パレスチナ戦争

中東地域は第2次大戦後の世界において最も不安定な、紛争の多い地域の一つである。

一般に「中東(Middle East)」という表現は、ヨーロッパから見て、東方へ測って中位の距離に位置する地域という意味から出たといわれ、かって地中海に最も近い東方の非ヨーロッパ世界を「近東(Near East)」と称した。

第2次大戦後しばらくして、ヨーロッパの力が弱まるにつれて、あまりにヨーロッパ中心の考え方であり、非ヨーロッパ世界、なかんずくアラブ世界の反発を恐れ、「Near East」は用いられなくなり、「Middle East」に統一されている。

「極東(Far East)」は、その地域の中国や日本が、はるか東方の国と言われることを嫌悪しないので、そのまま用いられている。

では、一般に漠然と中東というのは、世界地図のどのあたりかというと、これは定義が一様ではない。

「アジア州」にこだわると、北アフリカに存在するモロッコ、アルジェリア、リビア、チュニジアはもちろん、エジプトやスーダンのような重要なアラブ諸国と、ヨーロッパとアジアにまたがるトルコを除外しなければならない。

しかし、国際政治を考えるとき、これら地域を除外して中東を論ずることは、現実的でない。

ここでは、アジア州に固執せず、これら地域も含めて、柔らかく中東を考えることにする。中東の範囲を厳密に定義してみても、ここではあまり利益はないからである。

パレスチナをめぐる紛争の経緯

パレスチナ地方とはどういう地域か

西暦70年、イェルサレムがローマ軍の手におちて、ユダヤ人の王国が滅亡した。

ユダヤ人の聖地でユダヤ教の祭祀が絶えた後、ユダヤ人たちは世界各地に離散したが、ユダヤ教の教義を忘れることはなかった。

彼等はいつの日か、乳と蜜の流れるカナンの地に、ユダヤ人の国を再興するという共通の願いを失うこともなかった。

世界各地で異なる文明や環境の中で、約2000年の歳月を経て世代を重ねても、ユダヤ人としてのアイデンティティーは保たれつづけて、現代に至っている。

パレスチナという地名は紀元前12世紀頃、エーゲ海方面から移り住んできたペリシテ人にちなんだもので、ユダヤ人が現在この地に樹てているイスラエルという国は、ヘブライ語のエルツ・イスラエルにちなんで名づけられたものである。

旧約聖書ではユダヤ教の神、ヤハベがユダヤ人たちに与えると約束した「乳と蜜の流れるカナンの地」として記されており、ユダヤ人は紀元前10世紀ごろ、イスラエル王国とユダ王国を、このカナンの地に建てた。

乳と蜜のながれる豊饒の地は、メソポタミア地方で興亡を繰り返した。

アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシャ帝国等の諸勢力も見逃さず、絶えず侵攻と征服を受けた。

ヨーロッパ方面からもマケドニア帝国の侵攻があったが紀元前1世紀以後は、ローマ帝国の支配下に置かれ、西暦70年以後、ユダヤ人の自治も失われた。

ローマが衰亡するとアラブ世界に組込まれ、やがてトルコ帝国の統治を受ける。

第1次大戦でオスマン・トルコがドイツ・オーストリアの側に加担したため、大戦後は名目的にせよ広大な地域にわたっていたトルコ帝国の宗主権の大半が失われ、ほぼ現在のトルコの領域内に閉じ込められた。

パレスチナ地方も1917年以降、英国の委任統治の下に入り、約30年間英国の支配を受けた。

ところが既に述べたように、ユダヤ人のカナンの地への帰還の希望は、ローマの支配以後も2000年の時間を経た後も失われず、19世紀末ごろから「シオニズム」の影響で多数のユダヤ人が各地からパレスチナに集まりはじめた。

シオンというのは聖地エルサレムにある丘のことで、転じてエルサレムを指すことも多い。

英国の委任統治下におけるユダヤ人口の激増ぶりは大変なもので、英国が統治を開始した当時は、パレスチナの総人口約70万人中ユダヤ人口約6万人だったのが、英国の統治が終わる1948年までの30年間に、総人口215万人中の約65万人がユダヤ人であると言われるまでに増加していた。

しかもユダヤ人は資金力にものをいわせて土地や不動産を買い取り、パレスチナの地では、次第にユダヤ人が経済的地盤を固める様相を示しはじめた。

ユダヤ人たちのこういう行動の根拠は、第1次大戦後半期の1917年11月に当時の英国外相バルフォアが、著名なユダヤ系の大財閥ロスチャイルド卿を通じてユダヤ人シオニストグループに宛てた声明にある。

これは「バルフォア宣言」として世に知られているが、世界中に経済的に大きな力を持っているユダヤ資本を味方につけることにより、米国やロシアをしっかりと英仏側にとどめようという、深謀遠慮によって発せられたものであった。

ところが英国は、「バルフォア宣言」に先立ち、エジプト駐在の高等弁務官マクマホンをして、メッカの太守フセインとの間で「マクマホン書簡」を交換させ、当時中東地帯に宗主権を持っていたトルコがドイツ・オーストリア側に加担していたので、「対トルコ反乱を起こすならば、アラブ人による独立王国建設を認める。」と約していたが、アラブ人はメソポタミアの地域に、パレスチナが含まれるものと、考えていた。

しかし、英国は1916年フランスと、大戦後に広大なトルコ帝国の支配地域の分割について、協定を結んだが、その中でパレスチナ地方について、南部のネゲブ砂漠を一度英国の管理下に置き、その後英国の影響下に自治権を与え、パレスチナの他の地域は国際管理化にとどめるという内容の部分があった。この協定は締結者の名にちなみ、「サイクス・ピコ条約」と呼ばれる。

1916年アレンビー将軍麾下の英軍は、エジプトから進撃し、1917年12月イェルサレムを落とし、パレスチナ全域に軍政を布いた。

英国が出した宣言や書簡により、パレスチナのアラブ人とユダヤ人は互に、自分たちの故国としてのパレスチナを主張して争うこととなる。

パレスチナ在住のアラブ人たちは、パレスチナの委任統治を行う英国に対して、ユダヤ人の移住制限と土地取得禁止、アラブ人の独立国家樹立等を要求して1933年ごろに反英活動としての色彩が目立つようになった。こういう状況下で対ユダヤの「バルフォア宣言」、対アラブ人の「マクマホン書簡」、対仏の「サイクス・ピコ条約」と3通りの約束をしてしまった英国は統一した考えや方針をどのように打ち出すかで、国内がもめた。

1939年5月に英国が示した白書は、アラブとユダヤの人口比を2体1とするパレスチナ独立国家を10年以内に承認することを提示した。

この人口比を保つため、ユダヤ人の移住が制限されることになり、ユダヤ人の自治権も認められていないこの白書にユダヤ人シオニストはもちろん、即時独立を叫ぶアラブ人も反対した。

つまり、ユダヤ人にしてみれば神との約束に従って与えられた、乳と蜜の流れる地であり、英国がバルフォア宣言で、「英国政府はユダヤ民族の郷土をパレスチナの地に置くことに賛成であり、ユダヤ人のこの目的達成を容易にするため、最善を尽くす。」と約束した地である。

一方アラブ人の立場からみれば英国がマクマホン書簡でメッカの太守フセインに独立王国を約した地である。

もしも英仏が支配者として乗り込んでくるならば、支配者がトルコから英仏に代わるだけのことであり、それはアラブ人が望む「アラブ人の独立王国」とは、およそ掛け離れたものになる。

