厳重に企画を秘とくして、演習を装ったエジプトとシリアの軍は、イスラエルの奇襲を行った。

強硬姿勢が目立っていたシリアには、イスラエルも備えていたが、シナイ半島方面ではエジプト軍の奇襲が成功した。

しかしエジプト軍の補給線が伸びるにつれて、大部隊の進撃速度は鈍化し、イスラエル空軍機による対地攻撃は、砂漠では対艦航空攻撃と同様に有効に作用した。

10月10日以降、イスラエル軍は守勢から反撃に転ずる。シャロン将軍率いるイスラエル軍3個師団が、スエズ運河を渡り、スエズ・シティーを占領し、エジプト軍主力の後方を断ち、シナイ半島の砂漠地帯に孤立させることに成功したとき、形勢はほぼ逆転した。

結局、アラブが奇襲によって緒戦に獲得した、見せかけの勝利が崩れないうちに、停戦合意がなったので、エジプトはシナイ半島のエジプト本来の領土を回復し、4次にわたるパレスチナをめぐる、イスラエルとアラブの戦いで、唯一つの「アラブの勝利」と喧伝された。

しかし、この戦いの後、一時的に勝利に酔ったエジプトで、長い戦いに大衆は倦み疲れ、国内の食料不足をはじめとする消費経済の貧困に対する不満が街頭におけるデモンストレーションとなって表れ、エジプトに政策変更の端緒を与えた。

この戦いでは、アラブ産油国が石油を武器として、米国、ヨーロッパ、日本等に対してアラブ支持を強く求める、いわゆる石油戦略を発動して、国際政治に大きな影響を与えた。

戦術的には、イスラエルが海上戦闘でミサイルを用いたことと、航空作戦において見せた巧妙な電子戦が目を引いた。

先述のようにこの戦争を機に、エジプトは従来の政策を変更して国内経済を建て直し、パレスチナをめぐる戦いに倦んで、ともすれば社会不安を起こしがちな民心を収束させるため、貧しいソ連よりも豊かな米国へ接近した。

そして米国の周旋によって、イスラエルと講和し、米国の資金とイスラエルの技術の供与を受け、ナイル川の水をサイフォンでスエズ運河の下を通してシナイ半島へ導き「シナイの緑化」、「シナイの農地化」に着手した。

一方、ヨルダンも先述のとおり、戦火がヨルダン川の東岸へ波及することを恐れて、既にイスラエルと戦う意欲が大幅に低下していた。

パレスチナをめぐる戦争は、エジプトとヨルダンが当面イスラエルと戦う気持ちに欠けるので、米国の影響力の下に、戦争によらぬ手段で解決される可能性も出てきた。

強硬派のシリアも一国でイスラエルと戦う力はないので、パレスチナは不安定要因をはらみながらも、暫時平穏を保つことが予想された。

 レバノン紛争

先に、ヨルダンがPLOを国外追放し、彼らがシリア、レバノン方面に逃れたこととナセルの調停でヨルダンとPLOの停戦したことについてふれた。

レバノンはフランスの手を離れて独立した後、徹底した中立策をとり、繁栄してきた。

その結果、PLOのレバノン国内での存在や活動も、一切を黙認する姿勢をとることとなった。
だが、PLOがイスラエルに対するテロ活動を計画し、レバノンから行動を起こすことを容認することは、シリアやヨルダンと単に休戦しているだけのイスラエルから見れば、国際法上は明白なアラブへの加担という見方が可能である。

そのような問題点を内包した微妙な状況下にあった1972年、ミュンヘン・オリンピック大会の選手村で、多くのイスラエル選手がPLOのテロで生命を失った。イスラエルのテロ対策は、「テロによって受けた損害は必ずそれ以上に大量のテロで報復することによって、相手に思いとどまらせる。」というものである。

イスラエルはレバノンの首都ベイルートにあるPLO本部に特殊部隊を送り込み、白昼この大量報復を行い、多数のPLO幹部を殺害した。

周知のとおりレバノンは宗教のモザイク国家であり、フランスがレバノンを独立国にして立ち去るときに、キリスト教徒優位の政治・行政システムを残して行った。しかし総人口に占めるキリスト教徒の比率は必ずしも多数派ではない。

そこで、妥協策として大統領以下の要職を宗派ごとに、次のように割り振った。

「宗派による要職一覧表」
大統領 キリスト教マロン派
首相 イスラム教スンニー派
副首相 キリスト教ギリシャ正教
国会議長 イスラム教シーア派
同副議長 キリスト教ギリシャ正教
国軍総司令官 キリスト教マロン派
国軍参謀総長 イスラム教ドゥルーズ派

ところが、キリスト教徒はユダヤ教に対して、歴史的理由により好意的であり、イスラエルに同情的で、PLOのテロ活動に反発していた。

そのためイスラエル特殊部隊がベイルートで白昼、PLO本部を襲撃してPLO幹部を多数殺害しても、ある種の共感を抱いて、これを眺めていた。

つまり、キリスト教徒の大統領も国軍総司令官も、この事件を傍観して取り締まらずに見逃そうとした。

これに激怒したイスラム教徒のサラーム首相は、大統領とゲイネム国軍総司令官に対して、イスラエルの報復行為をやめさせる措置をとるように、あるいは要請し、あるいは命令を行ったがいずれも無視された。

サラーム首相はこれに抗議して辞任したので、政府部内は分裂して政情不安となり、たちまちレバノン全土で、宗派を背景とした争いが起こった。

争いはキリスト教徒とイスラム教徒の争いの様相を呈し、この争いにPLOが加わってきた。

将校の多くがキリスト教徒のレバノン国軍は、PLOを武力攻撃して、イスラエルと同様の立場に立った。ここに至ってレバノン国内の騒乱は、本格的内戦へ発展した。国内の破壊は徹底的なものとなり、社会は混乱を極めた。いずれの宗派も勝たずしかも負けず、統治能力を持った勢力が育たなかった。

つまり革命やクーデターであれば、好悪の別はさておき、一応統治組織というものができる。すなわち国家としての要件である、「領土」、「国民」、「統治機構」と「国際法を守る明白な意志」がとにかく存在するが、レバノンの場合は統治機構の存在が有名無実となり、国際法順守どころか、国内の法的秩序すら喪失してしまった。

欧米の政治学者や評論家の中には、レバノンのこうした状態を「国家の死滅」という言葉で表現した人もいる。

このような無秩序状態のレバノンに、隣国のアラブ強硬派で知られる、シリアが軍事的に介入し、キリスト教徒優位の体制は形骸化した。
これをイスラエルから見ると、イスラエルに好意的なキリスト教徒が支配する、極めて安全な中立国だった隣国が、最も危険なシリアの同盟国に化したことになる。
国際法上も、イスラエルとシリアは休戦はしているが、準戦争状態であるから、シリア軍の大々的な介入と駐留を容認しているレバノンは敵性地域となる。

レバノンの中立性は否定され、イスラエルは、シリアに準じて緊急避難や正当防衛のための武力行使を、シリア軍が所在するレバノンの各地に対して発動することは、ある程度許容される。

この許容される限度は、結局イスラエルが判断することとなる。1982年、遂にイスラエルはレバノンに武力介入して、レバノン国民の意志に関係なく、もっぱらイスラエル対シリアという形の戦いが断続し、レバノン紛争は発端となる事件から20年有余の歳月を経ても未解決の状態となった。

イラン・イラク戦争

1975年、イランのパーレビ―国王とイラクの当時の副大統領(後のフセイン大統領)、との間で締結された「アルジェ協定」は、従来シャトル・アラブ川のイラン側の岸にあった、両国の国境を、イランがイラク国内のクルド族の反政府活動を支援しないことを条件に、同川の中央とすることを約するものであった。

国際法の原則に拠る限り、この国境線変更は当然であるが、イラクの立場から見れば、イランに対する譲歩であった。海に面した良港を持たず、ペルシャ湾への出口をシャトル・アラブ川に全面依存しているイラクにとって、この国境線変更に対する不満は相当に大きかった。

ところが1978年12月、パーレビ―国王の近代化政策が失敗して、反国王デモが激化し、翌1979年1月にパーレビ―王朝は崩壊し、フランスに亡命していた、イスラム教シーア派のアヤトラ、ホメイニ師が帰国してそのカリスマ性のもとに、イスラム共和国へ変質した。

ホメイニ師の反近代化政策ともいえる政治により、イランの国軍の装備や将校の質は低下し、インテリ階層は大量に国外へ逃亡した。1980年1月にイランは米国大使館人質事件を起こし、米国はやがて国交を断交してしまった。

イラクのフセイン大統領は、イランは政治的にも軍事的にも弱体化したと判断し、9月に国境線をアルジェ協定以前にもどすだけでなく、シャトル・アラブ川のイラン側でアラブ系住民が多数居住している地域を要求してイランに侵攻した。

しかし、イランはホメイニのカリスマ性の下で、国民が犠牲を顧みず善戦した上、イラクに協力すると思われたアラブ系住民も、イランが、イスラム教とアラビア文字をアラブ人と共有していたため、世代交代を重ねてイラン人と自然に融合しており、イラク軍に冷淡であった。

一時はイラン領内に約50キロメートル進攻したイラク軍は、ホルムシャハルを陥し、アバダンを包囲したが、補給線が伸び切ると、次第に押し返され、1981年9月、アバダン攻略をあきらめて、包囲を解き、1982年6月にはホルムシャハルから撤退して、自国領内へ退却した。

イラクは急遽、停戦を提案したが、イランはフセインの辞任と賠償を条件に示して、これを拒否し、逆にイラク領へ侵入し、一時期50キロメートル侵入したが、イラクの化学兵器使用により再度、国境付近に押しもどされて膠着状態となった。

その後イランは、財政悪化と国際的孤立による苦境を打開するため、高齢のホメイニのカリスマ性が利用できるうちに急遽停戦を約したが、講和条約は交渉が難行した。

ところが1990年8月、イラクがクェートに侵攻し、国連安全保障理事会では、ソ連を含む諸国がイラクのクェート侵略に対して、武力を含む制裁措置を決議し、アラブ諸国の中にも、多国籍軍に参加する国が出る状況となり、急遽シャトル・アラブ川の中央を国境とすることでイランと講和した。

双方で百万人ほどが死亡し、多くの財が失われたイラン・イラク戦争は約10年を経て、戦争前と同じ国境線とすることで、決着した。

ベトナム戦争

ベトナムの近代史概観

インドシナ半島は、古来、中国人の支配や文化の影響を受け、一時期漢字が用いられ、また元号も用いられていた。
十二支は今も「牛」が「水牛」に、「兎」が「猫」に、「羊」が「山羊」に、そして「猪」が「豚」に変わっているが残っている。

必ずしも漢字がなくてもよい分野には、中国の影響が残っているのである。

箸を用いる日常にせよ、その服装にせよ、中国文化の圏内にあることは、否定できない。

だがその歴史は、中国に対するベトナム人の反抗の歴史でもあった。

ところが19世紀には、一足先に産業革命をなし遂げた欧米列強によるアジア・アフリカの分割が盛んとなり、東南アジアから西アジアにかけて、西欧諸国の蚕食が進んだ。

インドシナは、中国の属国のような形ではあったが、14世紀から18世紀にかけて、ランサン王朝が存在し、これが北部のルアンプラパン王朝と南部チャンパーサック王朝に分かれ、チャンパーサック王朝から更にビェンチャン王朝が分かれた。

これら王朝は、ベトナム、カンボジア、ラオスに、比較的最近まで存在しつづけた。

しかし、その実態は19世紀半ば以前は、中国の宗主権の下に属国として、そしてその後はフランスの支配する植民地として存在しつづけ、主権国家の姿は、そこにはなかったと言えよう。

フランスがインドシナ半島に侵略してきたのは1862年のことで、発端はキリスト教宣教師が殺害されたのが口実となったといわれる。

1862年のフランス侵攻の結果、サイゴン条約が締結され、コーチシナの一部がフランスに奪われた。
コーチシナというのは、中国支配当時のベトナムの南部地方を指し、交趾支那の文字を当てる。
メコン川下流域の低湿地帯の、いわゆるメコン・デルタ地帯に当り、緯度ではカンボジアの南側に位置する。
米作の中心地帯で、現在ホー・チ・ミン市と呼ばれるサイゴンが中心都市である。

インドシナ半島に進出の足がかりを得たフランスは、翌1863年には隣接するカンボジアを保護国とし、1867年にはコーチシナ全域を植民地とした。

1874年になると、フランスは第2サイゴン条約により、ベトナム中部にベトナム人が建てた安南国を保護国とした。
安南の名称は、唐の時代の「安南都護府」に由来するといわれ、歴史的には古くから中国の影響下にあった。

更に1883年、フランスはユエ条約で、ハノイを中心とする北部のトンキン地方に勢力を伸ばした。
フランスが中越国境に迫るにつれて、当時、中国の支配者であった清朝は、インドシナ半島の宗主権を主張し、フランスと衝突し、1884年から1885年にかけて、清仏戦争を戦い、敗れている。

この戦争を通じて、フランスはインドシナ半島の実質的な宗主権を獲得し1887年、「仏印連邦」を組織した。

そして1893年には、ラオスも保護国として支配下に入れ、インドシナ半島を完全に掌中に収めた。

当時のインドシナ半島の原住民は、近代的な主権国家の意識が十分に育っていなかったため、強力な軍隊を背景とするフランスの支配を受けると、急速に自分たちの「支配者であり、主人であるフランス人」を受け入れてしまった。

文化の面でも日常の慣習には、自然環境や仏教の影響が大きく前代のものも残ったが、漢字文化圏からローマ字文化圏への移行は急で、漢字の使用や元号の使用もローマ字と西暦に置き換えられ、十二支だけが残ったという。

人口の80パーセント以上は20世紀末においても仏教徒であるが、フランスの支配下においては、ヨーロッパ風の教育を受けて、クリスチャンに改宗した者が、支配者フランス人の下で、下士官役を果たした。

そのため、長い間、中国人と戦いを演じて、民族の独立を主張したことのある、ベトナム人も、フランスの軍事力への無力感と相俟っていつしか牙を抜かれ爪を抜かれて、ひたすら、温和しく自分達のご主人様であるフランス人に奉仕するようになった。

しかし、こういう状態を打破し、ベトナム人の手で統治する独立主権国家としてのベトナムを作ろうという民族主義者が少しずつ育っていた。

その力は微弱であり、民族意識を眠らされてしまっていたベトナム人の間に、なかなか民族国家樹立の雰囲気が醸成されずフランスの支配を脅かす存在にはならなかったが、1939年11月、民族主義者が多数参加していたベトナム共産党は「フランス勢力と残存する王朝を打倒して、インドシナ民主共和国を建設する」ことを決議した。

1940年9月日本軍のインドシナ進出という思いがけない事態に遭遇し、この決議に則った具体的行動は困難になったので、民族統一戦線を結成して、対日、対仏抗争を遊撃戦の形で、機に応じて行うことを改めて決議した。

当面はフランスを主たる敵として戦うこととされ、フランスへの抵抗の中で、人民解放軍の組織固めと、ベトミンの支配地域の拡大に努めた。

当時インドシナ半島にいた日本軍は、ドイツに降伏したフランスのヴィシー政府と日本政府の協定に基づき進駐したものであって、日本軍とフランス軍は1945年3月9日までは共存していたのであり、形の上ではレ・ドクー総督がインドシナ統治の最高責任者であった。

ただし1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦が行われ、ド・ゴール将軍は同年8月30日に、日本とヴィシー政府の間の約束の無効を宣言している。

そしてド・ゴールのシンパサイザーであった、レ・ドクー総督と駐留日本軍との間に冷ややかな関係がつづき、1945年になると、インドシナ半島のフランス当局は、日本軍の撤退を求める姿勢を示し始めた。

ところが日本軍は、太平洋方面の米軍の反攻が1944年夏以降激しさを増し、日本本土へ迫って来る状況下に、中国大陸やインドシナ半島に対する米軍の来攻も近いと判断し、インドシナにある「軍」を一元的に日本軍の指揮下に置く必要を感じ、フランス軍に対して、その要求を突きつけた。

1945年3月9日、日仏両軍は交戦し日本軍は1日ないし2日でハノイ、ランソン、ユエ、キニヨンでインドシナ駐在のフランス軍を制圧し、官公署と重要施設のすべてを接収して軍政を施いた。

3月11日、ベトナムに残存していた王朝の末裔バオダイは、日本の求めに応じてベトナム皇帝として独立を宣言し、ヤン・チョン・キム内閣が成立した。日本軍は6月に、コーチシナをベトナムに帰属させたが、原住民の軍隊は未組織であり、国立銀行も日本が押さえていた。

3月9日の日本軍によるフランス軍に対する軍事行動と、実質的に一晩でフランス軍を武装解除し、数10年にわたって「ベトナムの主人」として君臨しつづけたフランス人の支配をつぶしてしまった日本軍の力を目の前で見たベトナム人は中国と戦い続けた先祖の誇を改めて感じ、民族意識が覚醒された。

ホーチミンは、3月9日以後、急速にベトミンの組織を拡大させ、8月15日に日本が降伏すると、党全国大会を開き、独立国としてのベトナム民主共和国を樹立する決議を行った。
9月2日にはハノイで民主共和国の独立式典を催し、臨時政府成立を宣言した。

連合国は、ベトナムの日本軍の武装解除について、北緯16度をはさんで北部は中国の国民政府軍により、そして南部はイギリス軍の手によって行うことと役割分担を定めた。

ホーチミンは北部に在ってベトミンの指揮に当っていたが、中国軍はベトナム革命同盟会とベトナム国民党を伴って進駐してきた。
ホーチミンは中国軍駐留下に北部だけの総選挙を1946年1月に行い、ベトミンが圧勝した。

しかしホーチミンは中国国民政府軍が決して親共産党でないことを考慮して、中国軍が帯同してきた党派と手を組み、連立内閣を組織した。
1946年2月末、中仏間に協定が結ばれ、3月中には中国軍がベトナムから撤退した。

一方、南部では9月23日に英軍の手で武装解除が始まり、ホーチミンの南部ベトナムへの影響力が失われた。
既に8月30日にバオダイ皇帝は退位しており、同じ時期に高等弁務官にセディールが着任し、10月に入るとホーチミンと切り離された南部の人民委員と接触を始めた。

人民委員側はベトナム独立とホーチミンの指導する臨時政府承認を要求したが、セディールはフランスの主権を主張して、両者の交渉はまとまらなかった。

10月15日、ルクレール将軍の率いる軍隊が到着し、22日になると軍事行動を開始した。
フランス軍は10月25日には、早々と南部人民委員会の拠点ミトを陥落させ、1945年中にフランスは南部ベトナムの主要地域の大半をその手中に収めてしまった。

1946年3月5日には、南部に在った英軍が、完全に手を引いた。北部にいたホーチミンは、南部がフランス軍の手に帰したことを知ると、南部の大衆や抵抗組織に呼びかけ、フランス植民地主義を断罪し、南北全地域を挙げての支援を約束して、南進隊を編成し、資金や物資の供出に努めた。

