朝鮮戦争

1 南北分断の経緯

1945年8月15日に日本の降伏が決定し、9月2日に調印がなされたが、日本軍の武装解除は、連合国が地域ごとに分担して行った。

旧英国領はイギリス軍が、フィリッピンと日本本土、日本の信託統治領及び北緯38度線以南の朝鮮半島は米軍が行った。

オランダとフランスは当面アジア方面に軍を割く余裕がなかったので、インドネシアとインドシナ半島の南部はイギリス軍が、インドシナ半島の北部と中国、台湾は国民政府軍が、満州、樺太、千島、北緯38度以北の朝鮮半島はソ連が、日本軍の武装解除に当ることとされていたが、38度線が以後、朝鮮半島に二つの国を作り出す、実質的な国境線となることは、当時、誰も考えていたわけではない。

つまり、朝鮮半島の北緯38度線の南側の日本軍の指揮系統が九州の司令部の指揮下に、北側の日本軍の指揮系統が満州の司令部の指揮下にあったために、米ソが分担したという程度の、軽い理由によるものであった。

ところが、9月2日に日本が降伏の調印を行って、わずか4日後の9月6日に北で「人民共和国」の成立が宣言された。
しかし、9月8日に南に進駐してきた米軍は、この事を関知せず、10月10日に「人民共和国」を認めないことを明白にした。

1910年に日本が韓国を併合して以後、韓国の独立恢復を叫び、日本の官憲による取り締りの手を逃れて、外国へ逃れて抵抗をつづける朝鮮人は多数いたが、ある者は満州や中国本部へ逃れ、ある者はヨーロッパや米国に逃れた。

しかし、日本が満州事変や日華事変で満州や中国本部へ軍を進めるにつれ、中国大陸にあった抗日朝鮮人の民族主義者たちは、ある者はシベリアへ、また別のある者は欧米へ逃れた。

たまたま、シベリア方面へ逃れたグループは、ソ連でマルクス・レーニン主義の思想的洗礼を受け、民族主義者であると同時に共産主義者として理論武装を行った上に、軍事訓練を受けた者が、ソ連軍の進駐時に、北朝鮮に戻ってきた。

日本降伏後早々と「人民共和国」の成立を宣言したのは、こう言うソ連仕込みの民族主義者のグループであり代表的指導者は金日成であった。

前述のように北の共産主義者のグループはソ連軍の訓練を受け、ソ連軍の提供した武器で武装していたので、軍事組織や共産主義で理論武装した政治機構を急速に作り上げることができた。

これに対して南は動きが緩慢であった。10月16日になって李承晩が亡命先の米国から戻ってきたが、彼は南の大衆にそれほど知られていたわけではなかったし、急速に人気がわくという持ち味にも欠けていた。

しかし、この時期、米国は北緯38度線で朝鮮を分割して、米ソの勢力圏にする考えは持っていなかった。

すなわちトルーマンは、日本降伏直前の1945年8月11日から8月12日にかけて「日本占領に際しては、ドイツにおいてソ連と東西に国土を分割したような失敗を犯してはならない」という意向をもらしており、日本は全面的に米軍の司令官の下に、単独占領する意志を固めていた。

そういう時期、賠償問題で訪ソしていた米国のポーレー大使は、大戦後の世界について、ソ連に抱いている意図に不信感を覚えて、満州や朝鮮も米軍が占領して日本軍の武装解除を行うべきであると進言してきたが、米軍には当時、速やかに満州に展開できる兵力が不十分であった。

結果論だがこの進言が入れられていれば、日本人が数10万人もシベリアに抑留されて、その約10パーセントが飢えと寒さで死ぬ悲劇も、朝鮮分断もなかったことになる。

米国は周知のとおり、領土の拡大や、ある地域を特定の国が政治的、軍事的に隷属させて植民地化させることは好まないという、国家の体質が伝統的にある。

米国人の哲学には、「ある地域が自治の能力を持つに到ったら、そこの住民の自由な選挙によって、政体や統治機構は自由に選択させるべきである」、「経済活動は自由競争に任せるべきである」というものがあり、米国流の民主主義と道徳率が、最上のものという考え方と相俟って、国際政治の場でも、米国の立場を、自信をもって強く主張する。

したがって、南朝鮮に米軍進駐当時、北で成立を宣言していた「人民共和国」を米国が認めることはまずあり得ない。

「人民の自由選挙によって政権は決まるべきであり、どういう政体にするかは人民の自由意志による選択で決まるべきである」ということと、「自由競争の原理に基づき、経済活動の自由は可能な限り確保されるべきである」というのが、米国人が最善と確信する政治理念であり、この理念を踏まえた正義に基づき、基本的には弱者が不正義によって困っている時は、力を貸してこれを助けるべきであるというのが、米国人の生活姿勢である。

こういう米国人の哲学が、米国の軍事外交方針策定に際して、極めて重い意味を持つことは、米国の歴史から明らかであり、我々は好悪に関わらず忘れてはならない。

朝鮮にどのようにして、どういう政府を作るべきか、国連信託統治の導入も含めて米ソは話し合ったが、なかなか決着せず、米国は遂に問題を国連に預けた。
国連は朝鮮半島全土で選挙を行い朝鮮人の政府を作ることを、勧告した。

しかし、既に政治機構や軍事機構が固まりつつあった北側は国連勧告を拒否し、南側だけが国連勧告を受け入れて、1948年5月10日総選挙を行った。

この南の動きに対し、北は5月14日、南への電力供給を停止した。この件について北朝鮮駐在のソ連軍司令官から、米軍司令官に「金日成委員長と北朝鮮人民委員会を正式交渉相手とし、『通貨』によらず『資材』で使用料を支払えば、電力を供給する」という申し入れがあったが、米軍は「北の人民委員会を正式に認めることになる」と、これを拒否した。

南だけの総選挙の結果に基づき、1948年8月15日に、北緯38度線の南側に大韓民国が樹立され、9月9日に北に朝鮮民主主義人民共和国の樹立の宣言がなされた。

2 南北分断の定着

以上述べたような経過で、北緯38度線の南北の質の異なる国家が成立し、にらみ合うことになった。

このことは、南北相互に国土や資源の一半しか利用できないということであるが、当時の北は、より先進工業国に近い国土利用がなされていたかわりに、山地が国土の大半を占め、農耕地が少なく、食料確保に難点があった。

他方、当時の南は農業と消費材供給のための軽工業主体の地域であった。
南側は当然、米国の経済援助等がなければ、国家としての経営が困難であった。

ここに、北はソ連の、南は米国の影響下に、国家経営がなされることとなり、米ソ対立の構図はそのまま朝鮮半島に持ち込まれ、定着の傾向を示した。

当時、ヨーロッパでは東欧にソ連の影響下に、いわゆるソ連の衛星国と呼ばれる、社会主義を国是とする国家群が形成され、アジア方面では、中国大陸で蒋介石の率いる国民党政府とこれを覆して革命を成就しようという毛沢東の率いる共産党が、激しい内戦を展開し、徐々に国民党の支配地域が縮小し始めており、遠からず中国の指導者が蒋介石から毛沢東に代わるであろうことを予感させていた。

