第1次世界大戦

1 大戦前夜のヨーロッパ

1905年、極東を舞台として戦われた日露戦争はポーツマス条約締結により一応終わった。

表面的には日本が陸海で連戦連勝し有利に戦いを終わらせることができたが、その背後には日英同盟と米国の好意的中立がある。
米国は日本の戦費調達やポーツマス条約のあっ旋等、日本が負けないように、また負けないうちに戦いを終わらせるように、協力してくれた。

一方ヨーロッパで、ロシアと近い関係にあったフランスとドイツも、それぞれの思惑からロシアが極東であまり国力を消耗してしまうことは、ヨーロッパにおける、勢力のバランスを保つ上で決して望ましいこととは考えなかった。

フランスとドイツのロシアに対する日本との講和締結のすすめも加わり、ロシア国内の政治的、社会的不安定と相俟って、ロシアは日本との講和に踏み切ったが、アジア方面で挫折した分をバルカン方面への政治的進出で取り戻そうとするかのような動きを示し始めた。

一方ドイツとフランスの間には、日露戦争が終った1905年の第一次モロッコ事件と1911年の第二次モロッコ事件等を通じて、次第に対立感情が醸成された。

つまり日露戦争以前は独仏露の三国が協力関係にあったものが、その後は仏露関係はまあまあとして、独仏関係は友好的とは言いかねる状況となってきたのである。

またイギリスは鉄鋼生産や軍艦の建造などの発展に顕著に見られるように、ドイツが国力を伸長させ強国として、台頭してきたことに警戒感を強めていた。
このような雰囲気の中で、1914年6月にサラエボ事件が起きた。

2 第1次大戦の勃発

サラエボ事件というのは周知のとおりオーストリアの大公夫妻がセルビア人にサラエボで暗殺された事件であるが、事件の原因は大要次のような事情による。

第1次大戦後の一時期、ユーゴスラビアとして連邦を構成した、セルビア、スロベーヌ、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの各共和国は、この時期まだ統一されておらず、ばらばらの地方であった。

セルビアは、「これらの小国は民族的に決して同一ではないが、類似性があり共通の利害を有しているので、うって一丸となって一つの国を作りたい」という、いわゆる大セルビア主義を掲げていた。

そのようなセルビアの希望と裏腹にスロベーヌ地方とクロアチア地方はハンガリー領に含まれており、ボスニアとヘルツェゴビナの二州が1908年セルビアの目の前でトルコの支配下からオーストリアの版図に併合されていった。
当時ハンガリー王国は、オーストリア帝国の皇帝が国王を兼ねており、オーストリア・ハンガリー帝国と称されていた。

つまりオーストリア・ハンガリー帝国は、セルビアと全面対立の状態にあったということであり、セルビア人がオーストリア皇帝と皇太子に強い反感を抱いていたのは、自然の情によるものと言えよう。

だが、このことは裏を返せば、オーストリアもまた、セルビアに対して「うるさい奴め!」という感情を持っていたとしても、自然だと言えるのである。

オーストリアはこのサラエボ事件を機に、セルビアに強硬な態度で臨みうるさいことを言わないようにしようと考え、宣戦を布告、ところが大セルビア主義を掲げるセルビアの背後に、スラヴ民族をまとめてバルカンに政治的に勢力を伸張しようと機会を狙っていたロシアがいた。

そしてオーストリアの背後には、同じゲルマン民族のルリン、ザンチン、クダードを結ぶ線を重視し、中東方面への進出を目指すドイツがいた。
これらの地名のイニシャルをとって「3B政策」と称されるものであり、この「3B政策」は、イロ、ルカッタ、ープタウンを結ぶ線を重視するイギリスの「3C政策」と競合することとなる。

中東を目指すドイツにとっては、オーストリアとロシアが争い、その結果としてロシアの勢力がバルカン半島に扶植されることは不具合なことであった。

結局ロシアはセルビアを支持してオーストリア・ハンガリーに宣戦し、ドイツはオーストリア・ハンガリー側に立って参戦した。

ところがフランスがロシアに加担して参戦し、台頭するドイツを叩く機会をねらっていた。

イギリスはドイツがベルギーの中立を侵したと、これを口実として、ドイツとオーストリア・ハンガリーに宣戦したため、ヨーロッパの大国のほとんど全部が戦火を交えるに到った。