南部は主要な地域や都市をフランス軍が押さえたというものの、ベトナム人の抵抗はつづき、1945年10月22日以降、翌年4月までにフランス兵約2200人が死亡したといわれる。

第2次大戦以前のベトナム人は、既に述べたとおり、獅子の前の仔羊のように温和しくフランス人にひれ伏し、従順であったといわれる。

しかしホーチミンの民族主義に覚醒した共産主義者らの抵抗活動に加えて、英国人、フランス人、オランダ人らの白人の軍隊が、アジア人の日本軍に敗れ、米国の助けを借りなければ、原状回復できなかったことにより、原住民らにとって、白人はもはや昔日の権威ある存在でなくなっていたこともベトナム人の粘り強い抵抗の起爆剤となっていた。

白人の権威が失われていたのは、インドネシアやマレーシア、ミャンマ(ビルマ)などでも同様であったが、英国は1941年8月の大西洋憲章でチャーチル・ルーズベルト間で、植民地をできるだけ早く、独立させることを宣言していたことのほかに時代の潮流が植民地支配を許さない方向に激しく動き始めたことを察知し、植民地を独立させて、権益を保つという方針を選択した。

それに反してインドネシアにおけるオランダとインドシナ半島におけるフランスは、あくまでも第2次大戦以前の原状回復を行い、白人による異民族支配の継続をはかった。だが、これは、拠って立つ思想的基盤はまったく異なるが、米国の哲学にもソ連の主義にも反するものであり、以後激しい原住民の抵抗に会い、米ソいずれからも実効ある支援を得られぬままに戦いつづけることとなる。

ベトナムにおいては、1946年春以降、フランスはベトミンとの泥沼のような戦いに徐々にはまり込み、1946年12月20日、ホーチミンは全面抵抗を呼びかけ、第1次インドシナ戦争が始まった。1954年6月成立したマンデラ・フランス内閣の手で、北緯17度線を南北境界線とする休戦が合意するまで、フランスは大きな犠牲を払うことになる。

休戦後の1954年10月10日、北ではベトミンがハノイに入り、南ではバオダイ皇帝がサイゴンに在って、ゴ・ディン・ジェム内閣が発足したが、ベトナムに本当の安定は訪れなかった。

ゴ・ディン・ジェム政権が腐敗して南ベトナムでゴ・ディン・ジェムの人望が失われてくると、北ベトナムでは秘かに南へオルグを送り込み、南を内乱状態に陥れた。

この状態を見て米国がベトナム問題に介入し、遂に北ベトナムや南に送り込まれたベトコンと米国の本格的な戦いが始まる。
いわゆる第2次インドシナ戦争であるが、1975年4月に北ベトナムが、南べトムを併合する形で終了した。

北緯17度線で南北に分断してから統一まで20年6箇月の歳月を要し、1946年12月20日の対仏全面抵抗から算えれば28年4箇月を要して、ベトナムは統一民族国家を作ることができた。

ホーチミンは既に、1969年に79歳で死去していたが、統一後のベトナムを担った彼の後継者たちの社会主義建設は、それから15年を経た1990年に到っても国民に物質的にも精神的にも豊かさをもたらすことができなかった。

それどころか、カンボジアの内紛に軍事介入して中国と対立し、中越国境で軍事衝突を引き起こすなどのこともあって経済的には、まったく停滞した状態が、1991年に入ってもつづき、絶望した人々が国外脱出する例が後を絶たなくなった。

第1次インドシナ戦争概観

1946年1月に、北ベトナムでホーチミンの指導下に連立内閣が組織され、3月には通語句軍が北部から撤退したが当時、フランスは南部の鎮圧に手こずっており、北部へ軍隊を輸送する余裕に乏しく、平和裏に駐留することが必要であった。

ホーチミン政権も、ベトナムにはレ・ドクー総督によるフランス統治時代から深刻な食糧不足がつづいていたので、平和裏に段階を踏んで、独立を達成することを希望していた。

そこで、中国軍の駐留下に、フランスとホーチミン市府の間に「3・6協定」が結ばれ、ベトミンによるベトナム民主共和国はフランス連合内にあってインドシナ連邦を構成する、一自由国であることを承認された。

そして北部・中部・南部の3地域の合併については、国民投票によるとされた。

「3・6協定」は暫定的な協定とされていたが、4月の初め、「補足軍事協定」により、フランスはベトミン軍を含むインドシナ軍の指揮権を持つが、1952年までに、基地の管理を除き、フランス軍は撤退することが約束された。

「3・6協定」に基づき、3月18日フランス軍はハノイに無血入城したので、ホーチミンは、直ちにコーチシナ問題について、「ベトナム・フランス合同委員会」の設置を要求したが、フランスは「コーチシナはフランス領である」と主張した。

そして3月26日、現役のフランス軍人を副主席にすえ、傀儡の主席に南部の経済をにぎる現地の人物を任命して、コーチシナ共和国臨時政府樹立を宣言した。

「補足軍事協定」締結後の4月18日、フランスは旧インドシナ連邦内の5箇国から10人ずつ代表を出して、連邦制国家を構成する提案を行った。

ベトミン側は「フランスは多数派を構成して、ベトミンを支配しようとしている」として、これを拒否した。
討議が何度も行われた後、1箇月後に会議は決裂し、フランスは一方的に、6月1日をもって、コーチシナ共和国を単独承認してしまった。

ベトミン側は5月末から開かれていたフォンテンブロー会議でフランスのこの行為を非難したが、フォンテンブロー会議も合意できず決裂してしまった。

しかし、まだフランスと本格的な戦いに入っていなかったホーチミンはフランスにとどまり、文化・経済の分野や民主的自由に関する事項について、暫定的な協定を結んだ。
これらの協定は「9・14協定」と称され、「3・6協定」と併せて、フランスとベトミンの今後が平和的な発展を遂げられるか否かの手がかりとなるものであった。

既に述べたように、フランス人がこの段階でインドシナ半島の情勢を正確に認識し、白人やヨーロッパの軍事力が、日本によって破られ、原住民に対して昔日の権威を失っていることを察知し、もっと謙虚に、力づくではなく経済的・文化的な手段をもって、ベトナム人と協力関係を進め、段階的に、しかし英国のように計画的に民族独立の方向へ政策を採っていれば、ベトナムの歴史は変わっていたかも知れない。

しかし、得てして当事者というのは、自分の周辺の状況や時の流れの勢と方向というものが分らない。
フランスがインドシナ半島で喪失した資産や経費の合計は2京3500兆フランにのぼるといわれるが、この大消耗の主因は、時の流れの方向と勢の判断を読み違えたところにある。

ベトミンとの間の「3・6協定」に次々と反し、ホーチミンらの期待を裏切りつづけたフランスは、9月に入るとトンキン弁務官がハイフォン港の関税権を接収して、ベトミンの財源を断ってしまった。

そして10月になると、ハイフォンへ軍隊を上陸させたので、ハイフォンやランソンで11月にフランスとベトミンの間で武力衝突が起こった。

つまり文化的、経済的協力を行い、民族自決の原則に沿ったベトミンとの協調をはかりその中でフランスの権益を確保するという、時の流れに即した手段を採るかわりに、ベトミンを経済的に封鎖し、武力を発動するという拳に出てしまった。

英国や米国が巧みに植民地を独立させて、民族問題を解決したのに比較して、フランスとオランダは、しばしば多くの血を流して、しかも権益を根こそぎ喪失する不幸な結果を招いた。

1946年11月8日、フランスの強力行使に対して、ベトミンは当初の妥協的姿勢を硬化させ、「民主共和国憲法」を制定して、ベトナムの北部、中部、南部は一体不可分の領土であり主権はベトナム国民の手にあることを宣言した。

これに対しフランス軍は11月23日、ハノイを奇襲し、海からは艦砲射撃により、沿岸に住む一般市民約6000人以上を殺傷したと伝えられた。

12月17日、フランス降下部隊がハノイを攻撃し、夜が訪れるとベトミンが反撃に出たが、12月20日には、ホーチミンが全面抵抗を呼びかけ、紅河デルタの都市部でも戦闘が始まった。

これに呼応して、南部の抵抗組織も軍事行動を起こした。

もはや「フランス連合内の一自由国」という雰囲気は消え去っていた。

しかしフランスは本国自体が第2次大戦の地上戦が行われ荒廃し、経済的困難にあえいでいた。しかも1947年になると、マダガスカルで反仏武装反乱が生起し、兵力に余裕がなくなった。
1947年3月当時、フランスは約7万5000人の兵員をベトナムに投入していたが、財政的にも兵力的にも苦しく、軍事的行動は鈍化しはじめた。

フランスは、香港に亡命していたバオダイを呼びもどしてベトナム皇帝に復活させ、1948年、フランス連合内の独立国とし、政治解決をはかった。
自治権を供与するという条件のもとに、コーチシナをベトナムに併合させ、形式上はバオダイ皇帝の下で、統一ベトナムの成立を認めるという「エリゼ―協定」を結んだ。

1949年1月、ベトミンは党中央幹部会で、「1948年を通じてベトミンとフランスのインドシナ半島における勢力は、均衡に達した」と認め、ゲリラの浸透と総反攻準備を決議した。

「3・6協定」も「9・14協定」も否定され、「フランスの全面撤退のみが問題を解決する」ことが宣言された。

1950年代初頭、ベトミンは山岳地帯を支配し、フランスは紅河デルタ地帯を支配していた。
1951年デルタ地帯の決戦を試みて失敗したベトミンは、デルタ地帯を包囲して、ゲリラで浸透する作戦をとった。
長大な防衛線を維持することを強要されたフランスは、経済的苦境に立った。

1949年度430億フラン、1950年度900億フラン、1951年度1530億フランとベトナム戦費は増大をつづけ、歳出の11パーセント弱に及ぶほどになった。

1949年から1951年末にかけて、約2万8000人のフランス人が死亡し、ディエンビェンフー陥落当時は、年間に戦死する将校の数がフランスのサンシール陸軍士官学校卒業生の数と、ほぼ同数に及んだという。

戦局打開のため、司令官の交代が頻繁に行われ、ある時はフランス陸軍参謀総長の現職にあった将軍を現地に送り込んで司令官としたが、戦況は好転しなかった。

当時、フランス陸軍で最も多くの勲章をもらった将軍といわれた、タッシーニ将軍も送り込まれ、一時的に、局地的勝利を得たが、大局は動かずタッシーニ将軍自身、足の傷の悪化で死去してしまうという一幕もあった。

1950年1月30日、ソ連はホーチミン政権を承認し、米国はこれに対抗してバオダイ政府を承認した。
米国は戦費の増大にあえぐフランスを支援するため、2月23日にインドシナ3国と「相互防衛協定」を締結し、1954年にはインドシナの戦費の約75パーセントを負担した。

しかし、ベトミンは民衆の間に浸透し、北部の実質的支配権を握り、大都市以外はフランス人の安全な場所は、ほとんど無くなってしまった。当然、フランス人の資産は次第に失われ、フランス本国の財政赤字が約20パーセントに及び、ベトナムの戦いはフランスにとって、利の薄いものになりはじめていた。

1953年夏から秋にかけて、フランス軍が一時的に勢力を盛り返したことがある。
フランスは、この機会にベトミンのラオスへの勢力拡大を阻み、ベトナム側とラオス側から、ベトミン軍を挟撃しようと企図した。

そして要衝ディエンビェンフーに、約1万2000人の軍隊を入れて要塞化した。人的損害が拡大するにつれて、フランス国民の間に戦争終結を望む声が強まり、勝ちを急ぐ必要もあった。

しかし結果は、ベトミン軍の50有余日に及ぶ重囲の下に、撃戦も空しくディエンビェンフーは、5月7日ベトミンの手に落ちた。

デルタ地帯のベトミン軍ゲリラも活発に行動を始め、フランスの勝利の見込みは、ほぼ無くなったという印象を世界に与えた。

1954年4月24日、国連安全保障理事会の5常任理事国とホーチミン政権代表を含むインドシナ3国がジュネーヴに参集し、インドシナ問題を議することとなった。
会議は1箇月間進展を見ないほど難航したが、6月に成立したフランスのマンデス=フランス内閣により、急進展を見た。

周恩来の調停とモロトフの提案により、北緯17度線を休戦ラインとして、ホーチミン政権とバオダイ皇帝の政権が対峙することとなった。

ここに、後に第1次インドシナ戦争と呼ばれる、フランスとベトミンの戦いは、フランスがインドシナから退く形で終了することとなった。

第2次インドシナ戦争の始まり

1954年7月21日、ジュネーヴ協定調印と9箇国宣言により、ジュネーヴ会議は終った。
2年後の7月に統一選挙を行って南北統一を達成するというのが協定の最重要点であった。

また、南北境界線とされた、北緯17度線は、この協定で「軍事境界線は暫定的なものであり、いかなる意味でも恒常的な政治的、領土的境界線と解されてはならないことを確認する」と最終宣言に明記された。

しかし、米国と当時ベトナムを代表するとされていた、南部のバオダイ政府は、この最終宣言に参加しなかった。
米国はジュネーヴ会議の最終日「協定の実施に反対するために、武力による威嚇を用いたりすることはしないが、協定には束縛されない」と宣言した。

米国は9月8日SEATOを成立させ東南アジアで反共体制を固める努力を示し、南ベトナムを、SEATOの適用される地域であるとして指定した。

1954年10月ゴ・ディン・ジェムが組閣したが、翌年10月バオダイ皇帝を廃止して、彼自身が大統領に就任した。

1955年6月、南北統一についての予備会談開催を、北ベトナムのファン・バン・ドン首相が、当時まだ首相であった南ベトナムのゴ・ディン・ジェム首相に申し入れを行った。

ゴ・ディン・ジェムはその4箇月後に、自分を1年前に首相に任命したバオダイ帝を昔日の恨みがあったとは言え、廃止して自ら大統領に就任するほどの野心家であったから、ジュネーヴ協定に従って統一選挙をするよりも、自分がベトナム全土の支配者になることを考えており、この北の申し入れを拒否してしまった。

ところが、北のホーチミン政権もまた、統一選挙をすれば自分たちが勝ち、全ベトナムの支配者になると自負し、また、その工作もしていた。

北緯17度線で休戦が決まった直後、北から多くの人が北緯17度線のやや南側に移住した事実が知られている。

そして、南北に分かれた直後は、商業活動が盛んで北よりも経済的に豊かだった南で、ゴ・ディン・ジェム政権が「カオダイ教」や「ハオハオ教」という、地場宗教と対立したり腐敗して大衆の信頼を失い、更に人工の80パーセント有余を占めると言われる仏教徒と対立するのを待っていたかのように、北の指示に従って活動を始めた。

共産主義者ではないが、ゴ・ディン・ジェムの腐敗ぶりや非民主的な政治を嫌うインテリや、一握りのキリスト教徒が、フランス時代に、フランスの下士官役として上流階級を独占し、これがそのまま休戦後の支配層へ移行したことに反発する多数派の仏教徒らが、北からのオルグの煽りに乗っていった。

やがて、南ベトナムは反政府活動が全国的に拡大する様相を見せはじめた。

しかし、ゴ・ディン・ジェム一族による腐敗はいっこうに収まらず、サイゴン等の都市部以外には、いたるところでベトコンと呼ばれる反政府集団が活発に行動をはじめた。

アイゼンハウアー大統領時代は、フランスがいくら軍事介入を要請しても、直接的な軍事介入を米国は回避して、約700人程度の軍事顧問を派遣しただけで、あとは経済支援のみであった。

アイゼンハウアーの行動や演説を観察すると、彼は軍事や人工衛星のような当時は直接日常生活に密接な関係のない分野への国費の支出を押さえ、消費経済を重視する傾向が見られる。

しかも陸軍参謀総長だったリッジウェー大将が、「若しベトナムに介入すると、最小限度5個師団、支援要員を含めて約50万人が必要」というレポートをアイゼンハウアーに提出し、軍事のプロフェッショナルとして、アイゼンハウアーは、直ちに了承し、決して軍事介入しなかった。

ところがアイゼンハウアーが大統領を2期務めたあと、ケネディーが選出されたが、ケネディーは若さと行動力が売り物の大統領であった。

そのケネディーが1961年1月に就任する数日前、フルシチョフが演説を行い、その中で「核戦争は共倒れを招来するので、勝者はなく通常戦争は核戦争へ発展する恐れがある」と戦争を否定しているが、その一方で「民族解放戦争は共産主義の目的推進に適切な手段である。正義の戦争として、ソ連の無条件かつ全面的支援を受けるであろう」とも述べている。

ケネディーはこの後者の方の論に刺激された。

1961年1月29日、ケネディー大統領は一般教書の中で次のように述べている。「ソ連と中国が世界支配の野望を捨てたと信じて安心してはならない。我々の任務は攻撃や破壊活動が、彼らの目的追求の上で有利な手段ではないことを、はっきり分からせることである」

ケネディーは迅速に行動し「反・反乱戦略」を唱えて、毛沢東やチェ・ゲバラを研究し、反ゲリラ戦についての研究や訓練の推進に努めた。

ケネディーは就任後、1年を経ずしてジュネーヴ協定にとらわれることなく、1万6000人の軍事顧問団を、ベトナムに送り込み直接米軍将校が戦闘指揮について助言を与え、中には戦死する者も出た。

1962年3月27日と4月1日のニューヨークタイムスは「1961年9月から、南ベトナム政府は、英国人顧問4人と米国人顧問のオズボーン及びシャード両大佐らが協議し、英国人顧問の意見を採用して、この戦略を立案した。
南ベトナム側の立案担当者は、バン・タンカオ准将で、本年初頭から反・反乱戦略の『旭日作戦』は練られていた。」と報じた。

米国はゲリラ戦の権威テーラー大将を、大統領顧問に任用し、後にテーラー大将は統合参謀本部議長に任命されている。
だがケネディーは軍事力の投入には慎重であった。

たとえば、1961年11月にテーラー大将と国務省のロストウが「ベトナム現状調査報告」で空軍の支援を得た1万人規模の地上軍派遣を要求したとき、特別付属文書の中で要求されていた地上戦闘部隊派遣と北爆は認めなかった。

しかし12月14日、ケネディー・ジェム公開書簡の交換により、ゴ・ディン・ジェム政権の内政改革を要求するという前提があったものの、米軍介入の道筋がつけられた。

1963年11月1日、ケネディーも了解の下に、南ベトナム軍のクーデターが起こり、ゴ・ディン・ジェム一族が追放された。
ところが11月22日には、ケネディーもダラスで暗殺された。

ケネディーは軍事顧問の数を、アイゼンハウアー当時の700人から、一挙に1万6000人に増やしたが、大局観と国際問題に対する感覚がすぐれており、当時、米国の軍事や外交にたずさわっていた人々の間には、ケネディーは決して野放図にベトナムに軍事介入して、泥沼にはまり込むことはないであろうという、安心感や信頼感があったといわれる。