東南アジアでは、英国や米国の版図は、1941年8月の大西洋会談における、ルーズベルトとチャーチルの約束もあり、独立する傾向があったが、インドネシアとインドシナでは、対日戦争以前の植民地を恢復しようという、オランダやフランスの原状回復の企図に反対する、原住民の民族主義者が戦いを起こしていた。

米国は、民族自決の原則は米国人の哲学であるから、植民地独立には賛成であった。

ただ、これら民族主義の運動が、共産主義と結びつくことには反対であった。

米国人は、人望と能力のある人物が、自由選挙でリーダーに選ばれて高い地位に就く制度を最上のものと信じている。米国人は、ヨーロッパや日本のように、議会制民主主義の定着した国の皇室の存在を好み、憧憬する一面をもっているが、権力をもつ高位高官については、国民の自由選挙の洗礼を経た者であるべきだとする。

米国自身が、選挙で選ばれた大統領が元首として、また行政機関の長として、国務長官、国防長官等の各省の長官を任命し、その長官が局長以上の高官を任命するが、任命に先立ち、国民によって選挙された上院議員による「厳重な口述試験とも言うべき審査」がある。

このような米国人の感覚は、単に自由市場経済を共産主義者が否定しているからというだけではなく、共産党の一党独裁を主張する制度を肯定するはずがなく、曲がりなりにも国連勧告に従って選挙の洗礼を経た、南側の政権を支援することとなった。

3 開戦の経緯

米国人はたとえ友人知己であっても是か非かを明らかにすることを好み、義理や人情は通用しない。自分のことは自分でという自助の心が強く、試行錯誤を恐れない。

それだけに、最上のものと信ずる米国人の哲学を、他国に強く推奨し、いちぢるしく反した行為には厳しく批判もする。弱者が自由を脅かされれば命をかけてでも、それを助けようとする。

韓国において、李政権は米国人の哲学に照らして、「腐敗」と「非民主的」な側面が目立ち、台湾に閉じ込められていた国民等の蒋介石政権と共に批判を受けていた。

しかも1950年1月12日のアチソン演説でアジア方面の防衛ラインとして述べた地域の中に、朝鮮半島が含まれていなかった。

当時の北朝鮮側の指導者は、米国が韓国を見限ったのではないかと考えた。

フルシチョフの回想によると、金日成は1949年末にモスクワを訪れた際に、南を力で統一したがっていたという。
「既に米国は李承晩政権を見放したかの様子が見え、南の大衆は李承晩に反感を持っており、北が銃剣で突きさえすれば、呼応して立ち上がる」というのが金日成の主張だったという。

これに対してスターリンは、じっくり考え、計算して具体的な計画を持ってくるように返答したという。
スターリンは金日成が練ってきた計画に対して、思いとどまらせることをせず、毛沢東に南進した場合の米軍の介入の有無について判断を打診するよう指示した。

毛沢東は朝鮮における戦いは朝鮮人自身の解決すべき国内問題だから米国は介入して来ないであろうという判断を示した。
だが彼は金日成が近々南進する具体策を持ち、スターリンと相談したことは知らなかったようで、仮に南進があったとしても、それはまだかなり先の話だと思っていたと言われる。

つまり、1949年秋に国民党を大陸から追ったばかりの毛沢東らの北京政権にしてみれば、チベットや台湾の支配権確立の方が、はるかに重要な問題であり、かつ中国国内の各種の建設や内乱で荒廃した経済の再建あるいは再編等、政権の基盤を固めることが、すべてに優先すべきことであった。

しかし、戦いは1949年10月1日の中華人民共和国樹立から9箇月余りしかたっていない1950年6月25日に勃発してしまった。

中国は軍を福建省に集めたり、国内改革の計画を発表したりして、大々的に国内問題処理の動きを開始しており、この時期に朝鮮半島で戦争が始まったことは、タイミングとしては極めて不都合であった。

このタイミングで金日成が南を武力統一可能という判断を下した理由の最大のものは、米国から見放された李承晩政権は、警察隊より多少ましな程の軍隊しか持っておらず、米国の介入さえなければ、比較的容易であるという見通しがあったことに加え、1950年4月4日、アチソン米国務長官が張勉駐米韓国大使に「インフレの安定策を講ずることと5月に総選挙を行うことが実行されないならば、対韓軍事援助と経済援助を再検討修正を余儀なくされるかも知れない」と覚書を発し、選挙は行われたのだが、72対137で李承晩大統領の与党が敗北し、民心もまた李政権を見放したと判断したことにあると言われる。

だが、同じ英語国民の大英帝国の存続をすら嫌悪し、その英仏蘭とヨーロッパのブロック経済で苦しんだ日本が中国大陸に行くことや大東亜共栄圏の建設は決して許容せず、日本と同様の立場から生存圏を主張したヒットラーのナチスドイツを容赦しなかった、「米国人の正義と哲学」を北朝鮮もソ連も、軽く考えたきらいがある。

既に述べた米国人の自由に関する正義、哲学、道徳は、米国という国の行動を律するとき、極めて大きな重みを持っている。米国人はこのことのために命をかけることが正しい行為であり、回避することが悪であり卑怯な恥ずべき行為なのである。

選挙の洗礼を経ず、自由主義を否定する北朝鮮の政権が存在すること自体が米国にとっては悪であり、ましてその北の軍隊が南へ攻め入って、仮にも選挙された政府と政体を蹂躙することは、黙過できなかったのである。

6月25日の北側の攻撃に南が反撃能力がないとなると、米国の反応は迅速であった。

6月27日には、トルーマン米国大統領が朝鮮への軍隊派遣、台湾中立化のための第7艦隊の台湾海峡への派遣、在比米軍強化と対比援助強化、インドシナのフランス軍援助強化などを声明した。

そして7月7日、中国代表権問題をめぐり、ソ連がボイコットしている国際連合安全保障理事会で、侵略者の北朝鮮を膺懲するために国際連合加盟国は、「北朝鮮の武力攻撃に反撃し、朝鮮に平和を回復するに必要と思われる援助」を韓国に与えることを要求する決議が米国から出され、採択された。

7月7日、加盟国の軍隊は、米国の統一指揮下に入り、米国が総司令官を任命し、統一指令部は国連旗を掲げることが採択され、マッカーサー元帥が総司令官となった。

6月30日、マッカーサー元帥は米地上軍派遣の必要をワシントンに対して主張し、その権限を求めており、日本から2個師団を派遣する許可を得ていたが、この7月7日の決議により、米軍は国連軍となりマッカーサー元帥は国連軍総司令官となった。

安全保障理事会の決議は国連加盟国にとって、単なる勧告ではなく、「理事会の決定を受諾し、且つ履行することに同意する」ことが、憲章第25条に規定されている。

また憲章第24条1項に「国際連合の迅速かつ有効な行動を確保するために、国際連合加盟国は、国際の平和及び安全の維持についての主要な責任を安全保障理事会がこの責任に基づく自己の義務を果たすに当って、加盟国に代わって行動することに同意する」という規定がある。

日本の学者の中に「安全保障理事会の決議は、加盟国に義務を課するものではない」とする意見を述べる人がいるが、憲章第24条と25条の考え方について、原加盟国を含む諸外国の国際法や国際政治の研究や実務に携わる「専門家」の圧倒的多数は「義務」と考えている。少なくとも反しない言動が求められると考えるべきであろう。