また、ユダヤ人が神との約束というような旧約聖書の話を盾に取り、たとえその話が本当のことだったとしても、2000年近く前に喪失しているユダヤ人国家の宗主権の回復を主張するということは、イスラム教徒のアラブ人にとってはいかにも受け入れ難いものであった。

メッカの太守フセインの脳裏にあったのは「大シリア王国」の構想であった。

現在のヨルダン、シリア、レバノンにパレスチナ地方を合わせた、いわゆる「肥沃の三日月地帯」からイラクを除いた地域を一つの王国とする大シリア王国を建国しようというもので、マクマホン書簡の交換により、それは可能だという考え方もあった。

しかし、英国はフランスとの間のサイクス・ピコ条約を無視するわけにはいかず、この大シリア王国の樹立を承認しなかった。

英国の主導で第1次大戦後のメソポタミア地方は、英仏によって分割され、ヨルダンとイラクは英国の影響を受けながらも、独立王国としての地位を得たがパレスチナ地方は英国の、そしてシリアとレバノンはフランスの委任統治下に入った。

バルフォア宣言もマクマホン書簡も十分に守られず、パレスチナ地方を含む中東地域にまつわる問題はユダヤ人とアラブ人の双方に大きな不満を残しながら、第1次大戦終結時は、中東地方の英仏の力の存在によって、潜在化させられ、表面立った大きな騒動は起こらなかった。

だが、パレスチナ地方は肥沃な三日月地帯の一端を担う地方であり、ヨルダン川沿いの低地は、水利と温暖な気候に恵まれ、果樹や野菜の栽培に適し、重要な食料供給地である。

死海では製塩ができ、イェルサレムやジェリコーの周辺を中心に、中東では最も緑に恵まれた地域であるといわれている。

そして西は地中海に面し、南はアカバ湾に臨み、ヨーロッパとアジアの両方面への海の出口を持っている。

面積は約2万平方キロメートルの小さな地域であるが、中東地域では、比較的自然に恵まれており、勤勉に努力すれば、かなり豊かな生活基盤を築くことも可能な地帯である。

パレスチナに長い年月にわたって住みなれたアラブ人にとっても、2000年にわたって、この地に固執しつづけたユダヤ人シオニストたちにとっても、譲り難い地帯なのである。

このパレスチナの地は、第2次大戦後のアジア・アフリカで、ヨーロッパの植民地が、民族国家として独立する傾向を示し始めた、時代の潮流の中で、ユダヤ人の国家をこの地に再興する動きも活発になってきた。

そして、この動きはパレスチナをめぐり、ユダヤ人とアラブ人の熾烈な対立感情に火をつけ、第1次大戦以来潜在していた問題を顕在化させた。

パレスチナの紛争の遠因、近因

イスラエル人は、「パレスチナ地方におけるユダヤ民族の歴史の起源は、約3500年以前にさかのぼり、バビロニア帝国の時代にある。」と主張する。

その頃エジプトでは、紀元前1550年にアアフ・メス1世が第18王朝を開き、新王国時代の幕開けを見ていた。

そして紀元前1269年、エジプトの王メソポタミアに武威を誇っていたヒッタイトと和議を結んだが、紀元前1172年エジプト第19王朝が滅亡し、ヒッタイトも前後して亡びた。メソポタミア各地は分裂し、シリアの地を中心にユダヤのダビデやソロモンらがサウル王朝を樹てたという。

紀元前743年、アッシリアの勢力が強力な軍事力を背景にティグリス川上流域から急速に近隣に拡大し、ティグラトピレセル3世の時、メソポタミア一体を統一し、シリア・パレスチナ方面をも占領して、アッシリア帝国を建てた。

そして紀元前663年、アサルハドン王のとき、エジプトのメンフィスを陥れ、エジプトをアッシリアの属州とした。

しかし、その後ペルシャ人の勢力が伸びてきて、紀元前538年ペルシャの支配はエジプトにも及んだ。

このように、古来メソポタミアの地は、多くの民族や部族が、入れ替わり立ち替わり、支配と服属、興隆と滅亡を繰り返したが、その中にあって、ユダヤ民族だけが、多くの勢力の支配の間隙をぬって、民族的アイデンティティーを失わず、文化や宗教を維持しつづけ、パレスチナに単独のユダヤ民族の独立国を樹立した歴史を有する。

すなわち、「パレスチナの地に、民族の独立国家を建てた歴史を有するユダヤ人が、神の啓示によって、約束された乳と蜜の流れるパレスチナの住民になり得る。」というのがユダヤ人の主張である。

これに対して、アラブ人はこう主張する。

「アラブ人はユダヤの民が、パレスチナの地に移住してくる以前から、この地にあったカナン人の子孫であり、約4000年の歴史を持っている。」

メソポタミアの歴史は、紀元前3300年ごろにはシュメール人が農耕文明を形成し、紀元前3000年ごろになると都市国家が成立するようになった。

そして紀元前2500年ごろにはシュメール人のウル第1王朝が樹立され、かなり強力な勢力がメソポタミアの地に生まれた。古い時代のメソポタミアは北部をアッカド人、南部をシュメール人が支配していたが、紀元前2250年にアッカド人出身のサルゴン大王により、シュメール・アッカド王国が成立した。

紀元前1800年にはバビロニア帝国が成立し、有名な世界最初の成文法と言われる、ハンムラビ法典がつくられたのも、この頃であった。

これら諸勢力の子孫が直接パレスチナ在住のアラブ人というわけではないが、ユダヤ人が2000年も前の故事来歴を持ち出すのなら、こちらにも古い歴史があるのだというのがアラブ人の言い分である。

もう一つ、アラブ人指導者たちが、釈然としないのは、第1次大戦当時の英国によるマクマホン書簡初め多くのアラブ懐柔策とその裏切行為である。

ドイツ・オーストリア側に立って参戦したトルコに対応するために、マクマホンとメッカの太守フセインとの間に書簡が交わされ、「アラビア半島および地中海に沿った肥沃の三日月地帯のほぼ全域に、トルコ帝国の影響から脱した、、アラブの大王国を樹立する。」ことが双方の了解事項となった。フセインはトルコに聖戦を宣し、メッカやダマスカスを陥れた。

だが既に述べたように、英国はフランスとの間に、アラブ分割を約したサイクス・ピコ条約、ユダヤ人の資産家との間に、「パレスチナにユダヤ人の郷土を再興する」ことを約したバルフォア宣言を交わしており、フセインはアラビア半島の一部にヘジャズ王国樹立を認められただけであった。

英国の裏切りがなければ、パレスチナ、レバノン、シリア、ヨルダンからアラビア半島にかけて、大シリア王国として、アラブの世界が統一されていたはずであった。

この当時のアフリカ大陸や中東地域は、英国やフランス等のヨーロッパ諸国の都合により、歴史的国境線として長い歳月の間に自然な慣行で定まっていた部族の境界線は無視され、「あたかもバターナイフで切るように国境線が定められた。」のである。

トルコに対応するためだけではなく、ヨーロッパに対抗するイスラム勢力を弱め、ヨーロッパに従順で友好的なアラブ世界を作るため、当時の英国植民相チャーチルを中心に、アラブの親英的な勢力に多額の買収工作費が送り込まれた。