ところが、ケネディーが死去したため、副大統領だったジョンソンが昇格して、偶然、米国大統領になった。

「アメリカの挫折」という、第2次ベトナム戦争について、安全保障担当の元米国務省国務次官補タウンゼント・フープスの著書の中に引用された、当時の高官の書信の中に、ジョンソンがこの時期、大統領に昇格したことについて「川船の船長が、突然大洋船路の巨大船の船長になったようなものだ」と評したものがある。

確かにジョンソンは、国内向けの施策や議会対策には長じていたが、外交や軍事については不得手であり、興味が湧かない分野であったと言われる。

彼は1964年末には、南ベトナムに派遣されていた軍事顧問の数を、1年間で1万6000人から2万1000人に増員した。

1964年8月から1965年3月にかけて生起した事象が、米軍の直接介入の原因になったと考えられているが、まず、8月2日にトンキン湾で、北ベトナムへの物資流入を阻止するため哨戒に当っていた、2隻の米国駆逐艦と北ベトナムの魚雷艇が交戦するという事件があった。

米海軍の砲力と艦載機により、北ベトナムの魚雷艇は反撃され、一方的に叩かれてしまった。

米国とベトナム双方ともこのトンキン湾事件発生の事実は認めているが、米国防総省がこの事件は公海上で発生したと、北ベトナムを批判しているのに対して、北ベトナム側は、米艦の領海侵犯があったと反論している。

しかし、船舶には原則として、外国の領海であっても無害航行権が認められているので、どちらによって戦闘の口火が切られたかが大切な、是非を問うポイントとなる。

この戦闘で、北ベトナム魚雷艇1隻沈没、2隻撃破という結果が出たが、米国側に損害はなかった。

8月7日、米国議会はこの事件に対して、いわゆる「トンキン湾決議」を可決し、ベトナム政策を大統領に一任した。

決議の骨子は武力行使を含むベトナム政策について、ジョンソン大統領に白紙委任状を与えるというものである。

決議では「ベトナム」の代わりに「SEATO加盟国」という表現となっているが、ベトナムは「SEATO」の条約調印時ベトナムをはじめインドシナ3国を条約適用地域に指定されていた。

上院で88対2、下院で416対0の圧倒的多数で本決議は議決されているので、米国は当初、挙国一致でベトナム軍事介入を決定したと言って過言ではない。

ジョンソンは大統領就任から4日目の1963年11月26日、ケネディーが拒否し続けてきた、北ベトナム攻撃計画を承認した。

この承認から約1年後の大統領選挙で圧勝し、正式に選挙の洗礼を経た大統領となり、かつ先述のとおり、議会の支持も受け、ジョンソンの足場を固めた。

1964年9月7日ホワイトハウスは前年11月26日の北ベトナム攻撃計画を実行に移すため、「北爆」の方針を決定し12月14日、米国は北部ラオスを秘密裏に爆撃した。

1964年8月7日の「トンキン湾決議」も「北爆」の方針決定も、8月2日の、「トンキン湾事件」と呼ばれる米駆逐艦とベトナム魚雷艇の間の衝突が、大きくかかわっていると考えられる。

国内で政治的足場を固めたジョンソンは以後ベトナム戦争介入の度合いを早めてゆく。

1965年1月9日、中国の毛沢東主席はエドガー・スノーに、「米軍が中国侵入の場合にだけ中国は戦うが、中国は国外へ派兵はしない」と述べている。
彼の言葉は朝鮮戦争当時のようなことは再現しないということを意味するものである。

2月7日、大統領命令により北爆が始まった。
2月25日には米国の要請で、韓国の猛虎師団の一部がサイゴンに到着した。

インドシナ紛争への米軍の介入は、4月2日には防御的なものから攻撃的なものへと性質が変化し、本格的な戦闘がつづくことになる。

第2次インドシナ戦争と米海軍

ベトナム戦争はアジア大陸の一角で戦われた地上戦が主体の戦いであった。

しかしメコン川の川口に発達したデルタ地帯には無数の水路が走っており、かつて第2次大戦以前から戦中にかけて揚子江沿岸で活躍した列国の砲艦や哨戒艇と同じ類の米軍舟艇が、各所に潜むゲリラの警戒や掃討に従事するため、内陸部の水路で作戦を行っている。

また、北ベトナムは重要な輸入物資の約80パーセントを、海上輸送に依存していたので、これを阻止するために、北ベトナム海域で哨戒任務に携わるほか、北ベトナムの重要拠点を艦載機が空襲したり、大口径砲による艦砲射撃を行ったりした。

一方ニクソン政権が米国の名誉ある撤退を計画していたにもかかわらず、北ベトナムがなかなか対応しようとしなかったので、米国は北ベトナムに対する機雷戦を発動して、極めて有効に北ベトナムをして、外交交渉のテーブルに着かせ、停戦に持ち込むことに成功した。

ここで、第2次インドシナ戦争における米海軍北ベトナムに対する作戦を概観することにする。

(1)トンキン湾事件

1964年8月2日、米国駆逐艦マドックス(DD731)が北ベトナム沖で偵察と南ベトナム海軍の沿岸攻撃の間接支援を行っていたところ、北ベトナム魚雷艇3隻が急接近して魚雷発射を行った。
マドックスは砲火をもって応戦すると共に、無線連絡で他の艦艇にもこのことを知らせ、タイゴンデロガの搭載機F4EクルーセーダがASMと20ミリ砲で魚雷艇1隻を損傷させた。

8月4日に第2次トンキン湾事件が、北ベトナムの距岸104キロの海上で生起したとロバートマクナマラ国防長官が米国議会に報告した。
(後に後に米国側の捏造と判明)
1964年8月17日のニューヨークタイムズ

マドックスには最新のミサイルを装備したターナー・ジョイが同行しており、320キロ離れた海面には、コンステレーションとタイゴンデロガの2空母が、マドックスとターナー・ジョイの方向へ航行中であった。
20時36分、マドックスは目標を探知し応援を求める信号を発したが、空母のレーダーにも正体不明の水上目標が映じた。両空母のジェット機が発進し、約800ノットの機速で現場へ急行した。
21時30分マドックスは、「50トン級と100トン級のソ連製魚雷艇と識別される目標が近づいてきた」
と報告しているが、当時のシー・ステートもウェザーも悪い状態で、目標の数の正確な把握は困難であった。

米国駆逐艦は連続的な魚雷攻撃を受け、そのうち最も近いもの数本が、両駆逐艦の舷側から30メートル程度の所をかすめた。両駆逐艦の砲撃により、魚雷艇1隻撃沈、支援の艦載機が更に1隻撃沈、1隻に損害を与えて撃退した。コンステレーション号坐乗のウェスト少将は北ベトナム魚雷艇の4箇所の基地の攻撃を実行に移した。

米軍はこの攻撃で2機を失い、戦死一人、捕虜一人を出した。一方戦果の方は、魚雷艇25隻撃沈、対空砲陣地7箇所を破壊しビン地区の燃料庫をほぼ全滅させた。ビン地区には、北ベトナムの石油の約10パーセントがあったという。このトンキン湾事件は偶発的なできごとに端を発しており、以後に引きつづいて行われた北爆を除き、少なくともここまでの対応は、現地指揮官の判断と裁量に拠って行われている。

ただ、ワシントンと現地の間の判断等に大きなギャップが生じないようにROE(Regulation of Engagement、交戦規定)が存在したであろうことは十分予想できる。

因みに、大規模に米軍が軍事力を発動し、本格的にベトコンや北ベトナムと戦いを始めた当時、明確なROEが定められていたことは、元防衛大学校陸上防衛学教授足立純夫氏の調査で、明らかにされている。

足立教授のインタビューした米軍当局者は「サイゴン司令部は、将兵の約3分の1にROEを徹底させること、そして2分の1には、かなりの程度に徹底させることに努めていた。パイロットには3箇月ごとにチェックを行い、必要な場合には再教育を行い、それでも不十分な場合は罷免した」と答えたという。

国際法と関わりを有する場所で行動する者には、ROEを具体的かつ理解しやすい形で明示することは必要不可欠な措置である。

なお米軍のROEの内容は、米軍の行動の限界がベトコンや北ベトナムに読まれる事を恐れ南ベトナム当局にも秘匿されていたという。

また米軍は実行上も、南ベトナム軍との連合作戦はほとんど行わなかったので、ROEを南ベトナムに知らせる必要もなかった。

ただ、北緯17度線以北の目標の攻撃については、目標の選定を含めてワシントンが直接統制し、17度線以南の地上戦の戦略は現地の軍司令官に大きな権限移譲を行うという大原則の下で、ROEは運用されていた。

つまり、北爆が拡大され、中ソとの間に軍事的対決を招く危険を回避するため北爆の統制は厳重に引き締め南ベトナム領域で地上戦を行う場合は、問題は予め、17度線以南に限定されているので、現地軍司令官の判断を大きく認め、その委任事項をワシントンはチェックしないという考え方である。

朝鮮戦争当時のマッカーサーとトルーマンの対立という経験の反省の上に立った考えであった。

(2) 海軍と北爆

ベトナム戦争における米国海軍の大きな作戦は、1965年4月から1968年3月末まで次第にその内容を強化しながら継続されたローリング・サンダー作戦とパリ会談と呼ばれる和平会議の難行と1972年3月30日、この会談難行のさなかにベトコンが軍事行動を起こしたことに対応して、再開されたラインバッカー作戦と呼ばれる北爆がある。

ア ローリング・サンダー作戦

艦載機による恒常的な北ベトナム空爆は1965年1月から始まった。
4月には空軍も加わって、北の港湾や石油精製所、橋、鉄道等に対する大規模な攻撃が始まった。

これをローリング・サンダー作戦と称する。

トンキン湾には、作戦の中心位置として、ヤンキー・ステーションが設定され、その地点には空母2隻が常時とどまって空母や機動任務部隊の行動の基点となった。

5月になると南のベトコンを対象とした、デルタ・ステーションがカムラン湾の南東100海里に設定され、空母1隻が常時行動していた。

4隻のうち3隻の空母が、この2地点にしばられる形となったので、第7艦隊は更に1空母を増派され5隻の空母が、ベトナム水域で作戦することとなった。

北爆は目標の選定をワシントンが直接統制して、米国は米国なりに慎重に行っていた。

当時の日本の報道機関や評論家の多くは「南ベトナムで反政府活動をしているベトコンは元来、共産主義者ではなく、南部の完全独立達成を願う民族主義者であったのに、米国の介入により彼らは共産主義のシンパサイザーになった」という論陣を張り、「米国の北爆は北に対する言いがかり」とする説が、日本の対米世論を批判的なものへ誘導していた。

しかし、米国介入の是非は別として、「ベトコンは北のオルグである」という米国の主張が正しかったことは1991年初めには、当時の北ベトナムの要人の証言や当時の北ベトナムが作成した記録映画等により、裏づけられている。

ローリング・サンダー作戦は、1965年4月から1968年3月末まで、爆撃の範囲と手段を次第に拡大しながらつづけられたが、ベトコンの活動は衰えず、米軍は泥沼のような戦いに苦しんだ。

1968年3月8日現在で、軍事介入以来の米軍の戦死と戦傷の合計が約13万7000人となり、朝鮮戦争当時を上回る状態となった。

米国の国内世論はジョンソン政権に強い批判を抱きはじめ、3月22日には、「援助軍司令官」のウェストモーランド将軍を召喚することが発表され、31日にはジョンソン大統領自らテレビに出演して「北爆の部分停止と次期大統領選不出馬」を明らかにすると共に、北ベトナムに和平会談を呼びかけた。

イ ラインバッカー作戦

パリー会談と呼ばれる和平会談は、ジョンソンの後を継いだ、ニクソン大統領の下で行われたが難行し、1972年3月30日にはベトコンが軍事行動を起こした。

ところが、このベトコンは戦車や重火器を装備し、服装も北ベトナム軍と同じであったので、北の正規軍が深く関わっていることは、ほぼ間違いのないところであった。

米国は、この大攻勢に呼応して、ラインバッカー作戦と呼ばれる、北爆を再開した。
主として艦載機により、攻撃目標を制限したものであったが、空軍のB-52は20トンもの爆弾を、一度に投下すると機体が急に軽くなり、機速が急激に高くなって揚力が増大するため、機体にとって危険なので爆弾をある程度の時間をかけて分散して投下しなければならず、弾着点が広い範囲にばらつくのに対し、艦載機は7トンから10トン程度の爆弾を、急降下爆撃で、正確に目標に集中できるメリットがあった。

ハイフォンやホンゲイ等の主要港湾には航空機雷も敷設され、輸入物資の80パーセント余りを海上輸送に依存していた北ベトナムに、機雷の効果は、かなり大きかったといわれる。

この作戦中に米国の大統領選挙があり、北爆は一時中断したが12月18日、再開され、6隻の空母と100機以上のB-52がグアム島とタイ領内の基地から参加し、ハノイとハイフォン附近を集中的に攻撃した。

最大規模のときは、1日に約5000トンの爆弾が投下されたが、本作戦中の米軍の損害も、157機を喪失し、捕虜は221人に及んだという。

しかし、ラインバッかー作戦中に行われた「機雷戦」が非常な効果を挙げ、戦略物資の入手が実質的に停止してしまった北ベトナムは1973年1月27日、「ベトナム和平協定」に調印した。

米軍は調印から2箇月後の3月に撤退を終ったが、1975年4月サイゴンが北ベトナムの手に落ち、1976年6月には、北が南を吸収する形で統一され、「ベトナム社会主義共和国」が発足した。

ベトナム戦争の総括

ベトナム戦争は、結果的には北ベトナムが南ベトナムを吸収して、南北を統一したためフランスも米国も、北の共産主義政権に敗れたことになる。

その原因は、
「南ベトナムに樹立されたゴ・ディン・ジェム政権が少数のキリスト教徒の手に握られ、しかも彼らが国民の85パーセントを占めるといわれる仏教徒を見下す態度を示し反感を買った」こと、「政権内部が腐敗し民心が離反し、インテリ層を中心に、北のマルクス主義の浸透を促進した」こと、「米国が軍事的クーデターまで利用して倒した非民主的な腐敗政権のゴ・ディン・ジェムの後に、軍事政権が何度もクーデターを重ねたが、遂に腐敗と無能から脱することのできない非民主的な政府しか、南ベトナムに作れなかった」
ことがまず目につくが、もっと大きな根の深い、次のような事情がある。

すなわち米国が主張する民主主義、自由、正義は、

  1. 全国民的合意の上に地位を確立した権威、たとえば英国のキングやクウィーンあるいは米国大統領のような存在によって、国民の精神的統合や国家として統一が保たれていること、
  2. 全国的に影響力のある政党が二つ以上存在し政治活動と言論の自由が確立していること、
  3. 権力の分立と政権交代のルールが確立し、議会制民主主義が定着していること、
  4. 教育が普及し、政府や官僚機構が十分機能しており、社会秩序が安定し、かつ国民が秩序や規律を守る意義を理解し、これを受容していること、
  5. 経済的基盤が、第1次産業依存型から脱却し、第2次産業や第3次産業へ労働人口の多くが移動する、いわゆる「社会的動員」という国際政治学の専門用語で表現される事象が十分行われたか、行い得るまでに成熟していること、
  6. 十分な金融や流通機構が機能していること

等の、諸条件が整備されて、初めて実現できるものである。

これら諸条件が整っている国を国際政治の専門用語で「硬性国家」と称し、「硬性度」が低い国を「軟性国家」と称するが、「軟性度」の高い国に、急激な資本の投下や近代化を強要すると、社会的動員の過程や民主化の過程で、大衆の反発を買い、抵抗を受け、何もしないよりも悪い結果を招き、以後悪循環を重ねて、混乱が混乱を呼び収拾がつかなくなる。

ベトナムにおける米国は、軟性国家の脱し切れていないこの地域の取り扱いに失敗したものと言えよう。

しかも大規模な軍事力を投入して戦う米国の姿は、自由や民主主義を守るというよりも、弱小な北ベトナムをいじめる大国のイメージを各国に与えたということを、当時米国の安全保障担当国務次官補だったタウンゼント・フープスも自著「アメリカの挫折」の中で述べている。

また、同じアジア地域における戦いであっても、アジア州、大洋州の諸国は、ベトナム戦争に対して、対日戦争や朝鮮戦争のときのような脅威を感じていなかった。

結局、米国は朝鮮戦争の時は、国際連合軍を編成し、国連旗の下で十分な大義名分を持って戦い、原状回復以上の成果を挙げることができたのに対し、ベトナムでは、国際世論から孤立し、実質的には単独で、しかも腐敗と無能によって大衆の支持を失った非民主的な軍事政権を、ただ単に反共であるという理由で助けつづけることとなった。

しかも、軍事政権自体が軍の中で不安定であり、次々と支配者が入れ替るという有様であった。

ニクソン大統領は、ベトナム戦争を収拾して、インドシナ半島から撤退したが、彼が最初に大統領に当選したあと、「グアム・ドクトリン」とも呼ばれるドクトリンを発表したが、それは要約すると次のようなものであった。

すなわち、

  1. 国の安全保障は一義的に、その責任は当事国にあること、
  2. 米国は条約上の義務は守ること、
  3. 米国の核の傘は米国の生存に必要な国には貸すこと、
  4. アジア大陸における問題に軍事的に関わることは回避し大陸周辺の島嶼にあって状況を見守り、必要なときに、必要な限度で介入すること

である。

アジア諸国の中でも、英連邦諸国は英国の海空軍力に国防の大きな部分を依存してきたが、英国が軍事費を節減するため、スエズ運河より東側の地域から軍事力を撤収したためマレーシアやシンガポールは、米国に期待するところが大きくなっていた。

ASEAN諸国には古くから中国人移住者、即ち華僑により、商業部門をはじめ、経済の重要な分野を握られていることから、反中国人あるいは中国警戒の心理が底流として存在するほか、ベトナム戦争終了後、米軍の遺棄した資材や廃材を利用し、あるいは南ベトナム軍から鹵獲(ろかく)した武器を利用して、強大な軍事力を形成したベトナムに対する脅迫感が、マレー系民族の諸国を中心に存在すると言われる。

こういうアジア諸国が、急激にアジア地域から米軍が撤退することについて不安や対米不信を呼び起さないように、注意深く徐々にではあったが、ニクソン大統領以後の米国は、アジア地域に展開していた軍事力を縮小する方向をたどるようになった。

特に大陸部からの撤兵予定の中に、朝鮮半島からの撤兵も計画されていたが、カーター大統領の後継大統領レーガン大統領が、強いアメリカを目指す外交政策に転じた影響もあり、朝鮮半島からの撤兵は中断されている。

しかし、米国が対外的な諸問題への軍事的取り組みが消極的になったことは否定できない。

逆に、インド洋やカムラン湾へのソ連軍の進出やアフリカ大陸へのソ連の肩入れは積極的になった。

インドシナ3国、アフガニスタンが共産化し、ラテン・アメリカやアフリカに社会主義政権が次々と樹立され、ソ連の軍事的、政治的な各地への進出が目立ち、表面的には世界は、とうとうとして、歴史的必然性をもって社会主義化へ向かって流れていくかに見えた。