米国の迅速な介入は北朝鮮やソ連にとって、大きな計算違いであったと言えよう。

朝鮮戦争が南北いずれがしかけたのかということについて、長らく議論が継続され、ソ連や北朝鮮ではもちろん、日本でも社会主義が善玉であり、資本主義は悪玉であるという立場をとる人々の間には、「南の政府が国内の失政や民衆の不満をそらすために、北へ攻め込んだ」という説が流布されていた。

しかし、後年フルシチョフの回想や中国人の論文などでも、北が武力統一をはかったということは、明らかになってきており、日本の共産党も「北朝鮮が南へ侵攻した」ことを歴史的事実として公式に認めており、北朝鮮以外の諸国では「北が南へ攻め込んで戦争が始まった」ということが認められている。

客観的に見ても、当時の南には警察隊よりはましという程度の軍備しかなく、北朝鮮のシンパが引き起こすパルチザン流の騒乱に対してすら、十分な対応ができていなかったことから見て、南が北に対して軍事行動を起こすことは無理であった。

また、南の挑発をはね返しただけにしては、整然と大規模かつ迅速に南への侵攻が行われ、釜山を長射程砲の射程内に置こうかという所まで、なぜ軍を進める必要があったのかという点が説明できないし、原状回復を求めた国連決議を無視して3箇月も国連軍相手に38度線の南側で戦い続けた意図も説明できない。

4 米国の朝鮮戦争についての考え方

国連の考えと同様、米国も当初は原状回復であったと思われる。1950年9月15日の仁川上陸作戦以後、形勢が逆転してから原状回復から「国連軍によって南北を統一する」方向へ方針が転換されたといわれる。

しかし米国が朝鮮半島そのものに、執心していたわけでないらしいことは、朝鮮戦争の始まった6月25日から仁川上陸の9月15日までの3箇月足らずの間に3回も、朝鮮からの撤退を真剣に検討したことからもうかがわれる。

元防衛大学校教授、佐々木春隆先生の話の中にも次のようなことがあった。

「米軍は介入から僅か3箇月間の7月から9月の間に、撤退するか朝鮮半島に踏みとどまって戦うかについてのためらいが3回あった。しかし韓国軍は開戦直後の総崩れの状態から立ち直った後は、善く戦ったので、米軍は撤退の決断をせず、朝鮮を守った。しかし、助けられる者の辛さを韓国軍当事者は存分に味わうこととなった。

例えば大邱(たいきゅう)まで追い込まれ、釜山橋頭堡を維持するために、国連軍が苦闘を続けていた時、後に韓国の首相まで務めた当時の丁一権韓国陸軍参謀総長がウォーカー大八軍司令官に戦車の利用法を依頼に行った時、大変辛い思いをしたという。

この時、ウォーカー中将は口を極めて韓国軍参謀総長をののしった。
丁一権参謀総長は七重の膝を八重に屈して頼んだところ、ウォーカー中将は、500両の戦車の中から5両を、しぶしぶ貸し与えた。

当時を体験した韓国軍の将官は、助けられるものには忍耐が必要である、怒っても国は救えないと話したという。
朝鮮戦争当時の韓国軍の体験から助けられる者の辛さを列挙してみると次のようになるだろう。

  1. 航空支援、弾薬等の補給等では、常に米国優先であった。
  2. 韓国軍の人事にも米軍の介入があった。
  3. 指揮権の調整等で、助けられる者は面子を捨てる必要がある。
  4. 韓国軍は米軍に配属となったが、米軍は、いかなる場合も配属ではなく、支援であった。これは後方支援能力の差によるものであった。
  5. 米軍の考え方を押しつけられることを甘受した。

以上の点を多少なりとも、円滑ならしめるため、共同演習を行うことが重要である。

特にトップ同士の考え方のすり合わせと認識の統一が重要である。

中国が介入してきた時、ワシントンは最悪の時は日本への引き揚げを支持しており、その判断は、マッカーサーに任されていた。

中国に休戦の話し合いを持ちかけた時、現状より韓国には極めて不利なラインであった。中国がたまたま拒否してくれたため、その後むしろ有利になった。しかし停戦条件等は、一切韓国に知らされていなかった。

和戦の決定は、助ける者の掌中に握られている。」

この佐々木教授の話からも、米国が必ずしも朝鮮半島における、自己の勢力範囲の拡大や、支配権の確保を一義的に考えていたのではないことは想像できる。

やはり、恐怖から解放される自由、言論結社の自由、貧困から免れる自由、信仰や思想の自由といった個人の基本的自由を守るため、国家や地域の住民には政体の選択や経済活動の自由が保障されるべきだという、米国人の哲学が北朝鮮の武力による南の統一や共産主義者の主張する「計画経済」や「私有財産の否定」の南への強制を容認させなかったと考えてよいであろう。

5 中国の参戦

朝鮮戦争が始まった時の中国は、既に述べたとおり、国内に大きな問題が山積しており、北の軍隊が釜山附近まで押している時は特に参戦の気配を示さなかった。

しかし、9月15日の仁川上陸作戦によって、国連軍が形勢を逆転させ、ひょっとしたら国連軍が北進するかも知れない状況になった時、中国は対米警戒を強める。

つまり朝鮮戦争の初期、米国は朝鮮戦争を朝鮮半島に局限するため悪いタイミングで台湾解放のために、人民解放軍が、大陸から台湾へ進攻を始めないように第7艦隊を、台湾海峡へ入れたが、この台湾中立化の一事も、中国にとっては、極めて非友好的な行為と映るものであった。

若し、朝鮮半島全域が米国を主体とする国連軍によって統一されれば、中国は台湾と朝鮮の二方面から挟撃される可能性も出てくる。

当時、中国は北朝鮮の水豊ダム発電所から、東北地方の電力の一部を送電してもらっており、そういう点からも、北京政府が仁川上陸作戦以後の国連軍の作戦の展開に重大な関心を抱くことは当然であった。

しかし、中国にとってもう一つ、ソ連をめぐり、米国の影響が北朝鮮に及んでくること以上に、不安な材料があった。

中国とソ連はこの時期、共産主義という共通のイデオロギーの下で、緊密な関係で結ばれているかのように見えていた。
しかし、中ソ両国間には、底流として、相互不信感が強く存在していた。

米国や西欧の外交官ですら南京が中国共産党の手に落ちたときに、国民政府の将来を見限る雰囲気が濃厚となり、中国共産軍に追われた国民政府の首府が南京から広東へ移された時には、南京にあった大使館を、国民党政府と同行させた各国の外交官も、国民政府の広東から重慶への再遷都の時は、ソ連大使だけが同行し、他の諸国は中国から外交官を引き上げた。

またスターリンは個人的に蒋介石に好意を持っていたと思われ、「蒋介石その人は立派な人だ」と語った事実がある。

それに反して、毛沢東以下の中国共産党幹部について、モロトフが西側記者に対する応答の中で、「彼等は共産主義者でもなんでもない」と述べ、ソ連がまったく評価していなかったことも明らかになっている。

しかもソ連は沿海州や黒龍江、伊犁川流域その他で、約120万平方キロメートルに及ぶ広大な土地を奪い、更に満州や朝鮮にも食指を伸ばしたがっていたという、歴史的事実を中国人は記憶している。