こういう英国の政策は一時的に、英仏による平和をアラブ世界にもたらしたが、第2次大戦後の中東の不安定や紛争の火種子の遠因となるものであり、4次にわたるパレスチナをめぐる、イスラエルとアラブの戦い、レバノン紛争、イラクのクウェート侵攻、シリアとイラクの対立等の事象は、多少なりとも、第1次大戦後の英仏のこのとき交わしたサイクス・ピコ条約やバルフォア宣言に起因する。

ブラック・アフリカ諸国も歴史的由来や自然発生的な部族間の境界線を無視し、「バターナイフで切るように」ヨーロッパ諸国が境界線を定めたところが多く、いずれの日か民族や部族の対立による流血の惨事が生起する可能性を内包していると言えよう。

イスラエル建国と紛争の勃発

第2次世界大戦はヨーロッパの会議室で世界の方向が定まると言われた、ヨーロッパによる世界支配に終止符を打った。

19世紀後半から、ヨーロッパとアジアの国際政治に、良きにつけ、悪しきにつけ強い影響を与えてきた日本とドイツが世界を相手として戦い、軍事的に敗北して一時期国際政治の舞台から下りた。

しかし、英国、フランス、オランダ等の西欧列強も米国の援助の下で名目的に戦勝国の座に着いたが、既に述べたとおり、その国際社会における政治的影響力を著しく低下させ、代わって米国とソ連が巨大な軍事力を背景に、国際政治の舞台の主役の座に着いた。

第2次大戦は、戦後のある期間日本とドイツを国際政治の舞台から、引きずり下りし、その役の全てを奪ったが、西欧もまた主役の座を失った。

中東方面に強い影響力を持っていた英仏の力が後退するとともに、アジア方面で日本軍によって、有色人種に対して白人が持っていた支配者あるいは御主人様としての権威が失意して各地に民族意識が勃興し、民族自決と独立国家樹立の機運が高まり、あじあ・アフリカ各地の、その後の歴史に微妙な影を投ずることになった。

パレスチナ地方も英仏の勢力衰退と米ソの登場により、第2次大戦後の歴史は大きな影響を受けた。

大戦中、ナチス・ドイツはドイツ本国だけではなく、その占領地でユダヤ人に対して激しい弾圧を加えたというよりは、老幼婦女子を含むユダヤ人を計画的に、情容赦なく大量に虐殺した。

シェークスピアの作品「ベニスの商人」に登場するユダヤ商人シャイロックはこの戯曲の中の主要登場人物中、ただ一人極端にいやな性格の人物として描かれ、悪役を与えられており、他の登場人物のアントニオやバッサニオ、その許婚者ポオシャ姫などがすべて立派な人柄に描かれているのと対比すると、ヨーロッパでは、ユダヤ人が各地で迫害されていたことは、想像がつく。

ただ、ヒットラーのように、ユダヤ民族を無差別に国家機関の手で抹殺しようとして、有名なアウシュビッツの強制収容所をはじめ各地の収容所で、大量に組織的に虐殺した例は、極めてまれな例である。

当然、ナチスの支配下に入ったヨーロッパ各地のユダヤ人の迫害を逃れ、パレスチナへのユダヤ人の移住は激増した。

また、移民の国アメリカでは、ユダヤ人の扱いは、この時代、日本や中国のような東洋系の人種に加えられた人種差別に比べれば無いに等しく、経済やマスコミの大きな部分をユダヤ人が制していた。

この米国在住のユダヤ人たちは、ナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺に刺激され、ユダヤ人が、流浪の民であることをやめて、自分自身の独立した民族国家を樹てることを目指して、活発な行動を起こした。

米国内で社会的影響力を持つ、ユダヤ人組織が当時の米国大統領のトルーマンはじめ、米国政府首脳に対して、世界各地で流浪の民としての生活を余儀なくされているユダヤ人と、ナチス・ドイツに弾圧されて各地の強制収容所に送り込まれたり、非難したりしているユダヤ難民の救済問題を解決すること、シオニストの目標達成を助け、可及的速やかにユダヤ人の祖国建設を実現することを働きかけた。

大国のアメリカが動き始めたことにより、シオニズム運動は加速されることになった。米国は1945年11月、米英合同パレスチナ問題調査委員会を現地へ送り込んだ。

調査委員会は、翌1946年5月、「ドイツ等にいる約10万人のユダヤ人の難民をパレスチナに移住させる。」こと、「パレスチナにおけるユダヤ人の土地取得の制限を撤廃する。」こと等を勧告した。パレスチナ統治は、従来は委任統治権を持つ英国の仕事であったが、この勧告は米英合同でなされており、しかも明らかに米国の考え方が色濃くにじみ出ている。

パレスチナ問題にも、大戦で国力を消耗した英国ではなく、大戦後の国際政治に大きな発言権を持つようになった米国が、大きな影響力をもって、かかわってきた。

パレスチナ在住の、アラブ人やユダヤ人の間には、この地が英国の委任統治領になって以来、反英感情がわだかまっていたが、大戦後は、反英闘争として顕在化しはじめた。

1946年5月の米英合同パレスチナ問題調査委員会の勧告を受けてから4箇月後の同年9月、英国はアラブとユダヤ双方の代表をロンドンに招き、円卓会議を開催することを提案した。しかし、ユダヤ人シオニストは出席を拒否し、一度は交渉のテーブルに着いたアラブ代表も、先に出された米英合同委員会の勧告に従って、「パレスチナにアラブ人とユダヤ人の連邦国家建設」という、英国の提案を拒否した。パレスチナ問題解決の方途を失った英国は、1947年2月、この問題を国際連合へ移管することを決定した。

移管を受けた国際連合は、1947年4月、パレスチナ特別委員会を設置し、委員の現地派遣を決定し、行動を開始した。

そして同年11月29日、国連総会は、「パレスチナ地方をアラブ人国家、ユダヤ人国家、イェルサレム特別国際管理地区に3分割し、1948年10月1日までに実現する。」という「パレスチナ分割決議案」を採択した。

この決議の採択は、米ソを含む33ヵ国が賛成し、13ヵ国が反対、10ヵ国が棄権するといった結果であった。

ソ連は必ずしもユダヤ人に好意的ではなくヒットラーのような虐殺こそなかったが、反ユダヤの動きがしばしばソ連国内には見られた。

当時のソ連にあって、絶大な権力を掌握し、血の粛清を行って、多くの反対の立場の人々を大量に処刑したり、僻遠の地へ追放して社会的に葬ってしまう等、後に厳しい批判を受けるスターリンも、ユダヤ人を嫌い、弾圧していた。

そして、このような国内の雰囲気を反映していたばかりでなく、中東に進出することをねらっていたソ連の国連代表団は、この総会に数箇月先立って開かれた、国連臨時総会では、アラブ諸国に歩調を合わせて、「分割案に反対し、パレスチナは統一国家として独立を達成すべきこと」を主張していた。

それだけに、この時、ソ連がパレスチナを分割する案に同意の票を投じたことは諸国を驚かせた。
この時のソ連の首席代表ヴィシンスキー外務次官は、「ヒットラーによって迫害されたユダヤ人が自らの祖国を持つことの人道的意義」を強調した。

国内のユダヤ人を以前から弾圧し、この後も弾圧しつづけ、独立後のイスラエルには一度も好意を示さないソ連が、このときだけイスラエル建国を支持した理由の深いところは、はっきりとしたものが今も明らかになっていない。