だが、事実は社会主義計画経済は各地で、行き詰まりの兆候を見せはじめ、消費経済が悪化しつつあった。

ソ連は各地へ軍事援助や海外基地を維持するための、非生産的出費におる財政的圧迫を次第に感じるようになった。

だが、米国もまた、ベトナム戦争の大出費により、経済的に苦しい状態となり、日本の「円」や西ドイツの「マルク」の切り上げを求めざるを得ない状態となった。

そのため暫時、ソ連に有利に国際情勢が展開しつつあるかのような錯覚を抱いた者は、少なくなかった。

しかし、対外軍事援助費の増大と軍事基地の維持費の増大は、既に国内の経済に陰翳が生じ始めていたソ連の負担になり始めていたことは記述のとおりで、1980年代後半に、ソ連経済を危機的状態に追い込む下地を固め始めたのが、この時期であった。

ここで話を転じて、ベトナム戦における指揮の問題を瞥見してみる。

まず、2箇国以上の国の軍隊が連合あるいは同盟して、共通の目的を達成するために行う「連合作戦」の視点から見ることにする。

当時ベトナムには、南ベトナム軍を助けるために、韓国、ニュージーランド、タイ、オーストラリア、フィリッピンが軍隊を派遣していたが、台湾も31名の情報専門家を送り心理戦の指導に当り、スペインが医師7名を派していた。

ニュージーランドは約450名、オーストラリアは約8500人、タイは約1万人、フィリッピンが工兵約2000人を送ったが、一時期51万人にも及んだ米国の兵力と比較すると、いずれもあまりにも兵力は小さく、しかも治安維持のような任務に就くことが多かった。

唯一、韓国だけが約4万8000人の軍を送って、師団単位の作戦を展開できたと言われる。

これら諸国軍は、オーストラリアとニュージーランドを除くとロジスティックスは全面的に米軍の負担でなされ、国軍近代化を米国が支援するという約束の下での派兵であった。

もっとも米国に協力的だった韓国も、例外ではなく韓国軍の装備近代化の約束の下で、将兵の基本給与の支給以外の経費は、全面的に米国に依存したという。

米・韓・南ベトナムの3者の間の指揮関係は、それぞれが独立した指揮機能を維持し、相互間の問題は調整によって解決され、一つの高級司令部が統一して指揮するというのではなく、「共同関係による作戦」が行われた。

情報については、コンバインド・インテリジェンス・センターを設置し、一元的に情報の評価、分析、配布を行った。

韓国以外の援助軍派遣諸国の軍は、「在南ベトナム米軍」と「軍事行動協定」を結び、米軍司令官の運用統制を受けた。

朝鮮戦争のときは、国連安全保障理事会の決定に基づき、国際連合の旗の下に国際連合軍が編成され、一人の最高司令官の一元的指揮の下で連合作戦が行われ、韓国軍は米軍の指揮系統の中に組み込まれていた点が大きく異なる。

次に、「統合作戦」という見地から見ると各軍種を統合した指揮はあまり行われなかった。

一時、空軍が、海兵隊を含む陸海軍の航空機を、一元的に指揮しようとしたが、海軍が「海軍の航空機は艦隊の不可分の一部をなすものである」と主張し、海軍機に対する空軍の「統合指揮」は行われなかった。

なお連合作戦における指揮は、「一元的に統一指令部が指揮する」のがよいのか、「調整方式で各国の独立した司令部が共同作戦を行う」のがよいのかについては、論が分れるであろうが、1970年4月30日から6月28日まで行われた「カンボジア作戦」は、南ベトナム軍が米軍の一翼を担う形で、米軍の一元的統制下に行われ、僅少な損害で大きな効果を挙げ、米兵の死傷者と南ベトナム兵の死傷者の比率が1対2であったという。

これに対して1971年2月8日から3月末までにかけて行われた「ラオス作戦」は、進攻する南ベトナム軍に米軍が火力と輸送手段を提供するという事前調整に基づき行われ、結果は大失敗に終り米軍の死傷者1万人に対し、南ベトナム軍の死傷者35人という結果に終っている。

二つ以上の国家が、共に戦うとき、

  1. 驚異の種類と方向、
  2. 作戦の意義、目標、方針、
  3. 万一うまく行かないときの対応策

等について、信頼感の上に立った共通の認識が必要であり、特に苦境に立ったとき、これを目的を達成しつつ、切り抜けて作戦を成功に導くためには、以上3点は重要であろう。

カンボジア作戦とラオス作戦の結果は、指揮問題を考えるときの、重要な参考事例となり得るものと言ってよいであろう。

次にシビリアン・コントロールについて触れておく。

朝鮮戦争のとき、トルーマン大統領とマッカーサー元帥の確執と、マッカーサー元帥の解任というできごとに鑑み、ベトナムでは、北爆の際の目標設定、武器の選択、攻撃手段まで、ワシントンが強く統制する傾向があった。

重要な戦略的判断もコンピュータを駆使し、大企業経営の手法と同様な感覚で、マクナマラ国防長官が、プロの軍人よりも、国防総省の長官が自ら人選した、一握りの文官スタッフと相談して決定したと伝えられる。

そのため、統合参謀本部を始めとするワシントンにある米軍の中央機構の高級軍人の考えや判断と合致しないことも多く、結果としてベトナム現地では、少しずつ後手にまわる傾向や最善の対応ができないという不都合もあったといわれる。

ただし、米国の「文民統制」は、自由選挙で選ばれた大統領が広く人材を求めた結果に基づき、国務長官や国防長官等の各省長官を任命し、大統領や長官が「文民」として、軍を統制する。

各長官は大統領が自分を任命したのと同様に、広く局長以上の高級官吏にふさわしい人材を求めて、任命する。

ところが、各省庁間や局長以上の高級官吏のような、採用試験によらない任命職や統合参謀本部議長、陸軍及び空軍の参謀総長、海軍作戦部長らは、自由選挙で選ばれた上院議員の審査に合格する必要がある。

この上院の審査は極めて厳しい学位付与のための口述試験と検察尋問を併せた感じのものであり、情容赦のないものである。

米国はプラグマチズムの国であるから、ハーバードのような名門大学やプリンストンの高等研究所のような研究所と雖も、単にテキストを覚えて水ぶくれのようになった雑学の量や難解な数式の計算力よりも、「どのような問題意識を持ち、どのような大局観に立って、どのような具体案を練り、最終的にどう処理するか」という視点から「何をする能力を持っているか、そして何ができるか」をチェックする面接試験に比重が極めて重く置かれるという。

その目安として、それまでどのような活動をしてきたか、どのような人柄かの評価が重要な意味を持つという。

米国人の哲学には、このような手順を経て選ばれ、任命された人たちだけが、軍事のシビリアンコントロールに携わるのであって、試験だけで採用され、上院の審査を経ていない軍人や役人の手には、軍事はもちろん、国家の大事をまかせないという姿勢が明確に貫かれている。

因みに米国人は一般公務員のことを、パブリック・サーバントとも呼び、シビリアンというときは市民を代表して重要な決定をなす、大統領や任命職の人である。そしてシビリアンは、自分を任命した人と運命を共にするものとされている。

このように米国のシビリアン・コントロールには、できるだけ市民の意志が反映できるよう、「自由選挙で選ばれた大統領と上院議員」が深く関わり、見識ある任命職の人たちが、大統領や各長官を補佐しているのであって、システムとしては健全なものと言えよう。

朝鮮戦争

1 南北分断の経緯

1945年8月15日に日本の降伏が決定し、9月2日に調印がなされたが、日本軍の武装解除は、連合国が地域ごとに分担して行った。

旧英国領はイギリス軍が、フィリッピンと日本本土、日本の信託統治領及び北緯38度線以南の朝鮮半島は米軍が行った。

オランダとフランスは当面アジア方面に軍を割く余裕がなかったので、インドネシアとインドシナ半島の南部はイギリス軍が、インドシナ半島の北部と中国、台湾は国民政府軍が、満州、樺太、千島、北緯38度以北の朝鮮半島はソ連が、日本軍の武装解除に当ることとされていたが、38度線が以後、朝鮮半島に二つの国を作り出す、実質的な国境線となることは、当時、誰も考えていたわけではない。

つまり、朝鮮半島の北緯38度線の南側の日本軍の指揮系統が九州の司令部の指揮下に、北側の日本軍の指揮系統が満州の司令部の指揮下にあったために、米ソが分担したという程度の、軽い理由によるものであった。

ところが、9月2日に日本が降伏の調印を行って、わずか4日後の9月6日に北で「人民共和国」の成立が宣言された。
しかし、9月8日に南に進駐してきた米軍は、この事を関知せず、10月10日に「人民共和国」を認めないことを明白にした。

1910年に日本が韓国を併合して以後、韓国の独立恢復を叫び、日本の官憲による取り締りの手を逃れて、外国へ逃れて抵抗をつづける朝鮮人は多数いたが、ある者は満州や中国本部へ逃れ、ある者はヨーロッパや米国に逃れた。

しかし、日本が満州事変や日華事変で満州や中国本部へ軍を進めるにつれ、中国大陸にあった抗日朝鮮人の民族主義者たちは、ある者はシベリアへ、また別のある者は欧米へ逃れた。

たまたま、シベリア方面へ逃れたグループは、ソ連でマルクス・レーニン主義の思想的洗礼を受け、民族主義者であると同時に共産主義者として理論武装を行った上に、軍事訓練を受けた者が、ソ連軍の進駐時に、北朝鮮に戻ってきた。

日本降伏後早々と「人民共和国」の成立を宣言したのは、こう言うソ連仕込みの民族主義者のグループであり代表的指導者は金日成であった。

前述のように北の共産主義者のグループはソ連軍の訓練を受け、ソ連軍の提供した武器で武装していたので、軍事組織や共産主義で理論武装した政治機構を急速に作り上げることができた。

これに対して南は動きが緩慢であった。10月16日になって李承晩が亡命先の米国から戻ってきたが、彼は南の大衆にそれほど知られていたわけではなかったし、急速に人気がわくという持ち味にも欠けていた。

しかし、この時期、米国は北緯38度線で朝鮮を分割して、米ソの勢力圏にする考えは持っていなかった。

すなわちトルーマンは、日本降伏直前の1945年8月11日から8月12日にかけて「日本占領に際しては、ドイツにおいてソ連と東西に国土を分割したような失敗を犯してはならない」という意向をもらしており、日本は全面的に米軍の司令官の下に、単独占領する意志を固めていた。

そういう時期、賠償問題で訪ソしていた米国のポーレー大使は、大戦後の世界について、ソ連に抱いている意図に不信感を覚えて、満州や朝鮮も米軍が占領して日本軍の武装解除を行うべきであると進言してきたが、米軍には当時、速やかに満州に展開できる兵力が不十分であった。

結果論だがこの進言が入れられていれば、日本人が数10万人もシベリアに抑留されて、その約10パーセントが飢えと寒さで死ぬ悲劇も、朝鮮分断もなかったことになる。

米国は周知のとおり、領土の拡大や、ある地域を特定の国が政治的、軍事的に隷属させて植民地化させることは好まないという、国家の体質が伝統的にある。

米国人の哲学には、「ある地域が自治の能力を持つに到ったら、そこの住民の自由な選挙によって、政体や統治機構は自由に選択させるべきである」、「経済活動は自由競争に任せるべきである」というものがあり、米国流の民主主義と道徳率が、最上のものという考え方と相俟って、国際政治の場でも、米国の立場を、自信をもって強く主張する。

したがって、南朝鮮に米軍進駐当時、北で成立を宣言していた「人民共和国」を米国が認めることはまずあり得ない。

「人民の自由選挙によって政権は決まるべきであり、どういう政体にするかは人民の自由意志による選択で決まるべきである」ということと、「自由競争の原理に基づき、経済活動の自由は可能な限り確保されるべきである」というのが、米国人が最善と確信する政治理念であり、この理念を踏まえた正義に基づき、基本的には弱者が不正義によって困っている時は、力を貸してこれを助けるべきであるというのが、米国人の生活姿勢である。

こういう米国人の哲学が、米国の軍事外交方針策定に際して、極めて重い意味を持つことは、米国の歴史から明らかであり、我々は好悪に関わらず忘れてはならない。

朝鮮にどのようにして、どういう政府を作るべきか、国連信託統治の導入も含めて米ソは話し合ったが、なかなか決着せず、米国は遂に問題を国連に預けた。
国連は朝鮮半島全土で選挙を行い朝鮮人の政府を作ることを、勧告した。

しかし、既に政治機構や軍事機構が固まりつつあった北側は国連勧告を拒否し、南側だけが国連勧告を受け入れて、1948年5月10日総選挙を行った。

この南の動きに対し、北は5月14日、南への電力供給を停止した。この件について北朝鮮駐在のソ連軍司令官から、米軍司令官に「金日成委員長と北朝鮮人民委員会を正式交渉相手とし、『通貨』によらず『資材』で使用料を支払えば、電力を供給する」という申し入れがあったが、米軍は「北の人民委員会を正式に認めることになる」と、これを拒否した。

南だけの総選挙の結果に基づき、1948年8月15日に、北緯38度線の南側に大韓民国が樹立され、9月9日に北に朝鮮民主主義人民共和国の樹立の宣言がなされた。

2 南北分断の定着

以上述べたような経過で、北緯38度線の南北の質の異なる国家が成立し、にらみ合うことになった。

このことは、南北相互に国土や資源の一半しか利用できないということであるが、当時の北は、より先進工業国に近い国土利用がなされていたかわりに、山地が国土の大半を占め、農耕地が少なく、食料確保に難点があった。

他方、当時の南は農業と消費材供給のための軽工業主体の地域であった。
南側は当然、米国の経済援助等がなければ、国家としての経営が困難であった。

ここに、北はソ連の、南は米国の影響下に、国家経営がなされることとなり、米ソ対立の構図はそのまま朝鮮半島に持ち込まれ、定着の傾向を示した。

当時、ヨーロッパでは東欧にソ連の影響下に、いわゆるソ連の衛星国と呼ばれる、社会主義を国是とする国家群が形成され、アジア方面では、中国大陸で蒋介石の率いる国民党政府とこれを覆して革命を成就しようという毛沢東の率いる共産党が、激しい内戦を展開し、徐々に国民党の支配地域が縮小し始めており、遠からず中国の指導者が蒋介石から毛沢東に代わるであろうことを予感させていた。

東南アジアでは、英国や米国の版図は、1941年8月の大西洋会談における、ルーズベルトとチャーチルの約束もあり、独立する傾向があったが、インドネシアとインドシナでは、対日戦争以前の植民地を恢復しようという、オランダやフランスの原状回復の企図に反対する、原住民の民族主義者が戦いを起こしていた。

米国は、民族自決の原則は米国人の哲学であるから、植民地独立には賛成であった。

ただ、これら民族主義の運動が、共産主義と結びつくことには反対であった。

米国人は、人望と能力のある人物が、自由選挙でリーダーに選ばれて高い地位に就く制度を最上のものと信じている。米国人は、ヨーロッパや日本のように、議会制民主主義の定着した国の皇室の存在を好み、憧憬する一面をもっているが、権力をもつ高位高官については、国民の自由選挙の洗礼を経た者であるべきだとする。

米国自身が、選挙で選ばれた大統領が元首として、また行政機関の長として、国務長官、国防長官等の各省の長官を任命し、その長官が局長以上の高官を任命するが、任命に先立ち、国民によって選挙された上院議員による「厳重な口述試験とも言うべき審査」がある。

このような米国人の感覚は、単に自由市場経済を共産主義者が否定しているからというだけではなく、共産党の一党独裁を主張する制度を肯定するはずがなく、曲がりなりにも国連勧告に従って選挙の洗礼を経た、南側の政権を支援することとなった。

3 開戦の経緯

米国人はたとえ友人知己であっても是か非かを明らかにすることを好み、義理や人情は通用しない。自分のことは自分でという自助の心が強く、試行錯誤を恐れない。

それだけに、最上のものと信ずる米国人の哲学を、他国に強く推奨し、いちぢるしく反した行為には厳しく批判もする。弱者が自由を脅かされれば命をかけてでも、それを助けようとする。

韓国において、李政権は米国人の哲学に照らして、「腐敗」と「非民主的」な側面が目立ち、台湾に閉じ込められていた国民等の蒋介石政権と共に批判を受けていた。

しかも1950年1月12日のアチソン演説でアジア方面の防衛ラインとして述べた地域の中に、朝鮮半島が含まれていなかった。

当時の北朝鮮側の指導者は、米国が韓国を見限ったのではないかと考えた。

フルシチョフの回想によると、金日成は1949年末にモスクワを訪れた際に、南を力で統一したがっていたという。
「既に米国は李承晩政権を見放したかの様子が見え、南の大衆は李承晩に反感を持っており、北が銃剣で突きさえすれば、呼応して立ち上がる」というのが金日成の主張だったという。

これに対してスターリンは、じっくり考え、計算して具体的な計画を持ってくるように返答したという。
スターリンは金日成が練ってきた計画に対して、思いとどまらせることをせず、毛沢東に南進した場合の米軍の介入の有無について判断を打診するよう指示した。

毛沢東は朝鮮における戦いは朝鮮人自身の解決すべき国内問題だから米国は介入して来ないであろうという判断を示した。
だが彼は金日成が近々南進する具体策を持ち、スターリンと相談したことは知らなかったようで、仮に南進があったとしても、それはまだかなり先の話だと思っていたと言われる。

つまり、1949年秋に国民党を大陸から追ったばかりの毛沢東らの北京政権にしてみれば、チベットや台湾の支配権確立の方が、はるかに重要な問題であり、かつ中国国内の各種の建設や内乱で荒廃した経済の再建あるいは再編等、政権の基盤を固めることが、すべてに優先すべきことであった。

しかし、戦いは1949年10月1日の中華人民共和国樹立から9箇月余りしかたっていない1950年6月25日に勃発してしまった。

中国は軍を福建省に集めたり、国内改革の計画を発表したりして、大々的に国内問題処理の動きを開始しており、この時期に朝鮮半島で戦争が始まったことは、タイミングとしては極めて不都合であった。

このタイミングで金日成が南を武力統一可能という判断を下した理由の最大のものは、米国から見放された李承晩政権は、警察隊より多少ましな程の軍隊しか持っておらず、米国の介入さえなければ、比較的容易であるという見通しがあったことに加え、1950年4月4日、アチソン米国務長官が張勉駐米韓国大使に「インフレの安定策を講ずることと5月に総選挙を行うことが実行されないならば、対韓軍事援助と経済援助を再検討修正を余儀なくされるかも知れない」と覚書を発し、選挙は行われたのだが、72対137で李承晩大統領の与党が敗北し、民心もまた李政権を見放したと判断したことにあると言われる。