一番近い所では第2次大戦の最後の一週間だけ、連合国側に立って、対日参戦し、満州地区にあった、数10年にわたり日本が築いた莫大な資産を奪い去った。
それらの資産は当然に中国に帰属するべきものであったが、中国共産党の政権ができても、ソ連は遂に中国へ返還しなかった。

このような事実の上に中国人は歴史的にロシア人に反感と不信感を強く抱いていた。

この時期、満州で支配の実権を握っていた高崗という人物は「長征」の後で中国共産党に参加し、その行動においても、決して毛沢東に信服しているとは言えないものがあった。

すなわち、高崗は中国東北地区の最高権力者ではあっても、中国の最高意志決定は北京でなされるべきであり、外交や軍事の機能は、「地方」をあずかっているだけの高崗には無い。

にもかかわらず高崗は北京政府に無断で満州とソ連の間の貿易協定を約したりする非常識が見られ、東北地区の内治の政策にも、北京の神経をさか撫でしかねない、勝手な行為が見られたという。

北京政府は、ソ連が北朝鮮に国連軍が進撃した時は、義勇軍を編成しこれを支援するため、満州を輸送や補給の後方基地に利用する希望を持っていることを知り、益々不安を抱いた。

ソ連はかつて北清事変の後、満州に居座り、あわよくば朝鮮をも支配下に置こうとしたことがあった。中国は義勇軍の後方基地にソ連が居座ってしまうことを恐れた。

そして、高崗のような人物がソ連と気脈を通じ、東北部が中国本部から分離し、外蒙古が中国から離れ、ソ連の影響下に蒙古人民共和国となったのと同じ道を歩むことを懸念した。

「人民共和国」の樹立から一年そこそこで、チベット問題や国内改革の問題を抱えていた中国であったが、中国首脳部は対米警戒と対ソ不信の二つに悩まされながら、中国が義勇軍派遣を行うことを決断したといわれる。

仁川上陸作戦から、3週間足らずの10月3日の周恩来総理は、インドのバニッカル駐華大使に10月1日の韓国軍の38度線以北への進撃という事実に直面し、「国連軍の北進があれば、中国も看過できない」という意味の警告を発し、この内容は米英にも伝わった。

この時期、国連軍最高司令官マッカーサー元帥は、9月27日付で、「貴官の任務は北朝鮮軍の撃滅である」という命令を受けていた。
但し「38度線以南に限定」されているのか「38度線以北をも含む」のかは、明らかでなかった。

マッカーサー元帥は「以北をも含む」と解したようであるが、10月7日に国際連合総会で、全朝鮮半島の占領と全鮮統一選挙に関する8箇国提案が可決され、間接的表現ながら、38度線以北の北鮮軍攻撃を認めるのを待って10月8日、米軍の北進も始まった。

米国のトルーマン大統領は、戦争を朝鮮半島に局限したいという考え方に立っており、朝鮮戦争開始後直ちに台湾海峡に第7艦隊を入れたのも中国共産軍が台湾進攻を開始し、戦火が朝鮮半島以外の所に上がって、思わぬ展開になることを恐れたものであった。

しかし、マッカーサーは6月25日に北鮮軍の進攻後間もない7月31日に、ワシントンと十分な調整をしないまま台湾を訪問して蒋介石総統と会談をしたり、国連軍による南北朝鮮統一を語る等、朝鮮における全面勝利を考えており、トルーマンとは、戦の最後の結果についてのイメージは、かなり異なっていた。

トルーマンは、10月15日にウェーキ島でマッカーサーと「ウェーキ会談」を行い、考えを質した。

マッカーサーの判断は、「中国の介入の可能性は小さく、あっても規模は小さい。国連軍はクリスマスまでに北朝鮮における戦いに決着をつけ、帰国できるであろう。朝鮮戦争が終れば、ヨーロッパへ1個師団の兵力移送が可能となる。朝鮮統一選挙は1951年1月初旬に行われる」というものであった。

トルーマンはマッカーサーが政治不介入の態度とヨーロッパへの兵力移送の考え方を示したことに満足した。
しかし、軍事のシビリアン・コントロールをめぐるトルーマンとマッカーサーの確執は、むしろこれ以後に顕在化してゆく。

10月19日、平壌は国連軍によって占領され、東海岸を韓国軍が急進撃して鴨緑江へ迫った。
ところが10月20日、米国中央情報局から「水豊ダム付近に、中国軍出撃の可能性が大きい」という報告が大統領に出された。

ワシントンは早い時期に「鴨緑江沿いの地域に進むときは、中ソ国境には韓国軍のみを進出させ、中ソ介入の口実を与えない」ことを訓令していたが、マッカーサーは10月26日、大八軍の小兵力を鴨緑江に到達させた。

マッカーサーは国境の5マイル以内の爆撃を禁止する訓令を受けていたが11月5日に、中国義勇軍の越境を阻止するため、鴨緑江上の橋を爆撃させた。
マッカーサーは11月17日、大規模な包囲全滅作戦を計画し24日、マッカーサー自身の指揮により、実行に移された。

しかし、150万人ともいわれる元国民政府軍に属していた大量の中国義勇軍の人海戦術の前に、さしもの物量を誇る米軍も、後退につぐ後退を余儀なくされ、国連軍はたちまち38度線まで押し戻され、更に南に後退させられ、一時は京城を占領されてしまった。

しかし、補給線が伸び切った中国義勇軍は、進撃がここで止まり、国連軍が反撃した。

以後、38度線をはさんで膠着状態になった。西岸で北側がやや優勢で、38度線以内に戦線を維持しているほかは、東岸に近づくほど国連軍の戦線は、38度線の北側に食い込み、全体として国連軍がやや優勢を保った状態で、人命と物資の損傷だけが続いた。

この中国軍の介入は米国の対中不信を決定的とし、米中関係は、1972年のニクソン訪中まで、断交状態というよりも、準戦争状態といってよい状態が続いた。

中国の本格的介入という事態を迎え、前述のようにトルーマンとマッカーサーの対立が、次第にはっきりしてきた。

6 シビリアン・コントロール

先に述べたとおり、トルーマン大統領の局地戦として原状回復で終らせようという考えに対して、マッカーサー元帥は全面勝利論を展開していた。

そして中国介入後の対応でトルーマン大統領が打開策を練っている一方で東京にいたマッカーサー元帥は、「朝鮮半島における国民政府軍の利用」、「台湾から中国大陸への反政を行わせ第二戦線とし、中国軍の朝鮮半島への出撃兵力を減らす」、「満州への空爆」、「中国沿岸に対する海軍力による封鎖」、「中国に対する経済封鎖」等を主張し、米国議会の上下両院議員に手紙を出したり、新聞記者に語ったりしたが、トルーマンの了解なしに行われることが多く、1951年4月11日遂にトルーマンはマッカーサー元帥を解任し、大八軍司令官だったリッジウェー中将を大将に昇任させて後任とした。