この頃、ソ連はイランのアゼルバイジャン州をイランから分離しようとして「人民共和国」を無理に作って失敗して不信をかっており、また一方では唯物主義哲学としての側面がイスラム教徒から嫌われるのか、マルクス主義が他の地域ほど中東の貧困の大衆に受け入れられなかったことも事実である。

中東地域に非アラブの、それもアラブ人の嫌う国家を建てることで一時はアラブの反感を買っても、反発を買うことにおいては、絶えずユダヤの立場に好意的であった米国や西欧諸国と同じ立場である。

イスラエルが一旦独立した後で再び反ユダヤの立場にもどれば、中東世界のアラブ民族主義に対抗して、この地域の既得権益を守るため、将来もイスラエルを支持しつづけるであろう米国や西欧諸国に対し、反ユダヤ、反イスラエルの姿勢を示すソ連が相対的に、アラブの支持を得やすくなる。

スターリンや当時のモロトフ外相がそこまで先を読んでいたという証拠はない。
しかし、以後の歴史をみると、ソ連はアラブ諸国の反イスラエル感情やイスラエルとアラブの4次にわたる戦争等を利用し、シリア、イラク、エジプト、リビア等と、かなり親密な関係を作り上げることに成功した事実がある。

パレスチナの地にイスラエルが建国せず、アラブ人の気に入った統一国家ができていたら、親ソ的な雰囲気は生まれなかったかも知れない。

逆に、米国や西欧に対する親密な雰囲気が常続的に存在しつづけたかも知れない。

歴史に「若しも」はないというが、イスラエル建国という出来事がなかったら、以後の4次に及び紛争はなく、別の形態の民族紛争や勢力争いが生起していたであろうことは確実に言えることである。

しかし、パレスチナの歴史は、この地にイスラエルが建国したという事実の上に第2次大戦後の流れを刻することになる。

1948年5月14日をもって、英国の委任統治は終了した。同日夕刻の16時、イスラエルの初代首相ベングリオンはテルアビブで宣言文を読み上げた。

この時のイスラエルのユダヤ人の人口は約65万で、パレスチナの全人口の約30パーセント、土地の所有は、パレスチナ全土の5パーセントあまりでやっと統計的に優位性が認められる程度の僅かなものであった。

しかし、この宣言の時を境に国連の決議によりユダヤ人の支配地はパレスチナの約57パーセントになったのである。しかし、ユダヤ人の人口は増大するわけでなく、圧倒的多数のアラブ人の中に孤立した国家であった。

後にイスラエルの首相になる、ゴルダ・メイア女史は、この年の春、米国を訪れ、米国在住のユダヤ人から5000万ドルの武器購入のための資金を得ていた。

しかし、老人、婦人、幼児まで合わせても約65万人という、ユダヤ人の人口はパレスチナに住むアラブ人の三分の一以下であり、パレスチナ周辺のアラブ諸国が、アラブの大義を旗印に攻撃して来たら対抗できるか否か、極めて大きな不安要素であった。

パレスチナ周辺のアラブ諸国による攻撃は、5月14日夕刻のイスラエル建国の祝典が終わるか終らないうちに、14日夜のエジプト軍の空爆を合図に開始されたという。

アラブ諸国軍の侵攻の報を受けた各地のユダヤ人たちは、建国祝賀の会場から、あるいは家庭や農場から、老若男女を問わず直ちに戦場に赴いたという。
子供も婦人も、老人も、「二度と再び流浪の民にはならない。」と、誕生して間もない、2000年間求めつづけた祖国の生き残りをかけて、死に物狂いの戦いを行った。
語り伝えられるところによると、ある場所では普通の主婦が、幼児を側の土のうの陰に寝かせて夫と共に戦い、年長の小学生が止むを得ない場合に大人を助けて、伝令、給食、小銃弾の運搬を手伝ったという。

通信兵の役割を担ったハイティーンの少女たちが、敵の機甲部隊の攻撃を受けつつあり、自身の周辺にも猛火が迫っていることを報告しながら、連絡を断った例も報告されている。

また、対戦車砲がないため高射砲の水平射撃で対抗した例もあったという。

65万人のユダヤ人のうち、幼児と病人以外は、ほとんど全員がユダヤ人のアイデンティティを強く抱いて、「負けたら自分たちは祖国を失い、また流浪の民になる。」と、必死に戦ったといわれる。

この戦いを第1次パレスチナ戦争と呼ぶが、イスラエルの独立をかけた戦いであるところから「独立戦争」とも称する。

この戦いの帰趨についてみると、イスラエルは国際連合が当初ユダヤ人国家として割当てた地域よりも面積にして約50パーセント広い地域を獲得して休戦したが、この結果はユダヤ人とアラブ人の戦闘能力や軍の強弱の差よりも、両者のモラルの差、特にリーダーのモラルと能力の差によってもたらされたといえよう。

もう一つ無視できないのは、ユダヤ人とアラブ人の教育水準の差がある。
祖国を持たなかったユダヤ人は国家の保護に依存できないので、自分の能力と富の力以外に頼るすべがない。
したがってユダヤ人たちの親は、可能な限り高い教育と厳しいしつけを子供に与え、幼児のうちから、「我慢して耐えること」と、「他人の力に依存しないこと」を徹底的に教え込むと言われる。

こういう気質のユダヤ人は兵器の操作法や指揮官の企図するところについての、飲み込みが早く、教育訓練の成果が短期間に上がる優秀な兵士の素質を持っていた。

また、「ここで負けたら祖国を失う。」という共通の危機感は、世代、性別、職業、信条のすべてを越えてユダヤ人の心を、見えないが、しかし極めて強い一本の糸で結びつけており、これがユダヤ人のモラルを高めたことは明らかで、老幼婦女子までもが勇敢に戦闘に参加したゆえんのものであろう。

このように、パレスチナをめぐるユダヤ人とアラブ人の対立は1948年5月15日以降、イスラエル対イスラム諸国の戦いという様相を帯びるようになった。

パレスチナの戦争は、1948年に戦われた「独立戦争」を第1次として以後、1956年の「スエズ戦争」、1967年の「六日戦争」、1973年の「十月戦争」というように4次の戦いが断続的に生起しているが完全な平和は、2015年現在まだ訪れず、中東地域は世界で最も不安定な地域の一つであるといってよい。

しかも、アラブ人以外のイスラム教の諸国、例えばパキスタン、バングラディシュ、マレーシア、インドネシアその他のアフリカ諸国にも、反イスラエル感情が存在し、国際政治や国際的行事にも影を投じている。

一例を挙げるならば、かって「アジア五輪大会」でジャカルタが開催地となったとき、インドネシアはイスラエル選手の入国を拒否したし、湾岸戦争のとき、これらアラブ以外のイスラム教国の大衆も、イラクのフセイン大統領が、パレスチナ問題と結び付けて、「アラブの大義」を説いた強引な論理に同調的であった。

パレスチナ現地ではイスラエルとアラブの撃ち合いは今はやんでいる。

しかし現在の見かけの平穏だけでは、国際政治に思いもかけない複雑な波紋を生ずる原因を温存していることになるので、早い解決が望まれる。

しかし、それは言うべくして困難なことであり、21世紀に長く持ち越されることとなった。

パレスチナの戦争概観

既述のとおり、1947年11月29日の国連総会で、パレスチナ分割案が採択され、イスラエル建国の根拠が与えられたが、この時国連に加盟していたアラブ6ヶ国は反対した。