だが、同じ英語国民の大英帝国の存続をすら嫌悪し、その英仏蘭とヨーロッパのブロック経済で苦しんだ日本が中国大陸に行くことや大東亜共栄圏の建設は決して許容せず、日本と同様の立場から生存圏を主張したヒットラーのナチスドイツを容赦しなかった、「米国人の正義と哲学」を北朝鮮もソ連も、軽く考えたきらいがある。

既に述べた米国人の自由に関する正義、哲学、道徳は、米国という国の行動を律するとき、極めて大きな重みを持っている。米国人はこのことのために命をかけることが正しい行為であり、回避することが悪であり卑怯な恥ずべき行為なのである。

選挙の洗礼を経ず、自由主義を否定する北朝鮮の政権が存在すること自体が米国にとっては悪であり、ましてその北の軍隊が南へ攻め入って、仮にも選挙された政府と政体を蹂躙することは、黙過できなかったのである。

6月25日の北側の攻撃に南が反撃能力がないとなると、米国の反応は迅速であった。

6月27日には、トルーマン米国大統領が朝鮮への軍隊派遣、台湾中立化のための第7艦隊の台湾海峡への派遣、在比米軍強化と対比援助強化、インドシナのフランス軍援助強化などを声明した。

そして7月7日、中国代表権問題をめぐり、ソ連がボイコットしている国際連合安全保障理事会で、侵略者の北朝鮮を膺懲するために国際連合加盟国は、「北朝鮮の武力攻撃に反撃し、朝鮮に平和を回復するに必要と思われる援助」を韓国に与えることを要求する決議が米国から出され、採択された。

7月7日、加盟国の軍隊は、米国の統一指揮下に入り、米国が総司令官を任命し、統一指令部は国連旗を掲げることが採択され、マッカーサー元帥が総司令官となった。

6月30日、マッカーサー元帥は米地上軍派遣の必要をワシントンに対して主張し、その権限を求めており、日本から2個師団を派遣する許可を得ていたが、この7月7日の決議により、米軍は国連軍となりマッカーサー元帥は国連軍総司令官となった。

安全保障理事会の決議は国連加盟国にとって、単なる勧告ではなく、「理事会の決定を受諾し、且つ履行することに同意する」ことが、憲章第25条に規定されている。

また憲章第24条1項に「国際連合の迅速かつ有効な行動を確保するために、国際連合加盟国は、国際の平和及び安全の維持についての主要な責任を安全保障理事会がこの責任に基づく自己の義務を果たすに当って、加盟国に代わって行動することに同意する」という規定がある。

日本の学者の中に「安全保障理事会の決議は、加盟国に義務を課するものではない」とする意見を述べる人がいるが、憲章第24条と25条の考え方について、原加盟国を含む諸外国の国際法や国際政治の研究や実務に携わる「専門家」の圧倒的多数は「義務」と考えている。少なくとも反しない言動が求められると考えるべきであろう。

米国の迅速な介入は北朝鮮やソ連にとって、大きな計算違いであったと言えよう。

朝鮮戦争が南北いずれがしかけたのかということについて、長らく議論が継続され、ソ連や北朝鮮ではもちろん、日本でも社会主義が善玉であり、資本主義は悪玉であるという立場をとる人々の間には、「南の政府が国内の失政や民衆の不満をそらすために、北へ攻め込んだ」という説が流布されていた。

しかし、後年フルシチョフの回想や中国人の論文などでも、北が武力統一をはかったということは、明らかになってきており、日本の共産党も「北朝鮮が南へ侵攻した」ことを歴史的事実として公式に認めており、北朝鮮以外の諸国では「北が南へ攻め込んで戦争が始まった」ということが認められている。

客観的に見ても、当時の南には警察隊よりはましという程度の軍備しかなく、北朝鮮のシンパが引き起こすパルチザン流の騒乱に対してすら、十分な対応ができていなかったことから見て、南が北に対して軍事行動を起こすことは無理であった。

また、南の挑発をはね返しただけにしては、整然と大規模かつ迅速に南への侵攻が行われ、釜山を長射程砲の射程内に置こうかという所まで、なぜ軍を進める必要があったのかという点が説明できないし、原状回復を求めた国連決議を無視して3箇月も国連軍相手に38度線の南側で戦い続けた意図も説明できない。

4 米国の朝鮮戦争についての考え方

国連の考えと同様、米国も当初は原状回復であったと思われる。1950年9月15日の仁川上陸作戦以後、形勢が逆転してから原状回復から「国連軍によって南北を統一する」方向へ方針が転換されたといわれる。

しかし米国が朝鮮半島そのものに、執心していたわけでないらしいことは、朝鮮戦争の始まった6月25日から仁川上陸の9月15日までの3箇月足らずの間に3回も、朝鮮からの撤退を真剣に検討したことからもうかがわれる。

元防衛大学校教授、佐々木春隆先生の話の中にも次のようなことがあった。

「米軍は介入から僅か3箇月間の7月から9月の間に、撤退するか朝鮮半島に踏みとどまって戦うかについてのためらいが3回あった。しかし韓国軍は開戦直後の総崩れの状態から立ち直った後は、善く戦ったので、米軍は撤退の決断をせず、朝鮮を守った。しかし、助けられる者の辛さを韓国軍当事者は存分に味わうこととなった。

例えば大邱(たいきゅう)まで追い込まれ、釜山橋頭堡を維持するために、国連軍が苦闘を続けていた時、後に韓国の首相まで務めた当時の丁一権韓国陸軍参謀総長がウォーカー大八軍司令官に戦車の利用法を依頼に行った時、大変辛い思いをしたという。

この時、ウォーカー中将は口を極めて韓国軍参謀総長をののしった。
丁一権参謀総長は七重の膝を八重に屈して頼んだところ、ウォーカー中将は、500両の戦車の中から5両を、しぶしぶ貸し与えた。

当時を体験した韓国軍の将官は、助けられるものには忍耐が必要である、怒っても国は救えないと話したという。
朝鮮戦争当時の韓国軍の体験から助けられる者の辛さを列挙してみると次のようになるだろう。

  1. 航空支援、弾薬等の補給等では、常に米国優先であった。
  2. 韓国軍の人事にも米軍の介入があった。
  3. 指揮権の調整等で、助けられる者は面子を捨てる必要がある。
  4. 韓国軍は米軍に配属となったが、米軍は、いかなる場合も配属ではなく、支援であった。これは後方支援能力の差によるものであった。
  5. 米軍の考え方を押しつけられることを甘受した。

以上の点を多少なりとも、円滑ならしめるため、共同演習を行うことが重要である。

特にトップ同士の考え方のすり合わせと認識の統一が重要である。

中国が介入してきた時、ワシントンは最悪の時は日本への引き揚げを支持しており、その判断は、マッカーサーに任されていた。

中国に休戦の話し合いを持ちかけた時、現状より韓国には極めて不利なラインであった。中国がたまたま拒否してくれたため、その後むしろ有利になった。しかし停戦条件等は、一切韓国に知らされていなかった。

和戦の決定は、助ける者の掌中に握られている。」

この佐々木教授の話からも、米国が必ずしも朝鮮半島における、自己の勢力範囲の拡大や、支配権の確保を一義的に考えていたのではないことは想像できる。

やはり、恐怖から解放される自由、言論結社の自由、貧困から免れる自由、信仰や思想の自由といった個人の基本的自由を守るため、国家や地域の住民には政体の選択や経済活動の自由が保障されるべきだという、米国人の哲学が北朝鮮の武力による南の統一や共産主義者の主張する「計画経済」や「私有財産の否定」の南への強制を容認させなかったと考えてよいであろう。

5 中国の参戦

朝鮮戦争が始まった時の中国は、既に述べたとおり、国内に大きな問題が山積しており、北の軍隊が釜山附近まで押している時は特に参戦の気配を示さなかった。

しかし、9月15日の仁川上陸作戦によって、国連軍が形勢を逆転させ、ひょっとしたら国連軍が北進するかも知れない状況になった時、中国は対米警戒を強める。

つまり朝鮮戦争の初期、米国は朝鮮戦争を朝鮮半島に局限するため悪いタイミングで台湾解放のために、人民解放軍が、大陸から台湾へ進攻を始めないように第7艦隊を、台湾海峡へ入れたが、この台湾中立化の一事も、中国にとっては、極めて非友好的な行為と映るものであった。

若し、朝鮮半島全域が米国を主体とする国連軍によって統一されれば、中国は台湾と朝鮮の二方面から挟撃される可能性も出てくる。

当時、中国は北朝鮮の水豊ダム発電所から、東北地方の電力の一部を送電してもらっており、そういう点からも、北京政府が仁川上陸作戦以後の国連軍の作戦の展開に重大な関心を抱くことは当然であった。

しかし、中国にとってもう一つ、ソ連をめぐり、米国の影響が北朝鮮に及んでくること以上に、不安な材料があった。

中国とソ連はこの時期、共産主義という共通のイデオロギーの下で、緊密な関係で結ばれているかのように見えていた。
しかし、中ソ両国間には、底流として、相互不信感が強く存在していた。

米国や西欧の外交官ですら南京が中国共産党の手に落ちたときに、国民政府の将来を見限る雰囲気が濃厚となり、中国共産軍に追われた国民政府の首府が南京から広東へ移された時には、南京にあった大使館を、国民党政府と同行させた各国の外交官も、国民政府の広東から重慶への再遷都の時は、ソ連大使だけが同行し、他の諸国は中国から外交官を引き上げた。

またスターリンは個人的に蒋介石に好意を持っていたと思われ、「蒋介石その人は立派な人だ」と語った事実がある。

それに反して、毛沢東以下の中国共産党幹部について、モロトフが西側記者に対する応答の中で、「彼等は共産主義者でもなんでもない」と述べ、ソ連がまったく評価していなかったことも明らかになっている。

しかもソ連は沿海州や黒龍江、伊犁川流域その他で、約120万平方キロメートルに及ぶ広大な土地を奪い、更に満州や朝鮮にも食指を伸ばしたがっていたという、歴史的事実を中国人は記憶している。

一番近い所では第2次大戦の最後の一週間だけ、連合国側に立って、対日参戦し、満州地区にあった、数10年にわたり日本が築いた莫大な資産を奪い去った。
それらの資産は当然に中国に帰属するべきものであったが、中国共産党の政権ができても、ソ連は遂に中国へ返還しなかった。

このような事実の上に中国人は歴史的にロシア人に反感と不信感を強く抱いていた。

この時期、満州で支配の実権を握っていた高崗という人物は「長征」の後で中国共産党に参加し、その行動においても、決して毛沢東に信服しているとは言えないものがあった。

すなわち、高崗は中国東北地区の最高権力者ではあっても、中国の最高意志決定は北京でなされるべきであり、外交や軍事の機能は、「地方」をあずかっているだけの高崗には無い。

にもかかわらず高崗は北京政府に無断で満州とソ連の間の貿易協定を約したりする非常識が見られ、東北地区の内治の政策にも、北京の神経をさか撫でしかねない、勝手な行為が見られたという。

北京政府は、ソ連が北朝鮮に国連軍が進撃した時は、義勇軍を編成しこれを支援するため、満州を輸送や補給の後方基地に利用する希望を持っていることを知り、益々不安を抱いた。

ソ連はかつて北清事変の後、満州に居座り、あわよくば朝鮮をも支配下に置こうとしたことがあった。中国は義勇軍の後方基地にソ連が居座ってしまうことを恐れた。

そして、高崗のような人物がソ連と気脈を通じ、東北部が中国本部から分離し、外蒙古が中国から離れ、ソ連の影響下に蒙古人民共和国となったのと同じ道を歩むことを懸念した。

「人民共和国」の樹立から一年そこそこで、チベット問題や国内改革の問題を抱えていた中国であったが、中国首脳部は対米警戒と対ソ不信の二つに悩まされながら、中国が義勇軍派遣を行うことを決断したといわれる。

仁川上陸作戦から、3週間足らずの10月3日の周恩来総理は、インドのバニッカル駐華大使に10月1日の韓国軍の38度線以北への進撃という事実に直面し、「国連軍の北進があれば、中国も看過できない」という意味の警告を発し、この内容は米英にも伝わった。

この時期、国連軍最高司令官マッカーサー元帥は、9月27日付で、「貴官の任務は北朝鮮軍の撃滅である」という命令を受けていた。
但し「38度線以南に限定」されているのか「38度線以北をも含む」のかは、明らかでなかった。

マッカーサー元帥は「以北をも含む」と解したようであるが、10月7日に国際連合総会で、全朝鮮半島の占領と全鮮統一選挙に関する8箇国提案が可決され、間接的表現ながら、38度線以北の北鮮軍攻撃を認めるのを待って10月8日、米軍の北進も始まった。

米国のトルーマン大統領は、戦争を朝鮮半島に局限したいという考え方に立っており、朝鮮戦争開始後直ちに台湾海峡に第7艦隊を入れたのも中国共産軍が台湾進攻を開始し、戦火が朝鮮半島以外の所に上がって、思わぬ展開になることを恐れたものであった。

しかし、マッカーサーは6月25日に北鮮軍の進攻後間もない7月31日に、ワシントンと十分な調整をしないまま台湾を訪問して蒋介石総統と会談をしたり、国連軍による南北朝鮮統一を語る等、朝鮮における全面勝利を考えており、トルーマンとは、戦の最後の結果についてのイメージは、かなり異なっていた。

トルーマンは、10月15日にウェーキ島でマッカーサーと「ウェーキ会談」を行い、考えを質した。

マッカーサーの判断は、「中国の介入の可能性は小さく、あっても規模は小さい。国連軍はクリスマスまでに北朝鮮における戦いに決着をつけ、帰国できるであろう。朝鮮戦争が終れば、ヨーロッパへ1個師団の兵力移送が可能となる。朝鮮統一選挙は1951年1月初旬に行われる」というものであった。

トルーマンはマッカーサーが政治不介入の態度とヨーロッパへの兵力移送の考え方を示したことに満足した。
しかし、軍事のシビリアン・コントロールをめぐるトルーマンとマッカーサーの確執は、むしろこれ以後に顕在化してゆく。

10月19日、平壌は国連軍によって占領され、東海岸を韓国軍が急進撃して鴨緑江へ迫った。
ところが10月20日、米国中央情報局から「水豊ダム付近に、中国軍出撃の可能性が大きい」という報告が大統領に出された。

ワシントンは早い時期に「鴨緑江沿いの地域に進むときは、中ソ国境には韓国軍のみを進出させ、中ソ介入の口実を与えない」ことを訓令していたが、マッカーサーは10月26日、大八軍の小兵力を鴨緑江に到達させた。

マッカーサーは国境の5マイル以内の爆撃を禁止する訓令を受けていたが11月5日に、中国義勇軍の越境を阻止するため、鴨緑江上の橋を爆撃させた。
マッカーサーは11月17日、大規模な包囲全滅作戦を計画し24日、マッカーサー自身の指揮により、実行に移された。

しかし、150万人ともいわれる元国民政府軍に属していた大量の中国義勇軍の人海戦術の前に、さしもの物量を誇る米軍も、後退につぐ後退を余儀なくされ、国連軍はたちまち38度線まで押し戻され、更に南に後退させられ、一時は京城を占領されてしまった。

しかし、補給線が伸び切った中国義勇軍は、進撃がここで止まり、国連軍が反撃した。

以後、38度線をはさんで膠着状態になった。西岸で北側がやや優勢で、38度線以内に戦線を維持しているほかは、東岸に近づくほど国連軍の戦線は、38度線の北側に食い込み、全体として国連軍がやや優勢を保った状態で、人命と物資の損傷だけが続いた。

この中国軍の介入は米国の対中不信を決定的とし、米中関係は、1972年のニクソン訪中まで、断交状態というよりも、準戦争状態といってよい状態が続いた。

中国の本格的介入という事態を迎え、前述のようにトルーマンとマッカーサーの対立が、次第にはっきりしてきた。

6 シビリアン・コントロール

先に述べたとおり、トルーマン大統領の局地戦として原状回復で終らせようという考えに対して、マッカーサー元帥は全面勝利論を展開していた。

そして中国介入後の対応でトルーマン大統領が打開策を練っている一方で東京にいたマッカーサー元帥は、「朝鮮半島における国民政府軍の利用」、「台湾から中国大陸への反政を行わせ第二戦線とし、中国軍の朝鮮半島への出撃兵力を減らす」、「満州への空爆」、「中国沿岸に対する海軍力による封鎖」、「中国に対する経済封鎖」等を主張し、米国議会の上下両院議員に手紙を出したり、新聞記者に語ったりしたが、トルーマンの了解なしに行われることが多く、1951年4月11日遂にトルーマンはマッカーサー元帥を解任し、大八軍司令官だったリッジウェー中将を大将に昇任させて後任とした。

ここで米国のシビリアン・コントロールについて触れておく。

米国の大統領は周知のとおり、国家の元首であると同時に行政機関の長であり、陸海空三軍の最高司令官である。

米国では大学入試や各種組織の人の採用方法を見れば分かるとおり、筆記試験よりも面接が重視され、知識の量よりも何ができるかが重視される。

また試験で採用された者よりも、多くの人から支持されて選挙された者が偉いのであり、尊敬される。

国の機関の局長以上の要職は任命職であって、原則として試験で採用された者は任命されない。

また「国防長官」等の軍事に関する「長官」や「次官」のようなポストには、職業軍人の職にあった者は、退役後10年以上経過しなければ就任させないのが原則である。

ただし、大統領や国務長官には、退役した次の日から就任できる。アイゼンハウアー大統領、マーシャル国務長官、ヘーグ国務長官がその実例である。

しかし、米国は軍事と外交に関して、上院が大変強い力を持っており、大統領は上院の同意がなければ、宣戦布告はもとより、軍の編成や行動についての決定や命令はできないし、条約を締結しても発効させることができない。

また、選挙で選ばれた大統領以外の任命職の局長以上の高官は上院の審査を経なければならないし、また、これらの高官は政権と運命を共にする。

つまり米国でシビリアン・コントロールという時、試験だけで採用された軍人と官僚は、シビリアン・コントロールを受ける立場であり、単に制服を着ていない役人というだけでは、パブリック・サーバントであって、シビリアンではなく、上院の審査を経た「任命職」のみがシビリアン・コントロールに参画できる。

統合参謀本部議長は社会的地位では国防長官に次ぐ高い地位を認められているが、国家安全保障会議においては、法定顧問として指定されてはいるが国家戦略について、求められない限り、積極的な発言は行わない。

しかし、このことは軍人の地位が軽んじられているわけではなく、プロトコールでは大佐以上の軍人に任命職以上の高い格付も認められており、同じ格式なら、軍人には文官よりも上席が与えられることになっている。

しかし、大統領は国防長官や国務長官を罷免できると同じように、終身職であるファイヴ・スターズの元帥と雖も、当然に任命、罷免ができる。
また、このシビリアンである大統領も、軍事と外交については上院の厳格な監視下に置かれている。

大統領は立法に関する権能がないので、軍事に関連があるとないとを問わず、必要とする法規は議会に要請して作ってもらわねばならない。
一見、絶大な軍事体験を掌握しているかに見える大統領も、議会によって厳しくチェックされている。