ここで米国のシビリアン・コントロールについて触れておく。

米国の大統領は周知のとおり、国家の元首であると同時に行政機関の長であり、陸海空三軍の最高司令官である。

米国では大学入試や各種組織の人の採用方法を見れば分かるとおり、筆記試験よりも面接が重視され、知識の量よりも何ができるかが重視される。

また試験で採用された者よりも、多くの人から支持されて選挙された者が偉いのであり、尊敬される。

国の機関の局長以上の要職は任命職であって、原則として試験で採用された者は任命されない。

また「国防長官」等の軍事に関する「長官」や「次官」のようなポストには、職業軍人の職にあった者は、退役後10年以上経過しなければ就任させないのが原則である。

ただし、大統領や国務長官には、退役した次の日から就任できる。アイゼンハウアー大統領、マーシャル国務長官、ヘーグ国務長官がその実例である。

しかし、米国は軍事と外交に関して、上院が大変強い力を持っており、大統領は上院の同意がなければ、宣戦布告はもとより、軍の編成や行動についての決定や命令はできないし、条約を締結しても発効させることができない。

また、選挙で選ばれた大統領以外の任命職の局長以上の高官は上院の審査を経なければならないし、また、これらの高官は政権と運命を共にする。

つまり米国でシビリアン・コントロールという時、試験だけで採用された軍人と官僚は、シビリアン・コントロールを受ける立場であり、単に制服を着ていない役人というだけでは、パブリック・サーバントであって、シビリアンではなく、上院の審査を経た「任命職」のみがシビリアン・コントロールに参画できる。

統合参謀本部議長は社会的地位では国防長官に次ぐ高い地位を認められているが、国家安全保障会議においては、法定顧問として指定されてはいるが国家戦略について、求められない限り、積極的な発言は行わない。

しかし、このことは軍人の地位が軽んじられているわけではなく、プロトコールでは大佐以上の軍人に任命職以上の高い格付も認められており、同じ格式なら、軍人には文官よりも上席が与えられることになっている。

しかし、大統領は国防長官や国務長官を罷免できると同じように、終身職であるファイヴ・スターズの元帥と雖も、当然に任命、罷免ができる。
また、このシビリアンである大統領も、軍事と外交については上院の厳格な監視下に置かれている。

大統領は立法に関する権能がないので、軍事に関連があるとないとを問わず、必要とする法規は議会に要請して作ってもらわねばならない。
一見、絶大な軍事体験を掌握しているかに見える大統領も、議会によって厳しくチェックされている。

ただ、大統領にせよ、上下両院議員にせよ、選挙の洗礼を受けており、市民が選挙を通じて自分たちが委任した者以外に、「軍事の大権」は決して委ねないというのが、米国流のシビリアン・コントロールである。

マッカーサー元帥その人は、トルーマン大統領の解任のやり方に、多少の不快感を覚えたようであるが、米国人一般の感覚では極めて当たり前のこととして受け取られている。

また統合参謀本部議長等の三軍のトップクラスは、途中に任命職の高官を介在させずに、大統領や国防長官に報告や説明をすることが認められている。

しかし、上院の高い見識に裏づけられた、軍事外交への強い統制が行われており、将軍や提督も上院議員には畏敬の念を抱いているので、軍が暴走する可能性はない。

また「軍事のシビリアン・コントロールというのは、政治が軍事を統制することであって、軍人を蔑視したり、軍事を軽んずることではない」点が、政府にも国民にも十分浸透しているので、軍人の間に処遇や社会的地位に対する不満はなく、シビリアン・コントロールを安定したものにしている。

トルーマン大統領とマッカーサー元帥の対立は、軍人と政治家の対立というよりも立場の相違が引き起こしたものと言えよう。

因みに、1979年に秘を解かれたトルーマンの回想のメモアールでは、朝鮮戦争に対する中国の介入やソ連の態度に怒ったトルーマンが、「シベリアや満州に核兵器を叩きつけて、都市や軍事施設を破壊してやりたい」という主旨のことを述べている。

また、マッカーサー以外にも全面勝利論や対中強硬論を吐いていた軍人がいたらしいことが述べられており、これらの将軍たちのことを「優秀ではあるが、世界的視野を欠いている。将軍達は戦いに勝てばよいが、自分は米国の大統領として、世界の政治に責任がある」という主旨のことを述べた部分があり、受け取り方によれば、マッカーサーの主張よりも過激な部分すらある。

米国大統領として、言ったり、したりできなかったあるいは、してはならなかったことを、マッカーサーが、次々と公言したことが、トルーマンをして苦しい立場に追い込みかねないこと、マッカーサーのそのような言動がトルーマンにとっては極めて軽率な不快なものに映じたのであろう。

中国人は数世紀にわたって煉瓦を積み重ねて、人間の手によって万里の長城を築きかつ都市を煉瓦で築いた部厚い城壁で囲んでしまった気の長い国民性、千里の道を徒歩で旅をするがまん強さ、こちらが強く攻めれば退き止まれば横や後へまわって、こちらの後方を脅かし、こちらが退けば密着したようについて進んで来るという諦めと疲れを知らぬ、しつこさ等を併せ持っており、実際、元や清のような異民族支配を受けても、100年単位の時間をかけて、漢民族の国家を回復している。

このような中国人の気質を考えるならば、中国と本格的に事をかまえずに終らせたトルーマンの判断は誤りではなかったと言ってよい。

7 休戦

マッカーサーの後を継いだリッジウェーの時、休戦の話し合いの呼びかけがなされた。話し合いは休戦ラインの位置よりも捕虜問題でもめた。

休戦会談のきっかけは、国務省の高官からプリンストン大学に移ったジョージ・ケナンとマリクソ連国連代表の話し合いであった。

1951年5月31日、米国国務省も了承の上で会談が行われ、6月5日に2回目の会談が行われた。

そして6月23日、マリクソ連国連代表がラジオを通じて、朝鮮停戦交渉を提案したが、中国は人民日報を通じて同意し、米政府もトルーマン大統領が同意を表明した。

6月29日、リッジウェー大将が休戦を申し入れ、平壌放送と北京放送が受諾の放送を流した。
開城で7月10日から8月23日にかけて休戦会議が行われ、10月25日以降は板門店で現地軍司令官を代表とする会談が行われた。

記述の通り、休戦会談で最大の焦点は捕虜問題であった。

国連軍側の捕虜は、ほぼ全員が帰国を希望していたのに対し、北朝鮮や中国の捕虜の多くが帰国を希望せず、韓国や台湾への定住を希望するという事情があり、この意志確認の方法を含めて全ての捕虜を帰国させるべきか、希望の所へ行かせるべきかが争点となった。

休戦会談は両者相譲らず、1年余りたった1952年10月8日には、国連側が、休戦会談の無期限休会を通告する事態に至った。

この間米国の大統領はトルーマンが次の選挙に立候補しないことを明らかにしており、1952年11月4日、共和党のアイゼンハワーが当選した。

1952年12月24日、スターリンが朝鮮戦争終結に協力することを表明したが、米国は翌1953年1月27日にダレス新国務長官が「巻返し政策」を明らかにし、共産主義の進出に強力に反撃する意志を示した。

その一方で、アイゼンハワー大統領が2月2日の一般教書の中で、「台湾の中立化を解除する」ことを発表した。

その20日後の2月22日に、前年リッジウェー大将がNATO最高司令官に転出した後これを引き継いで国連軍司令官になっていたクラーク大将が傷病捕虜交換を提案し休戦会談が再度動き始める気配を見せた。