またパレスチナ在住のアラブ人たちも当然反対し、ソ連が反対に回ることを見越したユダヤ人共産主義グループも「シオニズムに基礎を置く、ユダヤ人の国家を建設することに反対し、アラブ人とユダヤ人の階級的連帯による統一パレスチナの独立」を主張して、分割案に反対していた。

このパレスチナ分割案がソ連の賛成をも得て採択されると、翌年5月のイスラエル建国を待つまでもなく、パレスチナ内部でアラブ人とユダヤ人が武器を取って激しい争いを始めた。

ユダヤ人の過激派は、地下組織のハガナイやイルグンを作り、アラブ人はエジプト、シリア、イラクから志願兵の支援を受けて両社は武力テロを応酬し合った。

中でもユダヤ人組織のイルグンのテロは激しく、イスラエルの建国宣言を翌月にひかえた、1948年4月エルサレム近郊のデイルヤシンという村落を襲撃したときは、250人ほどのアラブ人一般大衆を惨殺し、パレスチナ在住のアラブ人をパニックに陥れた。
この事件は、アラブ人のイスラエルからの脱出のきっかけを与えた。

第1次中東戦争前後に、周辺のアラブ人国家へ逃げ込んだアラブ人が、パレスチナ難民として、今なおPLO等の下にイスラエルという国家を敵とみなし、イスラエルによって占領されている、パレスチナの地へ復帰することを主張している。

パレスチナ難民はアラブ人同士ではあっても、ヨルダンやシリア等の流入先で必ずしも、各国の市民として同化してしまうことをせず、難民キャンプにとどまり、子供や孫に対して、「出生地はここだが、故郷はパレスチナである。」という教育を反復し、パレスチナ難民のアイデンティティや反イスラエル感情は、世代交代や歳月の経過によっても、思いの外色褪せずに継承されている。

(1)第1次中東戦争(独立戦争)

ペングリオン首相がイスラエル建国の宣言を行った翌日の1948年5月15日、このようなパレスチナ内部のユダヤ人とアラブ人の争いは、イスラエル対アラブ諸国の本格的な戦争に発展した。

エジプト機の侵入は、建国宣言のあった14日夜にも伝えられ、アラブ諸国軍の侵攻は、時間の問題であったが、15日朝エジプト空軍のテルアビブ空襲を機に、地上からエジプト、シリア、ヨルダン、イラクの軍が一斉に、パレスチナに進軍を開始した。

兵力において圧倒的に劣勢なイスラエルはアラブ諸国軍に四方から圧殺され、誕生すると同時に消滅してしまうかと思われた。

ところが、エジプト、ヨルダン、シリア等の諸国が、パレスチナ進軍の際に、それぞれ違うことを考えていたことと、軍のモラルが低かったのに対して、イスラエルは既述のとおり、子供から老人まで、男女を問わず、事態の重大なことを認識しており、敗れれば流浪の民に戻るのだということを感じながら、死を決して反撃した等の事情が、戦争の帰趨を決定づけた。

まずヨルダン川の東から、アラブ人国家の領域として国連から割当てられたヨルダン川西岸へ進攻したヨルダン軍に変化が生じた。

ヨルダン川西岸に進攻してみたら、そこはヨルダン川の水利を生かした肥沃な農業地帯であり、ユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとっても聖地である、イェルサレムがある地域であった。

当時のヨルダン国王アブドゥラ王は、この地域をヨルダン領に加えることを考えた。そのためには、将来のことはいざ知らず、当面はイスラエルを抹殺してしまわずに、休戦し、休戦ラインという名目で実質的なイスラエル・ヨルダン国境を策定するのが最良の策である。

すなわち国連はヨルダンにパレスチナの地は寸度たりとも与えておらず、イスラエルを滅ぼせばヨルダン川西岸の占領地は、パレスチナのアラブ人に帰属させて、ヨルダン軍は撤収しなければならない。

アブドゥラ王は急遽イスラエルと秘密裏に交渉を開始し、翌年7月、アブドゥラ王は、ヨルダン西岸の大半を、休戦ラインの内側に収め、実質的なヨルダン領編入に成功した。

この第1次パレスチナ戦争で、後にイスラエル国防相として勇名を轟かせるダヤン少佐はシリア方面の戦線で火焔びんで戦車と戦いシリア軍撃退に大功を樹てていた。
一方エジプトと接するガザ地区の戦線に、後のエジプト大統領となるナセル少佐がいたが、ヨルダン方面とシリア方面の戦線が一応の目鼻がつくと、イスラエルの反撃はエジプト方面に集中し、一度は侵攻を許したネゲブ砂漠からエジプト軍を撃退し、ガザ地区やシナイ方面へ向かって逆に撃って出た。

結局エジプトは1949年2月、単独でイスラエルと停戦した。
ヨルダンは後のイスラエル首相となるメイア女史を相手に2回にわたる秘密交渉を行った末、前述のとおり7月に休戦を約したが、最も強硬に戦う意志を持っていたシリアもヨルダンと同じ頃、停戦した。

ところが停戦になってみると、ヨルダンはヨルダン川西岸を、エジプトはガザ地区を占領下に置き、イスラエルもアラブ人に割当てられた地域のかなりの部分を占領して国土の領域を、国連の当初の割当てた地域より約50パーセント拡張するという結果となり、パレスチナのアラブ人地区は事実において消滅してしまった。

イスラエルの支配下から周辺アラブ諸国へ逃れたアラブ人はパレスチナ難民となり、以後の世界の大きな問題の種子となったことは既述のとおりである。

この戦いの結果から見る限り、イスラエルというユダヤ人国家が、当初の国連分割案より、大きな領域を獲得して、独立国家として存続できたのに対して、パレスチナのアラブ人割当地区が消滅したので、第1次中東戦争(独立戦争)は、アラブ側が敗れたというのが一般的見方である。

(2)第2次中東戦争(スエズ戦争)

第1次中東戦争で、見かけの兵力が圧倒的だったにもかかわらず、アラブ軍が敗れたことについて、当時エジプト軍の少佐で参加していたナセルは、腐敗したファルーク国王らの政府の責任と考えていた。

当時のファルーク王は、歴史的にエジプト人よりも、アルバニア人やフランス人の血統を引いており、エジプト国民との間に精神的結合は極めて稀薄であり、国王という地位は、単に「富」と「権力」を手にする手段でしかなかった。

現在のヨーロッパやアジアに存在するロイアル・ファミリーは日本も含めて、長い歴史的経験の中で、その権力は名目的なものとなり、その一方で権力と権威を分離し、国家の統一、国民の精神的統合の中心としての象徴的権威として、「歴史の連続性」、「社会・政治・文化の継続性」・「統治機構の正当性」の面で、実際問題として共和政体では発揮することが非常に難しい機能を比較的容易に発揮し、政治的・社会的安定に優れた効用があると評価されている。

しかし、これはあくまでもロイヤル・ファミリーに政治的な実権を伴わない、議会制民主主義と和合した立憲君主制の場合である。

当時のエジプト、ヨルダン、イラク等の国王は、極めて強い政治的権能を有しており、しかもロイアル・ファミリーの歴史が浅く、国民の間に英国やベネルックス3国あるいはスカンジナビア3国、若しくは日本やタイのロイアル・ファミリーのような権威がなく、君主政体の有する長所よりも、短所ばかりが目立った。
ヨルダンだけはマホメットの血統ということをアピールしながら、王家を存続しているが、国王暗殺や国王と軍の争い等で、幾多の危機があった。