イタリーもまた、1916年に戦後、いくばくかの領土的利益を得ることを約束されて、対ドイツ・オーストリアに宣戦布告を行った。

以上に見るとおり、ヨーロッパ各国の参戦理由には、それぞれ表面的にはもっともらしい理由がついてはいても、つまるところは国家利益をめぐる争いであった。

当時のアジア・アフリカ地域は、極東の日本が欧米諸国と対等の外交関係を確保しており、東南アジアのタイや北アフリカのエチオピアも列強の力のバランスの上に乗って、植民地化を免れていたが、これらは例外であって、アジア・アフリカの地図の色は欧米諸国に分割され、各宗主国と同じ色に塗りつぶされていたから、ヨーロッパ諸列強の戦いは直ちに世界中に波及した。

1917年2月にロシア革命が生起して、東部戦線のロシアは、レーニン主導の下にロシア帝国からソビエト連邦へと国家の体質が急激に変化し、ドイツと単独講和を結んで、戦列を離れたが、1917年4月に入れ代わりに米国が英仏側に参戦し、ドイツは国内の継戦意欲の低下から、遂に1918年11月休戦となった。

3 戦後の処理

その時ドイツは、1918年1月8日にウィルソン米国大統領が出した「平和十四箇条」に従って双方の交戦国に対して、民族自決の原則等の内容が守られることを期待していたのであるが、1919年6月28日に調印された対独講和条約のヴェルサイユ条約は、一方的にドイツに対して全植民地の放棄を求めるものであった。

このような不公正な取り扱いはドイツ以外の敗戦国に対しても同様で、対オーストリア講和条約のサン・ジェルマン条約、対ハンガリー講和条約のヌイ条約においても同様敗戦国に酷なものであった。

たとえばトリアノン条約の結果ハンガリーはトランシルバニア地方の全域とバーナート地方の一部をルーマニアへ、バーナーと地方の大部分とクロアチア地方、スロベニア地方およびバーチカ地方をユーゴースラビアへ、スロバキア地方とルテニア地方をチェッコスロバキアへそれぞれ割譲し、ハンガリーの領土の約72パーセント、人口の約64パーセントが失われた。

その一方でデンマークは、1864年のデンマーク・プロシア戦争でプロシアに割譲したシュレスウィヒ北部を回復し、フランスは1870年に普仏戦争で失ったアルサス・ロレーヌ両地方を回復した。

4 第1次大戦の後遺症

以上概観しただけでも、一般にヴェルサイユ体制と呼ばれている第1次大戦の処理は決して公正なものではなく、米国上院は日本の対華二十一箇条をも容認した「パリ講和会議」の結果に怒り、ヴェルサイユ条約以下の諸条約を批准しなかった。

そして改めて各国と個別に講和条約を結んだが、その結果このパリ講和会議で取り決められていた、「国際連盟設立」や「フランスに対する対独保障」についても米国は、関係がなくなってしまった。

そのため米国の参加していない国際連盟は、以後の世界平和に貢献する力は弱く、また米国による対独安全保障を条件に、ライン川流域の管理で、ドイツに譲歩した形となったフランスをしてドイツに対する警戒心を強めた。

その結果、フランスはポーランドやチェッコスロバキアに接近するとともに、イギリスとの友好関係の維持増進に努めることとなり、ドイツ・フランス間の友好は少しも進展がなかった。

しかも1921年4月、ドイツに対する賠償総額1320億マルクが確定し以後ドイツを経済的に苦しめることとなるが、フランスはドイツの賠償支払いが遅滞したことを理由に、1923年から1925年にかけてルール地方の軍事占領を行った。

ドイツの賠償問題は1924年のドウズ案により一旦収拾されるが、1929年にはヤング案によって総額を358億1400万マルクに減らして、58年間にかけて支払うということに改められた。

戦後のこういう状態は、領土問題と経済問題の両面にわたり、戦勝国と敗戦国の双方に、復讐心と恐怖心・警戒心を醸成し以後の国際的対立の因を作ってゆく。

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