3月19日にはアイゼンハワーが、全面的勝利論を否定し、現在の戦線で休戦にする意向を示した。3月30日に、周恩来首相が休戦会談の再会と送還拒否を続けている捕虜の中立国引渡を提案してきた。

4月10日、傷病捕虜交換協定が成立し、6月8日、捕虜送還協定が調印された。

ところが、この内容が中国・北鮮側に譲歩した内容であったというので、李承晩が反対し、挙句の果てに、6月18日、反共捕虜約2万7000人を釈放し、市中に出してしまうという事件も起きた。

しかし紆余曲折を経て、1953年7月27日板門店で「朝鮮休戦協定」が調印され、朝鮮戦争は1950年6月25日の開戦から3年目で一応、戦火が収束した。

8 爾後に与えた影響

人間は経験に学び、判断するが、中でも賢い人は他人の経験を取り込み自分の経験として活用する。国家や人間がもっとも賢く振舞う時、その国家や個人は、歴史の流れの中から教訓を汲み上げて利用している。

朝鮮戦争は交戦諸国に、色々な教訓を与え、戦争の途中において、爾後において、いくつかの大きな影響を与えた。次にその中の主要なものを見てゆくことにする。

(1)日米関係に与えた影響

第2次大戦直後の米国は、日常必要な生活用の製品を中心とした雑貨の生産をする軽工業だけを残して、造船その他重工業力の大半を日本から奪い、二度と欧米にとって危険な国にならないようにしようと、農業国日本を作ろうとしており、戦後の日本はテレビジョンや原子力応用の研究、航空機産業等も禁止されたほどであった。

しかし、米ソの対立が深まり、冷戦が厳しくなるにつれ米国の日本に対する態度は変化した。
当時アジアで唯一の工業国であった日本を農業国にしてしまうことは中国全土が共産化し、朝鮮半島の北半分がソ連の影響下に入ったこの時期、決して米国にとって利益にならない行為であった。

また、あまり苛酷な仕打ちをすることにより、日本人をして、米国に対し第1次大戦後の英仏に対してドイツ人が抱いたと同様の感情を持たせてはならないと、米国は考え始めていた。

このような雰囲気の時に朝鮮戦争が勃発したのだが、この戦争で日本は、国連軍の後方基地として、大きな役割を果たした。
そのせいかあらぬか、米国は吉田茂首相が1951年9月8日のサン・フランシスコの調印式の演説で「和解と寛容の条約」と称した、賠償を求めず、講和後の制約もほとんどない対日講和条約草案を、僅か8箇月で作成し、ソ連・東欧と中国を除く、日本との旧交戦国の大半が調印した。

この講和条約調印と日を同じくして、「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約」が調印され、日本と米国の間には軍事的、政治的に強い結び付きができ上がった。

この時の講和条約は1943年に降伏したイタリーが結んだ条約と比較しても数等、寛大な内容であったため、イタリーが見直しを要求したほどであった。

しかし東南アジア諸国の中には賠償を要求する雰囲気が強く、フィリッピン、ビルマ(現ミャンマ)、インドネシア等は、個別に賠償交渉を行ってその金額を定めた。

また、中国とは北京政府と台湾の台北政府のいずれを日本の交渉相手とするかが問題になったが、吉田首相は「20世紀最大の虚構である」と自ら語りながら、国際環境と対米顧慮の結果「20年後には北京政府と交渉することもあろう」と言いながら、台湾の国民政府と講和条約を結んだ。

ソ連と東欧所奥は調印を拒否したため、この講和条約の当事国にならず、この条約に規定されている条項は、日本とソ連、日本と東欧の間には一切効力が及ばず、法的には戦争状態が継続されると共に「北方領土」についても、帰属問題は全千島列島が未解決の地域として残されてしまった。

日本の社会党や共産党が、自由民主党の「四島返還要求」よりも厳しい「千島全島返還要求」を唱えていたのも、あながち根拠のないものではないのである。

また、この講和条約の第2条C項は「千島列島放棄」は明記しているが、千島列島の範囲と新しい帰属国が明示されておらず、大戦中の連合国の宣言等にも明示がなかった。

1855年2月7日に下田で調印された「日本国魯西亜国通好条約」の第2条

『今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るべし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たず是迄仕来の通りたるべし』

という表現から見て、帝政ロシアは千島列島の範囲を「ウルップ」島以北の諸島としていることが明白であり、吉田首相は自ら首席全権として出席したサン・フランシスコ会議の演説の中で、カラフトや千島列島のことに言及し、「歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するもの」であること、「国後、択捉両島が昔から日本領土」であった事実等について、会議参加者の注意を喚起した。

また、この会議で米国のダレス全権は「ポツダム宣言が日本と連合国全体を拘束する唯一の講和条件である」こと「いくつかの連合国の間に私的な了解があったが、日本も他の連合国もこれらの了解には拘束されない」ことを明らかにした。

ポツダム宣言はカイロ宣言の原則が守られることを明らかにしており、カイロ宣言は領土不拡大の原則が明示されている。

北方四島のソ連による不法占拠はサン・フランシスコ講和条約の結果、日ソ間の太いとげとして顕在化してきた。

このとげは、日ソ間に慢性的不正常な状態をもたらし、その痛みは当初、日本にとって痛く、ソ連にはほとんど感じないものであった。

ところが時の経過と共に、日本が戦後復興を果し繁栄に向かったのに対して、農業不振や経済不振による国内の停滞で、ソ連・東欧の社会主義圏が自由世界の後塵を拝する状態になると、実質的な痛みのほとんどがソ連に移って行った。

スターリンが強引に、得撫(ウルップ)島で占領を止めるべき所を、国後、択捉、歯舞群島、色丹島に手を伸ばして日本固有の領土を奪取し半世紀に及ぶ日ソ国交の不正常の原因を作ったツケは、大戦後40有余年にして、ソ連の不利益の根源になりかねない情勢になった。

ソ連がサン・フランシスコ条約調印を拒否したとき、このことについて日本国内のマルクス主義者やそのシンパサイザがソ連・東欧も含めた「全面講和」を主張し、ソ連・東欧の共産圏の調印のない講和は単独講和だとして反対した。

また、「日米安全保障条約は、日本が米国のアジア戦略に組込まれ、日本が戦争に巻き込まれる」として反対する進歩的文化人や革新的政治家も多かった。

しかしその10年後の改訂までも、また改訂後も日本は戦争に巻き込まれるどころか、「日米安全保障」下に米国の巨大な市場を利用し、軍事費を最小限にとどめて、経済的繁栄の基盤を固めた。

国防力の弱い国が、世界最強の国の戦略の一環に積極的に組み込まれることにより安全を確保し、経済的繁栄をはかるということは、賢明な手段であっても愚行ではない。

常識的に、最強の国とその同盟国を武力で積極的に攻撃する国は、極めて稀だからである。

だが大国と同盟したい小国は、大国にとって、重要であり、メリットのある存在でなければならない。
米国は米国の哲学を大切にして、弱小国を助けてはくれるが、支援の程度は国家利益とバランスシートにかける実用主義的な側面がある。

また、Do-it-yourselfの国であり、自助努力をしないものは軽く扱い、自ら努力し励む者を尊ぶ。
日米安保を今後も有効に機能させるためには、こういう点を十分に念頭に置くべきである。