しかし、エジプトでは1952年7月23日、ファルーク王が、ナギブ少将を担ぐナセルらの自由将校団により追放され、1953年6月共和制となったが1958年7月14日にはイラクで陸軍のクーデターが起こり、ファイサル国王やイラー皇太子らが殺されて、王政が崩れた。

エジプトでは1954年4月17日、ナギブも権力の座を降り、ナセルが登場した。
ナセルは貧しい農民に土地を与えようと努力したが、エジプトには可耕地が乏しく、ナイル川の水を利用して大規模な農地造成が必要であった。

つまり大地主の土地を没収しただけでは、必要な農地の10パーセントぐらいしか充足できなかったといわれる。

ナセルはナイル川上流にアスワン・ハイダムを建設し、可耕地を拓くとともに電力もまかなうことを考えた。
ナセルは、このダムを建設するための膨大な資金を米国から調達することを考え米国も1955年12月17日7000万ドル供与を約束したが、エジプトの財政が極度に悪化していたことと、アラブ民族社会主義を掲げるナセルが、従来の西欧によるアラブ支配から急いで脱するために、ソ連と接近して武器の購入について交渉を持っていることが障害となった。
米国は「エジプトの財政の、特に外貨に関する発言権」と「ソ連圏との武器取引中止」を、資金提供の条件とした。

この条件は、エジプトの財政と外交への介入であり、主権の侵害になりかねないものであり、民族主義者でもあったナセルは、当然に拒否し1956年7月19日、米国は借款供与を撤回してしまった。だが、産油国でないエジプトは他にダム建設資金調達の方策がなかった。

しかし、ナセルは「ダムを自力で建設するためには、あらゆる手段を尽くす。」と語り、1956年7月26日「スエズ運河を国有化し、運河収入はアスワン・ハイダム建設の資金に充当する。」ことを明らかにした。
当時エジプトはスエズ運河会社から、運河収入の7パーセントを支払われているだけであり、ナセルの運河国有化宣言は、エジプト国民に熱狂的歓迎を受けた。運河の株の大半を保有する英仏は問題を国際会議にかけた上で、運河を国際管理して、収益はエジプトと折衷することを提示したが、ナセル大統領の国有化宣言の後では、いかにも遅過ぎた。結局、運河国有化は強行された。

英仏は問題を国際連合の場に持ち出して、国際化を図りながら、イスラエルと秘密裏に対応策を打ち合わせた。
10月29日、アジア方面からの物資輸入に支障を生ずることを恐れ、イスラエルがエジプトを攻撃し、運河地帯へ進撃した。
翌30日、英仏はエジプト・イスラエル双方に「戦闘をやめて運河の両岸から、夫々10マイル撤退し、エジプトは運河の通行を保障するため、英仏軍が運河地帯に駐留することを認めよ。」という、最後通牒を発した。イスラエルは直ちに受諾したが、エジプトは当然に拒否した。英仏軍はエジプトの拒否を理由として、10月31日から11月4日にかけて、爆撃してエジプトの空軍の機能を奪った上で、空挺部隊を運河地帯へ送り込んだ。

しかし英仏の行為は、米ソを含む多くの諸国から非難され、従来から英国と共同歩調を取ることが多かった、オーストラリアをも含む英連邦諸国すら反対し、国際的孤立の中で失敗に終った。

ナセルは戦闘そのものには大敗したが政治的には勝ったと評されているが、11月6日英仏と停戦し、11月15日には国連軍が紛争地帯に入った。英仏の勢力はこの戦いを機に、中東地域から一掃され、ナセルの威信は高まった。

そして中東地域は英仏に代わって米ソが直接、勢力をぶつけ合う地域になり、かつてのバルカンを思わせる、世界の火薬庫のような地域と化した。なお、アスワン・ハイダムも紛争が収束した後に建設され、「ナセル湖」と命名されており、ナセルはこの面でも実をとった。

(3)第3次中東戦争(六日戦争)

既に述べてきたところからもわかるとおり、イスラエルは建国の当初から「イスラエルという国家の存在そのものを認めず、世界地図からイスラエルを抹消するまで戦う。」と主張する、アラブ諸国に囲まれており、現在の国境というのは、休戦ラインでしかない。

このライン附近にはヨルダン川やガリレー湖、チベリアス湖などがあり、イスラエルにとってもアラブにとっても重要な水資源の供給元となっていた。

ところが、アラブ諸国にとっては、自分たちがヨルダン川等の水利を自分たちに好都合に使うことは善いことであるが、イスラエルに好都合を与えることは、不善をなすに等しいことである。いきおい水利権の確保に際しては、相手に対する思いやりなどの配慮があるわけもなく、水路の付け替えなどについての事前の調整なども行われない。イスラエルが入植開拓の精力を傾注しているところの上流で、シリアは勝手にシリア・ヨルダン方面へ水路を変更しようとし、イスラエルが爆撃でこれを阻止するということもあった。

ヨルダン方面でも1965年から翌年にかけてアルファタなどのパレスチナゲリラに対しイスラエルのテロが頻発し、イスラエルの報復テロも盛んに行われた。

1966年11月、ヨルダン占領下のヘブロン附近の3ヶ村に対して、イスラエルの激しい報復があり、国連安全保障理事会もこれを非難したが、この時のヨルダンの対応がイスラエルに甘かったという、批判がアラブ諸国から起こった。

パレスチナゲリラは、この機にエジプトが立って、第3次の対イスラエル戦争に入ることを期待したのであるが、ナセルは動こうとしなかった。パレスチナゲリラは、ナセルの持つ権威に正面から挑むことができないので、その不満をヨルダンに向けた。

パレスチナゲリラに国境警備が怠慢だったと批判されたヨルダンは、エジプトやシリアこそヨルダン川西岸を犠牲にして、イスラエルと妥協しようとしていると反論した。

特にエジプトに対する矛先は厳しく「スエズ戦争以来シナイ地区に駐留している国際連合軍に庇護されて、ぬくぬくとしている。」と批判した。当時、エジプトがチラン海峡とガルフ湾のイスラエルの利用を取り締まらないことに対する、アラブ諸国の批判もありアラブ世界におけるナセルの人気に陰翳が生じかけていた時であったから、ヨルダンの批判に対してナセルは何らかの行動を起こす必要を感じた。

当時も今も、イスラエルの背後には、米国があって陰に陽に助けているが、このような米国の動向に対して中東に勢力を展張しようとしていたソ連は対抗上からもイスラエルに反対し、アラブを助ける姿勢が目立っていた。

ナセルの権威が低下する気配が見え、アラブ諸国間にも微妙な亀裂が生じかけたのを見たソ連は、ナセルに武器援助を約して、イスラエルに強い態度をとるよう煽ったと伝えられる。

事実、エジプトに向けて第3次中東戦争の前後に、ソ連の大型輸送機が高高度でトルコ上空を横断して武器を空輸したらしいことが指摘されているが、発覚すれば国際法上の問題になりかねない行為であった。また、イスラエルが鹵獲したエジプト軍の兵器はソ連製が大半であったことも明らかになっている。