ただ、大統領にせよ、上下両院議員にせよ、選挙の洗礼を受けており、市民が選挙を通じて自分たちが委任した者以外に、「軍事の大権」は決して委ねないというのが、米国流のシビリアン・コントロールである。

マッカーサー元帥その人は、トルーマン大統領の解任のやり方に、多少の不快感を覚えたようであるが、米国人一般の感覚では極めて当たり前のこととして受け取られている。

また統合参謀本部議長等の三軍のトップクラスは、途中に任命職の高官を介在させずに、大統領や国防長官に報告や説明をすることが認められている。

しかし、上院の高い見識に裏づけられた、軍事外交への強い統制が行われており、将軍や提督も上院議員には畏敬の念を抱いているので、軍が暴走する可能性はない。

また「軍事のシビリアン・コントロールというのは、政治が軍事を統制することであって、軍人を蔑視したり、軍事を軽んずることではない」点が、政府にも国民にも十分浸透しているので、軍人の間に処遇や社会的地位に対する不満はなく、シビリアン・コントロールを安定したものにしている。

トルーマン大統領とマッカーサー元帥の対立は、軍人と政治家の対立というよりも立場の相違が引き起こしたものと言えよう。

因みに、1979年に秘を解かれたトルーマンの回想のメモアールでは、朝鮮戦争に対する中国の介入やソ連の態度に怒ったトルーマンが、「シベリアや満州に核兵器を叩きつけて、都市や軍事施設を破壊してやりたい」という主旨のことを述べている。

また、マッカーサー以外にも全面勝利論や対中強硬論を吐いていた軍人がいたらしいことが述べられており、これらの将軍たちのことを「優秀ではあるが、世界的視野を欠いている。将軍達は戦いに勝てばよいが、自分は米国の大統領として、世界の政治に責任がある」という主旨のことを述べた部分があり、受け取り方によれば、マッカーサーの主張よりも過激な部分すらある。

米国大統領として、言ったり、したりできなかったあるいは、してはならなかったことを、マッカーサーが、次々と公言したことが、トルーマンをして苦しい立場に追い込みかねないこと、マッカーサーのそのような言動がトルーマンにとっては極めて軽率な不快なものに映じたのであろう。

中国人は数世紀にわたって煉瓦を積み重ねて、人間の手によって万里の長城を築きかつ都市を煉瓦で築いた部厚い城壁で囲んでしまった気の長い国民性、千里の道を徒歩で旅をするがまん強さ、こちらが強く攻めれば退き止まれば横や後へまわって、こちらの後方を脅かし、こちらが退けば密着したようについて進んで来るという諦めと疲れを知らぬ、しつこさ等を併せ持っており、実際、元や清のような異民族支配を受けても、100年単位の時間をかけて、漢民族の国家を回復している。

このような中国人の気質を考えるならば、中国と本格的に事をかまえずに終らせたトルーマンの判断は誤りではなかったと言ってよい。

7 休戦

マッカーサーの後を継いだリッジウェーの時、休戦の話し合いの呼びかけがなされた。話し合いは休戦ラインの位置よりも捕虜問題でもめた。

休戦会談のきっかけは、国務省の高官からプリンストン大学に移ったジョージ・ケナンとマリクソ連国連代表の話し合いであった。

1951年5月31日、米国国務省も了承の上で会談が行われ、6月5日に2回目の会談が行われた。

そして6月23日、マリクソ連国連代表がラジオを通じて、朝鮮停戦交渉を提案したが、中国は人民日報を通じて同意し、米政府もトルーマン大統領が同意を表明した。

6月29日、リッジウェー大将が休戦を申し入れ、平壌放送と北京放送が受諾の放送を流した。
開城で7月10日から8月23日にかけて休戦会議が行われ、10月25日以降は板門店で現地軍司令官を代表とする会談が行われた。

記述の通り、休戦会談で最大の焦点は捕虜問題であった。

国連軍側の捕虜は、ほぼ全員が帰国を希望していたのに対し、北朝鮮や中国の捕虜の多くが帰国を希望せず、韓国や台湾への定住を希望するという事情があり、この意志確認の方法を含めて全ての捕虜を帰国させるべきか、希望の所へ行かせるべきかが争点となった。

休戦会談は両者相譲らず、1年余りたった1952年10月8日には、国連側が、休戦会談の無期限休会を通告する事態に至った。

この間米国の大統領はトルーマンが次の選挙に立候補しないことを明らかにしており、1952年11月4日、共和党のアイゼンハワーが当選した。

1952年12月24日、スターリンが朝鮮戦争終結に協力することを表明したが、米国は翌1953年1月27日にダレス新国務長官が「巻返し政策」を明らかにし、共産主義の進出に強力に反撃する意志を示した。

その一方で、アイゼンハワー大統領が2月2日の一般教書の中で、「台湾の中立化を解除する」ことを発表した。

その20日後の2月22日に、前年リッジウェー大将がNATO最高司令官に転出した後これを引き継いで国連軍司令官になっていたクラーク大将が傷病捕虜交換を提案し休戦会談が再度動き始める気配を見せた。

3月19日にはアイゼンハワーが、全面的勝利論を否定し、現在の戦線で休戦にする意向を示した。3月30日に、周恩来首相が休戦会談の再会と送還拒否を続けている捕虜の中立国引渡を提案してきた。

4月10日、傷病捕虜交換協定が成立し、6月8日、捕虜送還協定が調印された。

ところが、この内容が中国・北鮮側に譲歩した内容であったというので、李承晩が反対し、挙句の果てに、6月18日、反共捕虜約2万7000人を釈放し、市中に出してしまうという事件も起きた。

しかし紆余曲折を経て、1953年7月27日板門店で「朝鮮休戦協定」が調印され、朝鮮戦争は1950年6月25日の開戦から3年目で一応、戦火が収束した。

8 爾後に与えた影響

人間は経験に学び、判断するが、中でも賢い人は他人の経験を取り込み自分の経験として活用する。国家や人間がもっとも賢く振舞う時、その国家や個人は、歴史の流れの中から教訓を汲み上げて利用している。

朝鮮戦争は交戦諸国に、色々な教訓を与え、戦争の途中において、爾後において、いくつかの大きな影響を与えた。次にその中の主要なものを見てゆくことにする。

(1)日米関係に与えた影響

第2次大戦直後の米国は、日常必要な生活用の製品を中心とした雑貨の生産をする軽工業だけを残して、造船その他重工業力の大半を日本から奪い、二度と欧米にとって危険な国にならないようにしようと、農業国日本を作ろうとしており、戦後の日本はテレビジョンや原子力応用の研究、航空機産業等も禁止されたほどであった。

しかし、米ソの対立が深まり、冷戦が厳しくなるにつれ米国の日本に対する態度は変化した。
当時アジアで唯一の工業国であった日本を農業国にしてしまうことは中国全土が共産化し、朝鮮半島の北半分がソ連の影響下に入ったこの時期、決して米国にとって利益にならない行為であった。

また、あまり苛酷な仕打ちをすることにより、日本人をして、米国に対し第1次大戦後の英仏に対してドイツ人が抱いたと同様の感情を持たせてはならないと、米国は考え始めていた。

このような雰囲気の時に朝鮮戦争が勃発したのだが、この戦争で日本は、国連軍の後方基地として、大きな役割を果たした。
そのせいかあらぬか、米国は吉田茂首相が1951年9月8日のサン・フランシスコの調印式の演説で「和解と寛容の条約」と称した、賠償を求めず、講和後の制約もほとんどない対日講和条約草案を、僅か8箇月で作成し、ソ連・東欧と中国を除く、日本との旧交戦国の大半が調印した。

この講和条約調印と日を同じくして、「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約」が調印され、日本と米国の間には軍事的、政治的に強い結び付きができ上がった。

この時の講和条約は1943年に降伏したイタリーが結んだ条約と比較しても数等、寛大な内容であったため、イタリーが見直しを要求したほどであった。

しかし東南アジア諸国の中には賠償を要求する雰囲気が強く、フィリッピン、ビルマ(現ミャンマ)、インドネシア等は、個別に賠償交渉を行ってその金額を定めた。

また、中国とは北京政府と台湾の台北政府のいずれを日本の交渉相手とするかが問題になったが、吉田首相は「20世紀最大の虚構である」と自ら語りながら、国際環境と対米顧慮の結果「20年後には北京政府と交渉することもあろう」と言いながら、台湾の国民政府と講和条約を結んだ。

ソ連と東欧所奥は調印を拒否したため、この講和条約の当事国にならず、この条約に規定されている条項は、日本とソ連、日本と東欧の間には一切効力が及ばず、法的には戦争状態が継続されると共に「北方領土」についても、帰属問題は全千島列島が未解決の地域として残されてしまった。

日本の社会党や共産党が、自由民主党の「四島返還要求」よりも厳しい「千島全島返還要求」を唱えていたのも、あながち根拠のないものではないのである。

また、この講和条約の第2条C項は「千島列島放棄」は明記しているが、千島列島の範囲と新しい帰属国が明示されておらず、大戦中の連合国の宣言等にも明示がなかった。

1855年2月7日に下田で調印された「日本国魯西亜国通好条約」の第2条

『今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るべし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たず是迄仕来の通りたるべし』

という表現から見て、帝政ロシアは千島列島の範囲を「ウルップ」島以北の諸島としていることが明白であり、吉田首相は自ら首席全権として出席したサン・フランシスコ会議の演説の中で、カラフトや千島列島のことに言及し、「歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するもの」であること、「国後、択捉両島が昔から日本領土」であった事実等について、会議参加者の注意を喚起した。

また、この会議で米国のダレス全権は「ポツダム宣言が日本と連合国全体を拘束する唯一の講和条件である」こと「いくつかの連合国の間に私的な了解があったが、日本も他の連合国もこれらの了解には拘束されない」ことを明らかにした。

ポツダム宣言はカイロ宣言の原則が守られることを明らかにしており、カイロ宣言は領土不拡大の原則が明示されている。

北方四島のソ連による不法占拠はサン・フランシスコ講和条約の結果、日ソ間の太いとげとして顕在化してきた。

このとげは、日ソ間に慢性的不正常な状態をもたらし、その痛みは当初、日本にとって痛く、ソ連にはほとんど感じないものであった。

ところが時の経過と共に、日本が戦後復興を果し繁栄に向かったのに対して、農業不振や経済不振による国内の停滞で、ソ連・東欧の社会主義圏が自由世界の後塵を拝する状態になると、実質的な痛みのほとんどがソ連に移って行った。

スターリンが強引に、得撫(ウルップ)島で占領を止めるべき所を、国後、択捉、歯舞群島、色丹島に手を伸ばして日本固有の領土を奪取し半世紀に及ぶ日ソ国交の不正常の原因を作ったツケは、大戦後40有余年にして、ソ連の不利益の根源になりかねない情勢になった。

ソ連がサン・フランシスコ条約調印を拒否したとき、このことについて日本国内のマルクス主義者やそのシンパサイザがソ連・東欧も含めた「全面講和」を主張し、ソ連・東欧の共産圏の調印のない講和は単独講和だとして反対した。

また、「日米安全保障条約は、日本が米国のアジア戦略に組込まれ、日本が戦争に巻き込まれる」として反対する進歩的文化人や革新的政治家も多かった。

しかしその10年後の改訂までも、また改訂後も日本は戦争に巻き込まれるどころか、「日米安全保障」下に米国の巨大な市場を利用し、軍事費を最小限にとどめて、経済的繁栄の基盤を固めた。

国防力の弱い国が、世界最強の国の戦略の一環に積極的に組み込まれることにより安全を確保し、経済的繁栄をはかるということは、賢明な手段であっても愚行ではない。

常識的に、最強の国とその同盟国を武力で積極的に攻撃する国は、極めて稀だからである。

だが大国と同盟したい小国は、大国にとって、重要であり、メリットのある存在でなければならない。
米国は米国の哲学を大切にして、弱小国を助けてはくれるが、支援の程度は国家利益とバランスシートにかける実用主義的な側面がある。

また、Do-it-yourselfの国であり、自助努力をしないものは軽く扱い、自ら努力し励む者を尊ぶ。
日米安保を今後も有効に機能させるためには、こういう点を十分に念頭に置くべきである。

米国には、義理人情やハラ芸は通用しないので、日本もまた、米国にとって有用かつ重要な国にならねばならないことを忘れると、米国の友情を失い、それはEUとの距離を遠くし、孤立を招くことになる。

(2)米中関係に与えた影響

既に述べたとおり中国は、ソ連に対し帝政ロシアの時代から、強い不信感を持っていた。

ところが米国は中国の門戸開放を求め、自由競争の原理に従って中国の市場を特定の国が独占することなく、各国の経済活動に平等に機会が与えられるべきであるとする。

この主張は資金力の強い米国に好都合であると同時に、ロシアを含むヨーロッパやアジアで台頭し始めた日本に蚕食されて苦しんでいた中国にとっても好都合であった。

米国人はアングロ・サクソン流の哲学に根ざす、米国の価値観を押しつけるので、鼻につく点があるが反面、自分自身の行動も米国の価値観や道徳律で律せられているので、強大ではあるが、危険の少ない、安心して交際できる国である。

中国はロシアの膨張主義で多くの土地を奪われ、その過程で多くの富と人命を失い、ロシアへの不信感は根強かったが、米国に対しては、ある程度の親近感や信頼感を持っていた。

中国の北京政府要人も演説やインタビューなどで、間接的ながら、かつて国民党を支援したり中国に対してあやまちを犯した国や政府も、それを改めるならば中国は付合うことができるという主旨のことを述べており、米国にラヴ・コールを盛んに送っていた。

しかし、機が十分に熟さないうちに、朝鮮戦争がはじまり、しかも「抗美援朝」のスローガンのもとに米国の敵役でこの戦争に介入した。
米国は真珠湾攻撃以上に激怒し、中国の行為を憎悪した。

以後の米中関係は凍りついた状態で、国際連合における中国代表権問題では、米国は一貫して台湾の国民政府を擁護しつづけ、北京政府に対しては1971年10月25日、国連総会がなだれをうったように、圧倒的多数で北京政府招請を可決した時も、反対票を投じたほどである。

米国の大統領が中国を訪問するのは1972年2月21日から28日まで、ニクソン大統領によって行われるまで実現しなかった。

周恩来首相と毛沢東主席は1976年の2月と9月に夫々死去したが、遂に生きて米中国交回復の日を見ることはなかった。
両国が正式に国交回復を決定したのは1978年12月16日のことで、米中両政府の同時発表によって明らかにされた。

1979年1月1日、米中の国交は正常化したが、朝鮮戦争休戦の年から参しても四半世紀有余の年月が経過していた。

朝鮮戦争が米中関係に与えた影響というものは、この二つの大国が、夫々のやり方で、夫々に独自の歴史を刻みつづけ、中国は共産党の支配下で、毛沢東というカリスマ性を持つ巨人と周恩来という手腕のある政治家が、一貫してリーダーシップをとりつづけたため、世人はあまり意識しなかったが、じつに重いものであった。

(3)日本の内政に与えた影響について

日本経済は、朝鮮戦争が始まった当初は占領下で色々と制約を受けており高度経済成長どころか、第2次大戦で受けた被害を克服しきっていなかった。

ところが朝鮮戦争のときは、好むと好まざるとにかかわらず、後方の兵站の拠点であり、根拠地であり、国連軍のために重要な役割を果たすこととなる。

しかも占領下であったから、国連軍司令官であると同時に日本占領軍の司令官でもある者の名においてなされる命令に否やはあり得なかった。

結果として、日本の工業は再建の基盤が固まり、経済全体が受容のおかげで一息ついたことは、紛れもない事実であった。

そしてこの事実の上に、高度経済成長が始まったことも否定できない。

もう一つ重要な事実は、この朝鮮戦争をきっかけに、マッカーサー書簡により警察予備隊約7万5000人が創設され、海上保安庁8000人増員が行われたことである。

当初、日本に進駐していた米軍の多くが、朝鮮に移動したためこれを補完するものと理解されていた。

だが、昭和25年元旦に、マッカーサー元帥は例年のように、日本国民を対象とする「年頭の所感」を発表した際、「日本国憲法第9条の規定にかかわらず、日本は自衛権を持っている」ということを述べている。
恰も朝鮮戦争の勃発と、それに引き続く国際環境の変化を予想したかのような内容であった。

もっとも、自衛権というものは、国家の基本的権利として、主権、平等権、尊重権などと共に天与のものであって、国内法で否定しようがすまいが存在しており、国内法では権利を行使しないことを規定する自由がある。

だから、マッカーサー元帥の言葉は、国会、内閣、最高裁判所よりも強い力を持っており、日本占領の連合国軍最高司令官の言葉には、極めて大きな重みがある。

しかし、この「自衛権」が大きく日本にかぶさってくるのは、朝鮮戦争以後のことであった。
「警察予備隊」は2年後には「保安隊」となり、海上保安庁から海軍の機能が分離して「海上警察隊」となった。

更にその2年後に、「陸海空の3自衛隊」となり、ほぼ現在の形になったが、原形は朝鮮戦争勃発当時の「警察予備隊」に発している。

当時の首相、吉田茂は時代の読みのできる、外交官出身のスケールの大きなステーツマンであり、大局観のあるしかも信念に基づいて、自分の保身や名誉にこだわらず、たとえ人々の不人気や批判を呼んでも、国家の将来に必要なことはやるというところがあった。

吉田首相は占領下であっても言うべきことは言うという姿勢で、マッカーサーの部下の占領軍司令部の局長級の少佐や大佐に対しても、日本の首相としての矜持を持って物を言い、マッカーサー元帥の信頼を得、米軍の高官もマッカーサー元帥以外は吉田首相に対して、命令的な姿勢はとれなかったという。

吉田首相と、米国が対日講和条約締結を急ぎ始めた時、大統領の特使として米国側で衝に当ったのは、ダレスであった。

ダレスは日本の再軍備を促したが、吉田首相は「再軍備は必要なことでありいずれはしなくてはならない。しかし、今やるべきことは経済建設である」としてこのダレスの要求をことわっている。

吉田首相と心情的に結ばれていたマッカーサー元帥は、吉田首相のこのときの「経済が先だ」という考えを支持して助けてくれたという。

しかし、吉田首相は、将来の国軍の幹部を養成するため、昭和27年には「保安大学校」を創設し、29年には「防衛大学校」としたが、ここで鳩山一郎に政権の座を譲った。

吉田首相は「保安大」を時々訪れ、ある時は「私は諸君の生みの親である」と学生に語りかけ、激励し、「防衛大」となった後も卒業式には出席し、祝辞を述べている。

吉田首相は、旧軍を嫌っていたが、国防の必要性を認め、新国軍の将校を養成する必要も認めていた。
その証拠に、国会の質疑応答の中で「言葉や悪いが士官学校をできるだけ早くつくりたい」と述べ、これは当時のNHKのラジオ・ニュースでも報ぜられ、全国紙にも掲載されたことである。