米国には、義理人情やハラ芸は通用しないので、日本もまた、米国にとって有用かつ重要な国にならねばならないことを忘れると、米国の友情を失い、それはEUとの距離を遠くし、孤立を招くことになる。

(2)米中関係に与えた影響

既に述べたとおり中国は、ソ連に対し帝政ロシアの時代から、強い不信感を持っていた。

ところが米国は中国の門戸開放を求め、自由競争の原理に従って中国の市場を特定の国が独占することなく、各国の経済活動に平等に機会が与えられるべきであるとする。

この主張は資金力の強い米国に好都合であると同時に、ロシアを含むヨーロッパやアジアで台頭し始めた日本に蚕食されて苦しんでいた中国にとっても好都合であった。

米国人はアングロ・サクソン流の哲学に根ざす、米国の価値観を押しつけるので、鼻につく点があるが反面、自分自身の行動も米国の価値観や道徳律で律せられているので、強大ではあるが、危険の少ない、安心して交際できる国である。

中国はロシアの膨張主義で多くの土地を奪われ、その過程で多くの富と人命を失い、ロシアへの不信感は根強かったが、米国に対しては、ある程度の親近感や信頼感を持っていた。

中国の北京政府要人も演説やインタビューなどで、間接的ながら、かつて国民党を支援したり中国に対してあやまちを犯した国や政府も、それを改めるならば中国は付合うことができるという主旨のことを述べており、米国にラヴ・コールを盛んに送っていた。

しかし、機が十分に熟さないうちに、朝鮮戦争がはじまり、しかも「抗美援朝」のスローガンのもとに米国の敵役でこの戦争に介入した。
米国は真珠湾攻撃以上に激怒し、中国の行為を憎悪した。

以後の米中関係は凍りついた状態で、国際連合における中国代表権問題では、米国は一貫して台湾の国民政府を擁護しつづけ、北京政府に対しては1971年10月25日、国連総会がなだれをうったように、圧倒的多数で北京政府招請を可決した時も、反対票を投じたほどである。

米国の大統領が中国を訪問するのは1972年2月21日から28日まで、ニクソン大統領によって行われるまで実現しなかった。

周恩来首相と毛沢東主席は1976年の2月と9月に夫々死去したが、遂に生きて米中国交回復の日を見ることはなかった。
両国が正式に国交回復を決定したのは1978年12月16日のことで、米中両政府の同時発表によって明らかにされた。

1979年1月1日、米中の国交は正常化したが、朝鮮戦争休戦の年から参しても四半世紀有余の年月が経過していた。

朝鮮戦争が米中関係に与えた影響というものは、この二つの大国が、夫々のやり方で、夫々に独自の歴史を刻みつづけ、中国は共産党の支配下で、毛沢東というカリスマ性を持つ巨人と周恩来という手腕のある政治家が、一貫してリーダーシップをとりつづけたため、世人はあまり意識しなかったが、じつに重いものであった。

(3)日本の内政に与えた影響について

日本経済は、朝鮮戦争が始まった当初は占領下で色々と制約を受けており高度経済成長どころか、第2次大戦で受けた被害を克服しきっていなかった。

ところが朝鮮戦争のときは、好むと好まざるとにかかわらず、後方の兵站の拠点であり、根拠地であり、国連軍のために重要な役割を果たすこととなる。

しかも占領下であったから、国連軍司令官であると同時に日本占領軍の司令官でもある者の名においてなされる命令に否やはあり得なかった。

結果として、日本の工業は再建の基盤が固まり、経済全体が受容のおかげで一息ついたことは、紛れもない事実であった。

そしてこの事実の上に、高度経済成長が始まったことも否定できない。

もう一つ重要な事実は、この朝鮮戦争をきっかけに、マッカーサー書簡により警察予備隊約7万5000人が創設され、海上保安庁8000人増員が行われたことである。

当初、日本に進駐していた米軍の多くが、朝鮮に移動したためこれを補完するものと理解されていた。

だが、昭和25年元旦に、マッカーサー元帥は例年のように、日本国民を対象とする「年頭の所感」を発表した際、「日本国憲法第9条の規定にかかわらず、日本は自衛権を持っている」ということを述べている。
恰も朝鮮戦争の勃発と、それに引き続く国際環境の変化を予想したかのような内容であった。

もっとも、自衛権というものは、国家の基本的権利として、主権、平等権、尊重権などと共に天与のものであって、国内法で否定しようがすまいが存在しており、国内法では権利を行使しないことを規定する自由がある。

だから、マッカーサー元帥の言葉は、国会、内閣、最高裁判所よりも強い力を持っており、日本占領の連合国軍最高司令官の言葉には、極めて大きな重みがある。

しかし、この「自衛権」が大きく日本にかぶさってくるのは、朝鮮戦争以後のことであった。
「警察予備隊」は2年後には「保安隊」となり、海上保安庁から海軍の機能が分離して「海上警察隊」となった。

更にその2年後に、「陸海空の3自衛隊」となり、ほぼ現在の形になったが、原形は朝鮮戦争勃発当時の「警察予備隊」に発している。

当時の首相、吉田茂は時代の読みのできる、外交官出身のスケールの大きなステーツマンであり、大局観のあるしかも信念に基づいて、自分の保身や名誉にこだわらず、たとえ人々の不人気や批判を呼んでも、国家の将来に必要なことはやるというところがあった。

吉田首相は占領下であっても言うべきことは言うという姿勢で、マッカーサーの部下の占領軍司令部の局長級の少佐や大佐に対しても、日本の首相としての矜持を持って物を言い、マッカーサー元帥の信頼を得、米軍の高官もマッカーサー元帥以外は吉田首相に対して、命令的な姿勢はとれなかったという。

吉田首相と、米国が対日講和条約締結を急ぎ始めた時、大統領の特使として米国側で衝に当ったのは、ダレスであった。

ダレスは日本の再軍備を促したが、吉田首相は「再軍備は必要なことでありいずれはしなくてはならない。しかし、今やるべきことは経済建設である」としてこのダレスの要求をことわっている。

吉田首相と心情的に結ばれていたマッカーサー元帥は、吉田首相のこのときの「経済が先だ」という考えを支持して助けてくれたという。

しかし、吉田首相は、将来の国軍の幹部を養成するため、昭和27年には「保安大学校」を創設し、29年には「防衛大学校」としたが、ここで鳩山一郎に政権の座を譲った。

吉田首相は「保安大」を時々訪れ、ある時は「私は諸君の生みの親である」と学生に語りかけ、激励し、「防衛大」となった後も卒業式には出席し、祝辞を述べている。

吉田首相は、旧軍を嫌っていたが、国防の必要性を認め、新国軍の将校を養成する必要も認めていた。
その証拠に、国会の質疑応答の中で「言葉や悪いが士官学校をできるだけ早くつくりたい」と述べ、これは当時のNHKのラジオ・ニュースでも報ぜられ、全国紙にも掲載されたことである。

また来賓として防衛大学校第1期生の卒業式で祝辞を述べた際に、「軍人精神を発揮してもらいたい」ということを特に強調している。

そのような首相の下で、講和条約と日米安全保障条約が結ばれ、自衛隊が創設され、高度経済成長政策が推進された。

そしてこれらの政策は、朝鮮戦争によって加速された。
ところが、その出発点が占領下に、マッカーサー元帥がオールマイティーの権力者の立場で、「書簡」によって、命じて「警察予備隊」を作り、講和条約調印と同日付で「日米安全保障条約」に調印したため、日本国内の世論が未成熟のまま現実が走ってしまった。