ソ連の後ろ盾を得たナセルは、1967年5月18日、ガザ地区とシナイ半島から国連軍を撤収するよう、国連に要請した。当時のウ・タント国連事務総長は「この結果、パレスチナに戦火が再燃する懸念が大きく、エジプトの要求は遺憾である。」との意志を表明しつつ、この要請に応じた。ウ・タンと事務総長が懸念したとおり、国連軍撤収後の空白をうめるように、パレスチナゲリラが流入してきた。

イスラエルは、シリア、ヨルダン、エジプトの3方面をパレスチナゲリラに包囲された恰好となった。アラブ諸国やソ連の動向から見て、各方面からのイスラエル同時攻撃の可能性が出てきたが、そのことを恐れたイスラエルは先制攻撃を決意し、1967年6月5日戦端を開いた。

兵力量で圧倒的に劣勢だったイスラエルは6月5日午前7時45分を「H-hour」として練習機を含む、航空兵力の約90パーセントを11ヵ所のエジプト空軍基地攻撃に指向した。ソ連製軍用機で装備を固めていたエジプト空軍も大半が地上で破壊され、開戦第1日で空軍力の80パーセントと地上施設の多くが喪失し、空軍としての機能を奪われた。

シリア、ヨルダンも航空基地を集中的に破壊されたが、その結果地上からの官制や誘導に依存するところが大きく、推測航法をはじめ、搭乗員個人の航法能力の低い、当時のアラブ空軍は無力化してしまった。

短時間で制空権を確立したイスラエルは、地上戦でも戦果を拡大し、エジプトの戦車約1000台のうち70パーセントを破壊または鹵獲し、兵員についても戦死約1万1000人、捕虜約6000人の損害を与えた。戦車を含む各種の武器・装備品がイスラエル軍に奪われ、エジプトは地上でも戦力の約80パーセントを喪失したと伝えられ、イスラエル軍はスエズ運河の東岸に至るシナイ半島全域を占領した。

イスラエルはヨルダン川方面でも約4万5000人のヨルダン軍を壊滅させ、ヨルダン川西岸のパレスチナ・アラブ人地区全域を占領した。ヨルダンは第1次中東戦争で、アブドウラ国王が手中に収めた地域をすべて失い、ヨルダン川東岸の本来のヨルダン領内へ退いた。

シリア方面ではシリア軍約3万人が全滅して、ゴラン高原はイスラエル軍に占領された。

開戦6日にして決着がついたこの戦争を、「六日戦争」とも称するが、エジプトのナセル大統領は、大敗北の責任をとって辞任を決意した。しかしエジプト国民のナセルに対する信頼は厚く、自然発生的な「ナセル辞任反対」の大衆運動が起こり「ナセルよ、我々を見捨てるのか。」とプラカードを押し立てた大群衆の声の前に、ナセル辞任は撤回された。

当時来日中のエジプト人女子大生も「我々はナセルのやり方に満足しているわけではない。しかし、誰が祖国のために命をかけているかを、我々は知っている。」と述べている。

この戦争の後、ナセルはソ連に接近し、ソ連に軍事基地を提供し、非同盟政策は放棄された。

(4)第4次中東戦争(十月戦争)

ヨルダン川西岸の地域を失ったヨルダンは、イスラエルとの間に勝利の見通しの立たない戦争をいつまでも続けて、戦いがヨルダン川東岸にまで及び、ヨルダン本来の国土が戦場になったり、イスラエルの保障占領下に入ることを恐れねばならない状態となった。

また、ヨルダン国内の政治的安定のためにも、パレスチナゲリラの組織であるPLOがヨルダン領内に存在することは望ましくなかった。
ヨルダンはPLOをシリア、レバノン方面へ武力で追放し、ヨルダン・PLO間が険悪になった。ナセルは両者の調停に努め、停戦協定を妥協させたが、その翌日、過労のため心臓発作で急死し、サダトが後継大統領となった。

1970年にナセルの後を継いだサダトは、ナセルと比較すると、権威において及ばなかった。当初、ナセルが既に受諾していた米国のロジャース提案に従って、イスラエルに目立った軍事行動を控えていたが、自己の権威を強め、立場を固めるためにも、秘かにシナイ半島の失地回復の機をねらっていた。

1973年10月6日はユダヤ教のヨム・キプール(Yom Kippur)という祭日で、ユダヤ人の多くは断食中であったといわれる。この日、エジプト駐在の各国駐在武官も気付かなかったといわれるほど、厳重に企画を秘とくして、演習を装ったエジプトとシリアの軍は、イスラエルの奇襲を行った。

強硬姿勢が目立っていたシリアには、イスラエルも備えていたが、シナイ半島方面ではエジプト軍の奇襲が成功した。

しかしエジプト軍の補給線が伸びるにつれて、大部隊の進撃速度は鈍化し、イスラエル空軍機による対地攻撃は、砂漠では対艦航空攻撃と同様に有効に作用した。

10月10日以降、イスラエル軍は守勢から反撃に転ずる。シャロン将軍率いるイスラエル軍3個師団が、スエズ運河を渡り、スエズ・シティーを占領し、エジプト軍主力の後方を断ち、シナイ半島の砂漠地帯に孤立させることに成功したとき、形勢はほぼ逆転した。

結局、アラブが奇襲によって緒戦に獲得した、見せかけの勝利が崩れないうちに、停戦合意がなったので、エジプトはシナイ半島のエジプト本来の領土を回復し、4次にわたるパレスチナをめぐる、イスラエルとアラブの戦いで、唯一つの「アラブの勝利」と喧伝された。

しかし、この戦いの後、一時的に勝利に酔ったエジプトで、長い戦いに大衆は倦み疲れ、国内の食料不足をはじめとする消費経済の貧困に対する不満が街頭におけるデモンストレーションとなって表れ、エジプトに政策変更の端緒を与えた。

この戦いでは、アラブ産油国が石油を武器として、米国、ヨーロッパ、日本等に対してアラブ支持を強く求める、いわゆる石油戦略を発動して、国際政治に大きな影響を与えた。

戦術的には、イスラエルが海上戦闘でミサイルを用いたことと、航空作戦において見せた巧妙な電子戦が目を引いた。

先述のようにこの戦争を機に、エジプトは従来の政策を変更して国内経済を建て直し、パレスチナをめぐる戦いに倦んで、ともすれば社会不安を起こしがちな民心を収束させるため、貧しいソ連よりも豊かな米国へ接近した。

そして米国の周旋によって、イスラエルと講和し、米国の資金とイスラエルの技術の供与を受け、ナイル川の水をサイフォンでスエズ運河の下を通してシナイ半島へ導き「シナイの緑化」、「シナイの農地化」に着手した。

一方、ヨルダンも先述のとおり、戦火がヨルダン川の東岸へ波及することを恐れて、既にイスラエルと戦う意欲が大幅に低下していた。

パレスチナをめぐる戦争は、エジプトとヨルダンが当面イスラエルと戦う気持ちに欠けるので、米国の影響力の下に、戦争によらぬ手段で解決される可能性も出てきた。

強硬派のシリアも一国でイスラエルと戦う力はないので、パレスチナは不安定要因をはらみながらも、暫時平穏を保つことが予想された。

 レバノン紛争

先に、ヨルダンがPLOを国外追放し、彼らがシリア、レバノン方面に逃れたこととナセルの調停でヨルダンとPLOの停戦したことについてふれた。

レバノンはフランスの手を離れて独立した後、徹底した中立策をとり、繁栄してきた。

その結果、PLOのレバノン国内での存在や活動も、一切を黙認する姿勢をとることとなった。
だが、PLOがイスラエルに対するテロ活動を計画し、レバノンから行動を起こすことを容認することは、シリアやヨルダンと単に休戦しているだけのイスラエルから見れば、国際法上は明白なアラブへの加担という見方が可能である。