また来賓として防衛大学校第1期生の卒業式で祝辞を述べた際に、「軍人精神を発揮してもらいたい」ということを特に強調している。

そのような首相の下で、講和条約と日米安全保障条約が結ばれ、自衛隊が創設され、高度経済成長政策が推進された。

そしてこれらの政策は、朝鮮戦争によって加速された。
ところが、その出発点が占領下に、マッカーサー元帥がオールマイティーの権力者の立場で、「書簡」によって、命じて「警察予備隊」を作り、講和条約調印と同日付で「日米安全保障条約」に調印したため、日本国内の世論が未成熟のまま現実が走ってしまった。

そのため当時のマルクス主義のシンパサイザーらを中心に、「ソ連との距離が遠くなる」ことと、「米国との距離が近くなるだけではなく、社会主義革命がやりにくくなる」のを恐れ、「民意を無視した米国に隷属する政策」という表向きの理由づけの下で、「反自衛隊」、「反安保」を唱え、長くその主張が、安全保障政策をめぐる日本国内の不毛の議論の底流となった。

この種の問題は、約二世代60年程度の時間をかけないと、国民の間に正しいバランス感覚は回復しないであろうから、21世紀の初めの10年が過ぎるころまで日本国民の安全保障に関する合意は未完成状態がつづき、何によらずいわれもなく、自衛隊や国連の軍事的側面を否定し、自衛隊のステータスをことさらに低くして、批判することと国防力を弱め否定することが平和に貢献する正しい道だと確信している評論家やキャスターあるいは学者らは暫くしばらく力を保ちつづけた。

だが、日本人の教育水準の向上や外国旅行の機会が増えるにつれて、世界の常識に急速に、日本の世論が近づいていく傾向は、はっきりしている。

(4)国際連合に与えた影響について

1950年6月25日の北朝鮮軍の南への進攻が始まったとき、国際連合にソ連代表は不在であった。
この年の1月10日、安全保障理事会は、中国代表権問題をめぐり、国民政府除名のソ連案を否決したため、ソ連は国際連合のボイコットを始めた。

ソ連不在のときは、安全保障理事会も総会も、表決の際は棄権と見なすのであるが、朝鮮戦争勃発当時、ソ連が棄権を反復する形となり、その拒否権の影響を受けずに、米国主導で決議が次々と可決された。

ソ連は8月1日、安全保障理事会に復帰したが、その結果、ソ連の拒否権が安全保障理事会の決議にブレーキをかけることとなり、国連軍に38度線突破の正当性を与えた10月7日の「国連軍による全朝鮮半島占領と全朝鮮統一選挙に関する8箇国提案」は、安全保障理事会ではなく、国連総会の議決である。

10月25日に中国義勇軍が北朝鮮を助けるため介入してきたが、この事態に安全保障理事会は、ソ連の拒否権がある以上何もなし得ないことは明らかで、米国は11月2日「平和のための結集決議」を総会で採択させた。

この決議は「安全保障理事会が、大国の拒否権等でその機能が十分に発揮できない時は、総会が武力行使を含む必要な措置を執ることを勧告できることや、必要な調査・報告を行うこともできる」というものである。

1951年1月4日中国軍と北朝鮮軍は38度線以北を回復した後、京城を再占領し、1月25日に国連軍が反攻を開始し、38度線附近で国連軍が優勢を保ってはいたが、膠着状態となった。
2月1日、中国の介入を怒った米国は総会で、中国政府を「侵略者」とする非難決議を採択させた。

この時期を境に、強化された総会が国連活動の中心となり、総会の決議を尊重するという形で、事が処理され、安全保障理事会は次第に国際紛争等の処理に関する機能の多くを総会に譲って行く。

ところが1950年代の終りまでにアジアの主要地域は植民地の地位を脱し、ブラック・アフリカも1960年代に大半が独立して、大挙して国際連合に加盟した。
その結果、スエズ、キプロス、コンゴ等の各地の紛争の際、国際連合に拠ったアジア・アフリカの小国が、しばしば主導権を握って、解決し、米ソをはじめとする大国の意志とは異なる国際政治の流れが見られるようになった。

そして米ソ超大国の影響力が相対的に低下する傾向が生じてきたことは否定できない。

その結果、大国が介入して来ないであろうことを見越して、各地に内乱や紛争が発生し、慢性的な不安定や局地紛争が多発する傾向が見られるようになった。

少なくとも、大国の鶴の一声で問題が片付いたり、大国の意志が強力に貫けるという国際環境はなくなってきたと言ってよい。

朝鮮戦争当時は、米国にとって有効なものであったが、今や米国にとっても「強い総会」は困った存在であると言えよう。

しかし、もはや既定のものとなったこの状態は「主権平等の原則」が、くつがえされない限り、変わらないであろう。

9 まとめ

朝鮮戦争は第2次大戦後5年目にして発生した大規模な戦争であった。
しかも国際連合という国際の平和維持機関が編成した国際連合軍が、一人の最高司令官の一元的指揮の下で戦った、「連合作戦」であり、陸海空三軍を東京の司令部で一元的に指揮した「統合作戦」としての色彩も濃厚で、仁川上陸作戦のとき、鴨緑江岸の橋梁等の爆撃その他の重要な作戦のとき、いつもマッカーサーの姿が現場の艦上や機上にあり、また実施の決断のときに、常にマッカーサーが関与していた。
その意味では統連合作戦を研究する際には重要な、戦史事例である。

またトルーマンとマッカーサーの確執から解任に至る、軍事のシビリアン・コントロールに関する問題についても、一つの事例を提供した。

当時のマッカーサー元帥は「国際連合軍最高司令官」としての立場と「日本占領の連合国軍最高司令官」としての立場があった。
前者の場合、マッカーサー元帥は、現地における軍令の執行者の立場にとどまらねばならないが、後者の場合は、日本の天皇よりも上席にあり、かつ三権の長を指揮監督する立場にあり、占領行政を司る、文官たる司政官の役割も持っていた。

マッカーサーの言動の中に、シビリアン・コントロールの枠を踏み外したものがあったことは否定できないが、マッカーサー元帥の立場は、単に朝鮮半島で戦う軍司令官というだけではなく、占領地の行政官という性格も併せて備えていたのである。

もちろん、欧米で「軍事のシビリアン・コントロール」という場合のシビリアンは記述の通り「文官」とか「役人」あるいは「官僚」を意味しない。

米国の場合は、「局長以上の高級公務員」は、大統領や長官が見識のある在野の人材も含めて、広い範囲から選び出し、上院の審査と同意を経て任命する。

この「任命職」が大統領や長官を助けて「軍事のシビリアン・コントロール」を円滑ならしめるが、この「任命職」以外の国防総省等の国防軍事組織に勤務する「軍人」や「文官」はシビリアン・コントロールを受ける立場にあるとされている。

米国では私服で勤務する公務員は、いわゆるパブリック・サーバントであって、単に「文官」というだけでは軍事のシビリアン・コントロールという時の「シビリアン」ではない。

米国は建国の歴史に由来して、伝統的に選挙で選ばれた人が一番偉く、その次に、選挙で選ばれた人の審査を経て任命された人が偉く、試験で選抜された人は更に下位に格付けられるので、こういうことになる。

やはり米国人の常識ではマッカーサーはトルーマンに従うべきであった。
この時のシビリアン・コントロールの不円滑の反省から、ベトナム戦争の時はワシントンが砲爆撃の目標の選定やウェーポンシステムの選定の領域まで立ち入り、今度は軍事的適応性を欠き、長期間にわたり、大きな軍事力を投入したが、後手にまわり結局失敗したと批判されている。

第2次世界大戦

第1次世界大戦後の1920年から1921年にかけて、世界経済はヨーロッパが疲れてしまいちょっとした不景気に見舞われた。
大戦中に膨張した主要各国の軍備を維持管理することは、各国に非生産的分野における多額の出費を強いることになる。

そのような時、米国大統領ハーディングの呼びかけで1921年から1922年にわたって開かれたワシントン会議は、世界史の上に大きな意義を持つ。
第2次大戦についてこのワシントン会議の頃から述べることにする。

1 ワシントン会議

ワシントン会議は、「海軍軍備の縮小」、「太平洋と極東に関する問題」等を審議することを目的とするものであった。

海軍軍縮に関しては、当時の世界における主要な海軍国、日・米・英・仏・伊の諸国間で討議の結果この5箇国は、現に保有する主力艦を削減するとともに、向こう10年間主力艦を新造しないことを約した。

5箇国間の主力艦の保有し得る総頓数の比率は、米英を10とすると日本が6、仏伊が3.5と取り決められた。当時、二国海軍主義に拠って世界最大の海軍力を誇っていた英国に対して米国がパリティを認めさせたことは、極めて意義が大きい。

先に述べたように1920年から1921年にかけての大戦後不況が、英国の財政を圧迫し米国の主張を、認めさせることになったと言えよう。
一方、日本は対米6割の比率を認められて、西部太平洋、アジア大陸周縁部水域で制海権を得た。

しかしワシントン会議のもう一つの主題であった「太平洋と極東の問題」では、米国の外交主張に大幅に名をなさしめた。

すなわち、日・米・英・仏・伊・中・白(ベルギー)・葡(ポルトガル)・蘭(オランダ)の九箇国の間で「九箇国条約」が締結された。

この条約は「中国の独立と領土保全」、「中国に関して門戸開放主義を尊重する」ことを約したものであるが19世紀末以来、米国が唱えてきた対中国外交の基本原則を、諸国に承認させたものである。

さらに米・英・日・仏の四箇国の間で「四箇国条約」が締結され、「四箇国が太平洋方面の属領に関する権利を相互に尊重する」ことを約束した。

この条約により米国は、日本に対して、フィリッピンの安全を確保するとともに、日英同盟はこの条約の締結によって、存在意義を失ったものとして廃棄させ、日本と英国間の絆を断った。

日英同盟廃棄に際して英国の態度は、「日露戦争の際に、英国は陰に陽に日本を支援し、ロシアの行動を妨害してきたが、第1次大戦において日本は対英軍事協力において、自国本位の消極的姿勢が目立つ頼りない同盟国」であったとして、あまり日英同盟廃棄を惜しむ感情はなかったと伝えられている。

また、ワシントン会議を機に、米国は英国と共に、日中間で山東問題を商議させ、「対華二十一箇条」によって日本が獲得したものの大半を放棄せしめている。

この時期を機に、米英間、米中間の親密さが増して行くのに対し、日米間、日英間、日中間が離れていく傾向を示し始めた。

2 大恐慌とブロック経済

1929年にウォール街の株価大暴落をきっかけに全世界に不況の嵐が吹きまくる。

当時を青壮年期に体験した人々は、今も思い出すと悪夢にうなされる感じだという。

東京帝国大学を卒業した人々に就職先がなく、倉庫番の口を見つけた者が羨ましがられたというほど凄まじい不況であった。

ところが当時のヨーロッパは19世紀末以来アジア・アフリカ全域をほとんど分割して植民地にしていた。
例えば、1900年当時、アフリカの90.4パーセント、アジアの56.6パーセント、ポリネシアの98.9パーセント、大洋州の100パーセントが植民地化されていた。

アジアは一見して植民地化されている地域が少ないように見えるがソ連極東部や中国が広大な面積を占めているためで、西アジアや東南アジアはタイを除く全域が欧米の植民地になっていた。

そして西欧諸国は宗主国を中心に、自国の植民地を集めて経済圏を構成する、いわゆる「ブロック経済」の時代に突入した。米国は当初ヨーロッパのこのやり方に反発していたが、ヨーロッパのブロック経済に対抗して南北アメリカ大陸の大半をもって「汎米経済ブロック」を構成した。

ここに世界は、大英帝国の版図の大半は英国ポンドを通貨とするいわゆる「スターリング圏」として、フランス植民地は「フランス連合圏」としてブロック化される等、植民地を持たないか、持っていても市場として不十分なものしか持たない日本、ドイツ、あるいはイタリーのような諸国は世界貿易からはじき出され経済的孤立により苦境に立った。

日本はアジア地域でまだ欧米の植民地になっていない、満州や中国本部への進出を企図し「日満経済ブロック」を構成しようとするが、ヨーロッパではドイツでヒットラー率いるナチスが台頭し、1933年に政権に就き、人間が生きるために必要な空間を「生存圏」として要求し植民地の再配分を主張するようになった。

イタリーもまた、米国の移民を制限する方針に加えて市場としての価値の乏しい僅かばかりの不毛の植民地を北アフリカに持っていただけなので、経済的に大変苦境に立たされ1922年来、ファシスタ党の政権が樹立され、やがてエチオピアに侵攻し、これを併合する。

世界的経済恐慌は、ブロック経済を招来し、その結果、工業国間に市場をめぐる深刻な対立を引き起こした。

3 第2次大戦の勃発

アジアでは中国大陸をめぐり日本が盛んに軍事行動を起こし、アフリカではエチオピアに対するイタリアの侵攻、ヨーロッパ大陸ではフランコがモロッコから兵を興してスペイン戦争を始め、30箇月に及ぶ戦いの後に人民戦線の政府が1939年3月に倒れる等、世界は非常に不安定な状態となった。

ドイツも1933年政権の座に就いたヒットラーが、ヒンデンブルグが死去すると、総統の座に就き、ナチス党の党首として、政治権力の全てを握る権力者の地位だけでなく、国家の元首としての地位に就く等、権力や権威を一手に掌握し独裁者としての足場を固めた。

そして1938年3月15日にはヴェルサイユ条約とサン・ジェルマン条約を無視してオーストリアとドイツを合併したが、ズデーテン地方のドイツ人が虐げられているという理由で、チェッコスロバキアにこの地方のドイツ編入を要求した。

英国のチェンバレン首相は、1938年9月29日フランスやイタリアの代表にドイツ代表を併せてミュンヘン会議を開き、ドイツの要求を受容した「ミュンヘン協定」と呼ばれる「英仏独伊四国協定」を結んだ。

ドイツは10月1日にはズデーテン地方に軍事進駐を行い、翌年の3月15日にはチェッコスロバキアの全土を併合してしまった。

第1次大戦に敗れ、ヴェルサイユ条約下で、いろいろと軍備に制約を受けていたドイツがどこで軍事的基礎を磨いていたのかについて、ふれておきたい。

1922年ドイツとソ連はジュノア付近のラパロでドイツ外相ラテナウとソ連外相チチェリンが会談し、ラパロ条約を結んだ。この条約の中でドイツが赤軍の整備強化のため、軍事指導者をソ連へ派することが定められていた。

ドイツは、この規定をフルに活用し、軍事上の教育訓練や戦術の経験を積み、武器の研究、取扱について慣熟する等の機会を得ていたのである。

チェッコスロバキア全土の併合という事態に到って、さすがに、英国とフランスはこれ以上ヒットラーを宥和策で甘やかしてはならないと気がついた。
チャーチルは早くから対独宥和政策を批判し、厳しい態度をとるべきであると主張していたが、チェンバレンらの気付くのが少し遅きに失した。

英仏はポーランド、ギリシャ、ルーマニアなどに対独安全保障を約したが、実態は何も具体的な策が講じられるに到らなかった。
ヒットラーは英仏がリップ・サーヴィス以上のものは提供しないであろうことを予想し、生存圏拡大の最後の仕上げに、ポーランドのカーゾン線以西を攻略することを計画した。

第2次大戦後に判明したことだが、ヒットラーとスターリンの間に、カーゾン線の東側をソ連、西側をドイツが取るという、独ソによるポーランド分割の密約があったと言う。

1939年9月1日ドイツはポーランドに侵入し、9月3日には英仏はドイツに宣戦を布告し、ここにヨーロッパを舞台として、第2次世界大戦の端緒が開かれた。

ソ連は9月17日ポーランドに侵攻し、カーゾン線以東を占領した。
ソ連がカーゾン線以東に侵入し占領した際の大義名分は次のようなものであった。

すなわち、カーゾン線以西は常にポーランド人の居住地であったが、以東はロシアとポーランドの勢力が過去に混在していた。そこで英国人カーゾンの提唱によってロシア・ポーランドの国境線として、第一次世界大戦後に引かれたのがカーゾン線である。

しかしこの決定はロシア人に受容できても、ポーランドには不満の多いものであった。

ポーランドは16世紀当時にポーランド王国が栄えた時の国境を回復しようとはかり、1920年2月ロシア革命後の混乱から脱し切れていなかったソ連に対して、戦いを開いた。

戦況はソ連に有利に展開したが、英仏はポーランドを支援し、最終的に1920年10月和平を結んだときは、ソ連が退却しつつあった。
そして1921年3月ポーランドの国境はカーゾン線より、はるか東側の白ロシアの領域と定められていた地域に引かれることとなった。

第2次世界大戦においてヒットラーとの密約に基づいてカーゾン線以東を占領したソ連は「1921年ポーランドに奪われた白ロシアの領域を回復した」と述べポーランド侵攻の理由づけとした。

だがこの論理に立つと、中国が帝政ロシアに奪われた旧領回復に、あるいは日本が北方四島の回復に、それぞれ対ソ武力発動したとしても、合法的になってしまう。
ひいてはイラクのフセイン大統領の「旧領クウェートを武力で回復した」という主張も合理化されてしまう。

たまたまソ連がその後ナチス・ドイツに攻められて米英と共に戦って戦勝国の側に立ったので容認されているが、かなり強引かつ危険な論理である。

一方ドイツはポーランドに対して、まず1939年4月ダンチヒの返還とポーランド回廊に治外法権の伴う鉄道と道路の敷設を承認するよう要求した。そしてその直後に、ポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄することを宣言した。

つまりドイツがチェッコスロバキアを併合したことに鑑み、英仏がポーランド、ルーマニア、ギリシャと対独安全保障を約したことは既に述べたが、ドイツはポーランドに対しては「英国・ポーランド間の相互援助が約されたことはドイツ・ポーランド間に存在する不可侵条約の前提を変更したものである」とし、英国に対しては「ポーランドと相互援助を約することにより、英国がドイツ包囲の政策をとるにいたったことを証拠立てるものである」として条約破棄の理由づけとしている。

ヒットラーはこのポーランド侵攻をもって生存圏拡大を一段落させるつもりであり、局地戦で終わらせ英仏との戦いは回避するつもりでもあった。

だが1939年5月英仏がトルコと相互援助条約を締結したのを機に、ドイツはイタリーと軍事同盟を締結した。この結果、英仏と独伊が対立するという形がヨーロッパにでき上がり、英仏の対独観は、より厳しくなったと言ってもよいかも知れない。

ドイツは電撃戦の形で対ポーランド戦を速やかに終結させ、英仏がこの既成事実の上に、対独戦を行わないことを期待した。西部戦線は英仏の対独宣戦布告後も実質的には静けさを保っていた。