そのため当時のマルクス主義のシンパサイザーらを中心に、「ソ連との距離が遠くなる」ことと、「米国との距離が近くなるだけではなく、社会主義革命がやりにくくなる」のを恐れ、「民意を無視した米国に隷属する政策」という表向きの理由づけの下で、「反自衛隊」、「反安保」を唱え、長くその主張が、安全保障政策をめぐる日本国内の不毛の議論の底流となった。

この種の問題は、約二世代60年程度の時間をかけないと、国民の間に正しいバランス感覚は回復しないであろうから、21世紀の初めの10年が過ぎるころまで日本国民の安全保障に関する合意は未完成状態がつづき、何によらずいわれもなく、自衛隊や国連の軍事的側面を否定し、自衛隊のステータスをことさらに低くして、批判することと国防力を弱め否定することが平和に貢献する正しい道だと確信している評論家やキャスターあるいは学者らは暫くしばらく力を保ちつづけた。

だが、日本人の教育水準の向上や外国旅行の機会が増えるにつれて、世界の常識に急速に、日本の世論が近づいていく傾向は、はっきりしている。

(4)国際連合に与えた影響について

1950年6月25日の北朝鮮軍の南への進攻が始まったとき、国際連合にソ連代表は不在であった。
この年の1月10日、安全保障理事会は、中国代表権問題をめぐり、国民政府除名のソ連案を否決したため、ソ連は国際連合のボイコットを始めた。

ソ連不在のときは、安全保障理事会も総会も、表決の際は棄権と見なすのであるが、朝鮮戦争勃発当時、ソ連が棄権を反復する形となり、その拒否権の影響を受けずに、米国主導で決議が次々と可決された。

ソ連は8月1日、安全保障理事会に復帰したが、その結果、ソ連の拒否権が安全保障理事会の決議にブレーキをかけることとなり、国連軍に38度線突破の正当性を与えた10月7日の「国連軍による全朝鮮半島占領と全朝鮮統一選挙に関する8箇国提案」は、安全保障理事会ではなく、国連総会の議決である。

10月25日に中国義勇軍が北朝鮮を助けるため介入してきたが、この事態に安全保障理事会は、ソ連の拒否権がある以上何もなし得ないことは明らかで、米国は11月2日「平和のための結集決議」を総会で採択させた。

この決議は「安全保障理事会が、大国の拒否権等でその機能が十分に発揮できない時は、総会が武力行使を含む必要な措置を執ることを勧告できることや、必要な調査・報告を行うこともできる」というものである。

1951年1月4日中国軍と北朝鮮軍は38度線以北を回復した後、京城を再占領し、1月25日に国連軍が反攻を開始し、38度線附近で国連軍が優勢を保ってはいたが、膠着状態となった。
2月1日、中国の介入を怒った米国は総会で、中国政府を「侵略者」とする非難決議を採択させた。

この時期を境に、強化された総会が国連活動の中心となり、総会の決議を尊重するという形で、事が処理され、安全保障理事会は次第に国際紛争等の処理に関する機能の多くを総会に譲って行く。

ところが1950年代の終りまでにアジアの主要地域は植民地の地位を脱し、ブラック・アフリカも1960年代に大半が独立して、大挙して国際連合に加盟した。
その結果、スエズ、キプロス、コンゴ等の各地の紛争の際、国際連合に拠ったアジア・アフリカの小国が、しばしば主導権を握って、解決し、米ソをはじめとする大国の意志とは異なる国際政治の流れが見られるようになった。

そして米ソ超大国の影響力が相対的に低下する傾向が生じてきたことは否定できない。

その結果、大国が介入して来ないであろうことを見越して、各地に内乱や紛争が発生し、慢性的な不安定や局地紛争が多発する傾向が見られるようになった。

少なくとも、大国の鶴の一声で問題が片付いたり、大国の意志が強力に貫けるという国際環境はなくなってきたと言ってよい。

朝鮮戦争当時は、米国にとって有効なものであったが、今や米国にとっても「強い総会」は困った存在であると言えよう。

しかし、もはや既定のものとなったこの状態は「主権平等の原則」が、くつがえされない限り、変わらないであろう。

9 まとめ

朝鮮戦争は第2次大戦後5年目にして発生した大規模な戦争であった。
しかも国際連合という国際の平和維持機関が編成した国際連合軍が、一人の最高司令官の一元的指揮の下で戦った、「連合作戦」であり、陸海空三軍を東京の司令部で一元的に指揮した「統合作戦」としての色彩も濃厚で、仁川上陸作戦のとき、鴨緑江岸の橋梁等の爆撃その他の重要な作戦のとき、いつもマッカーサーの姿が現場の艦上や機上にあり、また実施の決断のときに、常にマッカーサーが関与していた。
その意味では統連合作戦を研究する際には重要な、戦史事例である。

またトルーマンとマッカーサーの確執から解任に至る、軍事のシビリアン・コントロールに関する問題についても、一つの事例を提供した。

当時のマッカーサー元帥は「国際連合軍最高司令官」としての立場と「日本占領の連合国軍最高司令官」としての立場があった。
前者の場合、マッカーサー元帥は、現地における軍令の執行者の立場にとどまらねばならないが、後者の場合は、日本の天皇よりも上席にあり、かつ三権の長を指揮監督する立場にあり、占領行政を司る、文官たる司政官の役割も持っていた。

マッカーサーの言動の中に、シビリアン・コントロールの枠を踏み外したものがあったことは否定できないが、マッカーサー元帥の立場は、単に朝鮮半島で戦う軍司令官というだけではなく、占領地の行政官という性格も併せて備えていたのである。

もちろん、欧米で「軍事のシビリアン・コントロール」という場合のシビリアンは記述の通り「文官」とか「役人」あるいは「官僚」を意味しない。

米国の場合は、「局長以上の高級公務員」は、大統領や長官が見識のある在野の人材も含めて、広い範囲から選び出し、上院の審査と同意を経て任命する。

この「任命職」が大統領や長官を助けて「軍事のシビリアン・コントロール」を円滑ならしめるが、この「任命職」以外の国防総省等の国防軍事組織に勤務する「軍人」や「文官」はシビリアン・コントロールを受ける立場にあるとされている。

米国では私服で勤務する公務員は、いわゆるパブリック・サーバントであって、単に「文官」というだけでは軍事のシビリアン・コントロールという時の「シビリアン」ではない。

米国は建国の歴史に由来して、伝統的に選挙で選ばれた人が一番偉く、その次に、選挙で選ばれた人の審査を経て任命された人が偉く、試験で選抜された人は更に下位に格付けられるので、こういうことになる。

やはり米国人の常識ではマッカーサーはトルーマンに従うべきであった。
この時のシビリアン・コントロールの不円滑の反省から、ベトナム戦争の時はワシントンが砲爆撃の目標の選定やウェーポンシステムの選定の領域まで立ち入り、今度は軍事的適応性を欠き、長期間にわたり、大きな軍事力を投入したが、後手にまわり結局失敗したと批判されている。

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