そのような問題点を内包した微妙な状況下にあった1972年、ミュンヘン・オリンピック大会の選手村で、多くのイスラエル選手がPLOのテロで生命を失った。イスラエルのテロ対策は、「テロによって受けた損害は必ずそれ以上に大量のテロで報復することによって、相手に思いとどまらせる。」というものである。

イスラエルはレバノンの首都ベイルートにあるPLO本部に特殊部隊を送り込み、白昼この大量報復を行い、多数のPLO幹部を殺害した。

周知のとおりレバノンは宗教のモザイク国家であり、フランスがレバノンを独立国にして立ち去るときに、キリスト教徒優位の政治・行政システムを残して行った。しかし総人口に占めるキリスト教徒の比率は必ずしも多数派ではない。

そこで、妥協策として大統領以下の要職を宗派ごとに、次のように割り振った。

「宗派による要職一覧表」
大統領 キリスト教マロン派
首相 イスラム教スンニー派
副首相 キリスト教ギリシャ正教
国会議長 イスラム教シーア派
同副議長 キリスト教ギリシャ正教
国軍総司令官 キリスト教マロン派
国軍参謀総長 イスラム教ドゥルーズ派

ところが、キリスト教徒はユダヤ教に対して、歴史的理由により好意的であり、イスラエルに同情的で、PLOのテロ活動に反発していた。

そのためイスラエル特殊部隊がベイルートで白昼、PLO本部を襲撃してPLO幹部を多数殺害しても、ある種の共感を抱いて、これを眺めていた。

つまり、キリスト教徒の大統領も国軍総司令官も、この事件を傍観して取り締まらずに見逃そうとした。

これに激怒したイスラム教徒のサラーム首相は、大統領とゲイネム国軍総司令官に対して、イスラエルの報復行為をやめさせる措置をとるように、あるいは要請し、あるいは命令を行ったがいずれも無視された。

サラーム首相はこれに抗議して辞任したので、政府部内は分裂して政情不安となり、たちまちレバノン全土で、宗派を背景とした争いが起こった。

争いはキリスト教徒とイスラム教徒の争いの様相を呈し、この争いにPLOが加わってきた。

将校の多くがキリスト教徒のレバノン国軍は、PLOを武力攻撃して、イスラエルと同様の立場に立った。ここに至ってレバノン国内の騒乱は、本格的内戦へ発展した。国内の破壊は徹底的なものとなり、社会は混乱を極めた。いずれの宗派も勝たずしかも負けず、統治能力を持った勢力が育たなかった。

つまり革命やクーデターであれば、好悪の別はさておき、一応統治組織というものができる。すなわち国家としての要件である、「領土」、「国民」、「統治機構」と「国際法を守る明白な意志」がとにかく存在するが、レバノンの場合は統治機構の存在が有名無実となり、国際法順守どころか、国内の法的秩序すら喪失してしまった。

欧米の政治学者や評論家の中には、レバノンのこうした状態を「国家の死滅」という言葉で表現した人もいる。

このような無秩序状態のレバノンに、隣国のアラブ強硬派で知られる、シリアが軍事的に介入し、キリスト教徒優位の体制は形骸化した。
これをイスラエルから見ると、イスラエルに好意的なキリスト教徒が支配する、極めて安全な中立国だった隣国が、最も危険なシリアの同盟国に化したことになる。
国際法上も、イスラエルとシリアは休戦はしているが、準戦争状態であるから、シリア軍の大々的な介入と駐留を容認しているレバノンは敵性地域となる。

レバノンの中立性は否定され、イスラエルは、シリアに準じて緊急避難や正当防衛のための武力行使を、シリア軍が所在するレバノンの各地に対して発動することは、ある程度許容される。

この許容される限度は、結局イスラエルが判断することとなる。1982年、遂にイスラエルはレバノンに武力介入して、レバノン国民の意志に関係なく、もっぱらイスラエル対シリアという形の戦いが断続し、レバノン紛争は発端となる事件から20年有余の歳月を経ても未解決の状態となった。

イラン・イラク戦争

1975年、イランのパーレビ―国王とイラクの当時の副大統領(後のフセイン大統領)、との間で締結された「アルジェ協定」は、従来シャトル・アラブ川のイラン側の岸にあった、両国の国境を、イランがイラク国内のクルド族の反政府活動を支援しないことを条件に、同川の中央とすることを約するものであった。

国際法の原則に拠る限り、この国境線変更は当然であるが、イラクの立場から見れば、イランに対する譲歩であった。海に面した良港を持たず、ペルシャ湾への出口をシャトル・アラブ川に全面依存しているイラクにとって、この国境線変更に対する不満は相当に大きかった。

ところが1978年12月、パーレビ―国王の近代化政策が失敗して、反国王デモが激化し、翌1979年1月にパーレビ―王朝は崩壊し、フランスに亡命していた、イスラム教シーア派のアヤトラ、ホメイニ師が帰国してそのカリスマ性のもとに、イスラム共和国へ変質した。

ホメイニ師の反近代化政策ともいえる政治により、イランの国軍の装備や将校の質は低下し、インテリ階層は大量に国外へ逃亡した。1980年1月にイランは米国大使館人質事件を起こし、米国はやがて国交を断交してしまった。

イラクのフセイン大統領は、イランは政治的にも軍事的にも弱体化したと判断し、9月に国境線をアルジェ協定以前にもどすだけでなく、シャトル・アラブ川のイラン側でアラブ系住民が多数居住している地域を要求してイランに侵攻した。

しかし、イランはホメイニのカリスマ性の下で、国民が犠牲を顧みず善戦した上、イラクに協力すると思われたアラブ系住民も、イランが、イスラム教とアラビア文字をアラブ人と共有していたため、世代交代を重ねてイラン人と自然に融合しており、イラク軍に冷淡であった。

一時はイラン領内に約50キロメートル進攻したイラク軍は、ホルムシャハルを陥し、アバダンを包囲したが、補給線が伸び切ると、次第に押し返され、1981年9月、アバダン攻略をあきらめて、包囲を解き、1982年6月にはホルムシャハルから撤退して、自国領内へ退却した。

イラクは急遽、停戦を提案したが、イランはフセインの辞任と賠償を条件に示して、これを拒否し、逆にイラク領へ侵入し、一時期50キロメートル侵入したが、イラクの化学兵器使用により再度、国境付近に押しもどされて膠着状態となった。

その後イランは、財政悪化と国際的孤立による苦境を打開するため、高齢のホメイニのカリスマ性が利用できるうちに急遽停戦を約したが、講和条約は交渉が難行した。

ところが1990年8月、イラクがクェートに侵攻し、国連安全保障理事会では、ソ連を含む諸国がイラクのクェート侵略に対して、武力を含む制裁措置を決議し、アラブ諸国の中にも、多国籍軍に参加する国が出る状況となり、急遽シャトル・アラブ川の中央を国境とすることでイランと講和した。

双方で百万人ほどが死亡し、多くの財が失われたイラン・イラク戦争は約10年を経て、戦争前と同じ国境線とすることで、決着した。

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