だが英仏の姿勢に変化がないと判断したヒットラーは、翌1940年4月に、諸外国の戦争準備が整わないうちに戦いを開き、有利に終らせるべく行動を起こした。

まず4月にデンマークとノルウェーを迅速に占領し、5月にはベネルックス諸国に攻め込み、5月15日にオランダ、5月28日にベルギーが降伏した。ベネルックス三国を通ってマジノ戦を側背から襲われたフランスも6月17日に降伏した。

ベネルックス三国もスカンジナビア三国も大国同士の争いの中で、必死に中立維持を願って努力したが、大国が戦術的、戦略的に必要な地域は、弱小国家である限り中立を保つことは至難の業であることを今次大戦は如実に示している。ヒットラーのような無法者だけが中立侵犯を行うのではない。

英国もノールウェー沿岸に若干の機雷を敷設したり、ある一時期ドイツに先んじてノールウェーを占領する計画を立て、小部隊を上陸させたりしている。

またソ連はドイツと密約があったとはいうが、バルト三国併合の最初の口実は「バルト三国の領域内でソ連船が国籍不明の船から不当な扱いを受けた。バルト三国には国際法上の中立国の義務を果たすだけの軍事力がない。ソ連が代わってその役割を果たすから、ソ連軍の駐留を認めよ」というものであった。

スウェーデンもドイツの軍用列車の国内通過やエンジンや機体の不調のドイツ機の緊急着陸上の提供を強要され、連合国が事情に理解を示したおかげで辛うじて中立国であり得た。

このようにドイツが膨張をつづけている状況下に、チェッコスロバキア併合によってドイツがバルカン方面へ勢力を拡張し得る立場に立ったと考えたイタリアは、1939年4月アルバニアに侵入し、これを併合した。

アルバニアが第三国の勢力下に入ることは、トリエステからバリまでのイタリア諸港の機能が危うくなることを恐れたものである。なおアルバニアは第1次大戦後イタリアと軍事同盟を結び、イタリアの勢力下にあった。

その後イタリアは西部戦線におけるドイツの電撃作戦の進展ぶりを見て、ドイツ側に参戦した。
ところがドイツは海軍力において英国に劣勢であり、英本土上陸作戦の成算が得られなかった。

ここでヒットラーは彼なりの遠大な計画を考えた。当時、独ソ間にはポーランド問題をめぐる英仏との対立に対応するため、不可侵条約が存在していたが、ヒットラーは日頃、共産主義やソ連のポルシェビキを、口をきわめてののしっていたから、本心からソ連と平和関係を永続させようという気持ちはなかったであろう。

ヒットラーはソ連に対して電撃戦を展開して短時日に粉碎し、極東において日本の比重を相対的に高めて、米国を太平洋方面に釘付けにし、英国を孤立した戦いに追い込み、有利に局を結ぼうというものであったと言われる。1941年6月23日独ソ戦争の火蓋が切られた。

4 日本の第2次大戦参戦の経緯

ブロック経済に苦しんだ日本が、中国大陸に軍事的侵攻を行い、1932年清朝の廃帝溥儀をして皇帝に戴く満州帝国を建て、これを中国本部から分離し、日本の政治的、軍事的支配権の確立をねらったことは、日米間の対立感情を強めた。

満州は、日本国内の貧しい農民や都市の若者らが開拓移民として大陸に渡り、国内の雇用の不足をある程度解消し、工業用石炭や大豆その他の第一次産業製品の獲得や、雑貨の市場としても、かなり有効に機能したが、日本にとって重要な各種金属、生ゴム、パルプ材等は入手できなかった。

また軍事的には、海軍にとってゴム、鉄、アルミニウムなどと共に、石油は血の一滴に匹敵するほど重要なものであったが、これらの資源は満州にはなかった。

ただ、この一事をもって単純に日本が、大戦にのめり込んで行った原因を、「南へ石油をとりに行った」と考えている者がいたとしたら、あまりにも考察が甘く浅薄である。

海軍が石油に強い危機感を抱き始めたのはインドシナ半島に軍を進めるとともに、米国の嫌うナチス・ドイツやイタリーとの間に「日独伊三国同盟」を結び米国との対立が厳しくなってきた、昭和15年9月ごろからであった。

しかし現実に米英蘭の諸国が、こぞって「対日石油禁輸協定」を結んだのは昭和16年10月8日であり、米国が単独で一足早く「対日石油禁輸措置」を発表したのは、昭和16年8月1日であった。

しかし日本と米英蘭の関係は、経済ブロックが形成されたときから、摩擦の大きさは徐々に係数が高まっており資源の入手と、第二次産業製品を売り捌く市場の確保をめぐり対立がつづいていた。

日本が満州をはじめ、中国大陸へ軍事的、経済的に進出の度合いを強め、同じ悩みをかかえていたドイツやイタリーと手を結んだことにより、米英蘭との関係はますます悪くなっていった。

そういう雰囲気の中で、米英蘭及び中国の経済的対立は、これらの諸国の英語の頭文字をとって、「ABCD包囲網」と当時の日本人に呼ばれ、いつしか白人によるアジア・アフリカ支配に反発する雰囲気が日本の大衆の中に生じてきた。

そしてヨーロッパやアメリカの植民地が無くて、自由に貿易ができれば、こんなに苦しむ必要はないという声が、新聞や雑誌にもしばしば表れるようになった。このような社会一般の空気の中で、東南アジアと極東の資源はアジア人がアジア人のために使い、市場もアジア人の自由な意志で貿易できるように開放されるべきだという考え方が生まれ、いわゆる「大東亜共栄圏」という構想が形成された。
当初は雑貨売り捌きの市場を求めて対立していたものが、思いもかけぬ方向に発展していったわけである。

なお、「石油を取りに南へ行った」という単純な思い込みの裏には、石油の地位が当時も今も同じだと思っていることに由来する部分も多分にある。
戦前から戦後の数年にかけて、日本の国家としての石油需要は石炭に比較して極めて小さく、海軍を除くと石炭の消費が圧倒的に多かった。

すなわち戦前、戦中の電力は80パーセントから90パーセントは水力でまかなわれ、10パーセントから20パーセントが石炭による火力発電であり、輸送の中心は蒸気機関車による鉄道であった。化学工業や製鉄業の100パーセント近くが工業用石炭に依存しており、石油や天然ガスは特殊なケースでしか用いられていなかった。

つまり当時の石油と石炭の地位は、現在の石油と石炭の立場を逆にした以上に石油の地位は低かったのである。家庭の熱源はほぼ100パーセント薪か炭で、一部の家庭で石炭が用いられていた程度で石油や電気は極めて稀であった。

すなわち国家戦略としては、マレーシアのゴム、錫、インドネシアのマンガン、ボーキサイト等の非鉄金属、米国を経由するくず鉄、石油、満州の工業用炭、豪州の羊毛、インドの綿花等が頭に浮かぶので、石油は重要ではあったが日本が欧米と対立したり、中国へ軍事的進出を行って、米国と抜きさしならぬ関係に到る直接の因を作る端緒を作ったわけではない。

やはり戦争の原因はブロック経済であったと言うべきで、これが植民地をめぐる争いとなり、ドイツは生存権を主張し、また植民地の再配分を要求したのであり、日本ではアジアの植民地を、白人から奪い返し、大東亜共栄圏を確立するという主張となる。

この点については、1941年8月に大西洋上の巡洋艦オーガスタ艦上で、チャーチル・ルーズベルト会談が行われ、その結果が「大西洋憲章」として発表された際にも、「ナチス・ドイツの侵略はもちろんよろしくないが、第1次大戦後のウィルソンの十四箇条の精神に従って民族自決の原則に基づいて戦後処理をしなかった英国にも、この戦争の一半の責任はあるのだ」ということをルーズベルトは指摘しており、「ナチス・ドイツと戦う英国は助けるが、大英帝国の版図にある植民地は戦勝の暁には、民族自決の原則に従って独立させる」ことを約束させている。

日本が「この共同宣言の内容が確約できるものだったら、日本も中国やインドシナから日本の軍や警察機構を引き揚げる。ついては早急に経済ブロックを解消してもらえないか」と米英にタイミングよく話しかけていたら、存外うまくいって、以後の日米英蘭の関係はうまい具合に運んでいたかもしれない。

残念ながら、これは馬鹿げた想像でしかない。しかし、外交というものは、強気一点張りやきれいごとばかりでなく、どろどろした泥水をかぶったり、飲んだりすることも必要であると思うので、あえて馬鹿げた夢想を一言付け加えておくものである。

さて日本の海軍には、米内光政海軍大将、山本五十六海軍大将、井上成美中将らは、日独伊三国同盟に反対し、米国とのっぴきならぬ関係になることを恐れる人たちも多く、海軍は対米英戦になることは消極的であった。
ところが日本軍が昭和15年9月23日、北部インドシナに進駐し、同月27日に日独伊三国同盟がベルリンで調印され、枢軸体制ができ上がり、米英の対日姿勢が硬くなるにつれ、海軍は日米関係に重大な懸念を抱きはじめた。

昭和16年1月23日、海軍大将の野村吉三郎新駐米大使は「極秘訓令」を持って赴任し、米国と交渉を開始した。しかし6月17日に当時オランダ領だったインドネシアのオランダ当局との経済交渉が不調に終わったため、インドネシアの資源利用や同地を市場として利用することが困難になった。

このことは、ボルネオの原油の入手ができなくなったことであり、海軍としても重い腰をあげて、対米戦を含む、米英蘭との対決に対応する措置を本格的に講ぜざるを得ないという気持ちが固まってきた。
7月2日、御前会議で「情勢の推移に伴う国策要綱」が可決され、「対米戦も辞さず」という政府と軍当局の意志の統一がなされた。
米国は7月25日に「在米日本人資産凍結」、同26日には「日米通商条約破棄の通告」を行った。

7月28日オランダは米国にならうかのように「インドネシアの日本人資産凍結」、「石油協定廃棄」を決定した。ところが日本が、このような国際的雰囲気をさか撫でするかのように、7月29日に南部仏印に進駐した。そして8月1日、米国は「対日石油禁輸措置」を発表した。10月8日には、「米英蘭印対日石油禁輸協定」が成立し、日本の海軍も完全に対米戦で腹をくくらざるを得なくなった。

ヒットラーは英仏の対独宣戦布告後、次の年の4月、5月頃、英仏の継戦意志が衰えないのを見てとり、他国が準備を整えないうちに電撃作戦に移行して、フランスを攻撃したというが、日本の海軍もまた、この時期、石油が底をついて艦隊が浮かべるスクラップ群になって、戦う能力を喪失してしまわないうちに対米戦を行う決意を固めたのである。

しかし、当時の日本の提督のうち、で対米戦の結果について、自信をもって「勝利」を予感していた人は、恐らく皆無だったであろう。
11月26日、ハル・ノートの提示があり、12月1日の午前会議で米英との開戦がなされた。

昭和16年12月8日、米英に宣戦が布告され、12月11日にはドイツとイタリーも対米宣戦布告を行った。

5 大戦の終結とその後の世界

この大戦では米国のロジスティックスに対する巨大な能力が如何なく発揮され、日独伊枢軸側は緒戦の優位を維持できず、次第に守勢どころか敗勢に追い込まれていった。

1943年7月25日イタリアでムッソリーニが失脚し、バドリオ政権が樹立され、9月9日にはイタリアが無条件降伏した。
ヒットラーによって幽閥先の山荘から救出されたムッソリーニは、北イタリアに政権を樹立して戦いをつづけたが、イタリアにおける敗勢は、おおうおべくもなかった。

ドイツ軍も1943年2月2日スターリングラードの敗北のあと、同年7月5日から23日まで戦われたクルクスの戦いで大消耗をして以後は、遂に立ち直りがきかず、押しまくられっぱなしで、ベルリン陥落と無条件降伏までの道を歩むこととなる。

太平洋方面でも昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で、機動部隊の主力となる百戦錬磨の将兵の多くを喪失してからは、海軍の戦勢の立て直しがきかず、島嶼をめぐる戦いで、米軍が圧倒的な艦砲と航空機の火力支援と十分なロジスティックスの支援を受けながら戦ったのに対し、制海権と制空権を失った日本軍は孤島に孤立し、食するに糧なく、喫するに水なく、戦うに矢弾なしの状態の下で絶望的な戦争を余儀なくされた。

結局各地の日本軍は、その持場を自らの墓場と心得て、文字どおり最後の一兵まで戦い、戦車に対するに爆薬を抱いて肉弾攻撃をかける等玉砕に継ぐ玉砕を繰り返し、最後には神風特別攻撃隊や神雷特別攻撃隊による航空体当たり、回天特別攻撃隊におる水中からの体当たり、震洋艇による体当たり等の、戦史に前例のない壮烈な戦いを演じたが、退勢を盛り返すことはできなかった。

1945年4月26日、北イタリアにあったムッソリーニはイタリア人のファシストのゲリラに逮捕され、虐殺され、4月30日にはベルリン市街戦も終りに近い陥落をひかえたベルリンの地下室でヒットラーが自殺し、5月8日ヒットラーの後継者デーニッツ提督はドイツの無条件降伏を決定した。

5月9日、三国同盟は失効し日本は孤立して戦いを継続することとなった。

しかし8月6日と9日に広島、長崎に原子爆弾が投下され、8月8日には突然、日ソ中立条約の期限を6箇月残したまま、ソ連が対日宣戦を布告し、満州、樺太、朝鮮で侵攻を開始した。

このような事態となり、当時の日本政府は、軍内部には本土決戦の声が強く、国民の中にも最後まで戦うという雰囲気が強かったので、一歩誤ると抗戦を主張する軍のクーデターが起きかねない状況下で、天皇の権威にすがる形でともかく終戦に導いた。8月15日正午、昭和天皇自らの放送により、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を行った。

1943年9月に降伏したイタリアは、ムッソリーニを失脚せしめたバドリオらの政府により、講和が議せられ戦勝国により色々と制約せられたが主権の停止や軍事的に保障占領されて、占領軍によって政府の統治行為が監督されることはなかった。
ところが1943年11月22日のカイロ会談、11月26日のテヘラン会談等の後は、ルーズベルトが「枢軸国に対して、国家としての降伏を要求する」ことを明らかにしたため、当時連合国と熾烈な戦いを交えていた日本とドイツに対しては、極めて厳しい取り扱いがなされることとなった。

つまり例え親英米派の政治家や軍人が指導権を握って降伏しても、ある期間は戦勝国の軍隊による保障占領が行われ、主権は停止せられ、統治機構や法制度についても全能の占領軍が指導的役割を果たし、戦争責任を追及する裁判も行われ、戦争犯罪人には相応の罰を与えるということである。

ところがこうなると逆に日本やドイツの反軍的、反ナチス的な人々をして現指導者を倒そうが倒すまいが、同じ扱いを受けるのだという虚無感を抱かしめ、現指導者には死に者狂いの徹底抗戦の意志を抱かしめることにより、日独の国内の結束を強化する効果が出てきた。

結局ドイツは国土全体で激しい地上戦が戦われ、ベルリン陥落まで戦いは終わらなかった。日本も老幼婦女子の間にまで「負けたら白人の奴隷にされる」という危機感を強く抱かせ、徹底的に戦おうという意識が高められた。

空襲や食料不足でいかに苦しんでも、日本の国内と国外とを問わずあまり強い反戦や停戦の声が上がらなかった裏には、国民が権力に盲従していたとか、ルーズベルトの「国家の降伏要求」の方が、日本人大衆に恐怖感にも似た危機感と反発心を喚起したことは否定できない。
結果としてルーズベルトの発言は、連合国と枢軸国の双方に、思いがけない大きな犠牲を強要したといえよう。

第2次大戦の結果、日本とドイツという枢軸側の強国が一時、衰退したほか英国、フランス、オランダなどヨーロッパ諸国は戦勝国と敗戦国とを問わず、国力を消耗した。
またミャンマ(ビルマ)、インド、マレーシア、インドネシア、インドシナ三国等のような、西アジアや東南アジア諸国で、支配者であり、主人であった白人が、一時的にせよ、アジア人の日本人に敗れ、しかも米国の助けを借りなければ自力で原状回復できなかった事実を、原住民のインテリゲンチャや民族主義者の前で見せてしまった。

また白人が日本人によって放逐されている間に、原住民は日本人と一緒に行政機関の役所づとめ等をして、自分達の行政や統治の能力に自信を深めてしまった。
しかも米国は第2次大戦の原因について、植民地の開放をきちんとしなかった英国にも責任の一半があるということを指摘し、ルーズベルトは大英帝国が広大な植民地を持っていることに嫌悪感すら抱いていた。

戦後世界は日本とドイツが一時、衰えて国際政治の舞台から退いたほか、西欧の世界支配が急速に終焉にむかった時代でもある。
代わってプラグマチィズムの哲学をひっさげて、自由主義陣営のリーダーとして米国が登場しいわゆる西側世界なるものを形成し、他方にマルクス主義哲学に拠る社会主義陣営の旗頭としてソ連が登場し、東側世界を形成して対峙する世界となった。

この米ソ両国ともに少なくとも西欧流の植民地や異民族支配を嫌う。
かつて「英国による平和の時代」すなわち英国が世界政治の安定に責任を持つ「パクス・ブリタニカ」の時代と称した。
パクス・ブリタニカの時代は、列強が世界を分割し植民地化した時代であり、揚力な海軍力を背景に、最も大きな版図を獲得した英国が、世界をリードした時代であった。

第2次大戦後の、「米国とソ連による平和」すなわち「パクス・ルソ=アメリカーナ」の時代は、植民地解放の時代でもある。

1959年までにはアジアの主要部分は、大半が独立し、1960年代に入ると「アフリカの夜明け」と言われ、ブラック・アフリカが次々と独立し、国際連合その他の国際機関で、数の力により大きな影響を与えはじめた。

このようにアジアとアフリカで民族国家が成立し、植民地が消滅した結果、アジア・アフリカは発展途上国として後進性を残しながらも、資源供給地として、工業製品の市場として、先進工業国が平等の立場で自由に貿易できる重要地域となった。

日本にとって重い意味をもつのは、これら地域の資源利用に際しても、輸入した資源を加工して、付加価値を与えた工業製品を、この地域に輸出するに際しても、戦前のように、ヨーロッパの会議室の決定を待つ必要がなくなったということである。

かつて欧米のマスコミが「日本は戦争に敗れたが、結果として大東亜共栄圏を作ってしまった」と述べたことがある。

国際政治に与える米国の影響力や、市場としての米国の巨大さ、ハイテク産業や自動車産業等の付加価値の大きな値段の張る工業製品を大量に消費する市場としての卓越性を考えると、日本は米国との協調と互助互譲について深刻かつ神経質なぐらいの配慮が必要である。

その一方で、アジア・アフリカ諸国を優良な市場として育てる地道な努力が必要である。戦前とは逆にアジア・アフリカにおいて日本は地理的に欧米諸国よりも有利であり、これら地域との貿易における輸入額、輸出額において、また金融投資において「大東亜共栄圏を作った」と言われても仕方ないような金額にのぼっている。

だが、これら諸国の消費経済を豊かにする努力をしなければ、日本の将来にとって決して望ましい経済関係とは言えない。