戦争の原因・永世中立の概念・安全保障の考え方

※1991年頃に作成された原文の一部(何年などの表現を加えるなど)修正をして掲載しています。

戦争の原因

第1次大戦から中東の現状までの戦争の因果関係を概観してきた。フォークランドやペルシャ湾岸の戦争は、別の機会に、稿を改めて個々に述べてみたいと考える。

ここで、今までみたところをもとに、戦争の原因と結果について、包括的に考察し、これから我々が日本の安全について考えるべきことについても論じてみることにする。

戦争とイデオロギー

まず、戦争の原因についてであるが、第2次大戦が、たまたま日本、ドイツ、イタリーという反共産主義、国粋主義の色彩が濃く、議会制民主主義が未成熟な国と米英仏等の戦いであったため、学者の中には、これを「民主主義と独裁主義の戦いであった」と、単純に言う者がいる。

またマスコミ一般や国民の中にも、1947年3月に始まった冷戦の期間が約40年も続いたため、イデオロギーの対立が戦争を引き起こすと、観念的に考える風潮ができ上がってしまった。
そして東西対立がなくなれば世界は平和になると、単純に思い込む傾向が、当時の日本にかなり瀰漫していた。

しかし、第2次大戦初期の1941年8月、当時の米国大統領ルーズベルトは大西洋上で巡洋艦オーガスタに英国首相チャーチルと会談した際に、「今、ヨーロッパで戦われている戦争は、一義的にナチス・ドイツの侵略にその責めがある。
しかし第1次大戦終了時、ウィルソンの14箇条に則って、民族自決の原則に従い植民地をきちんとした形で、精算しておけば、この戦争は発生しなかったのであり、その点では英国にも責任の一端がある」と述べた。

このルーズベルトの言葉はすでに紹介したところであるが、ルーズベルトの指摘を俟つまでもなく、第2次大戦をファッシズム対民主主義の戦いなどというように説明して、得々としている日本の学者の姿勢は、いかにも浅薄で恣意的である。

第2次大戦に先立つ10年前に、世界大恐慌が生起し、この対応策をめぐり植民地を持っている諸国のブロック経済政策と、日本やドイツ、イタリーのような持たざる国が衝突したのが戦争の発端であり、西欧の経済ブロック形成には米国も自由競争原理を主張する立場から、当初は反対していた。

後に、ヨーロッパに対抗する立場から、汎米経済ブロックを形成したが、米国は本質的には自由経済支持で一貫している。
ルーズベルトは、大西洋上の会談の後で、チャーチルとの共同宣言で、大戦後に大英帝国の植民地を独立させることを、約束させている。

因みに東南アジアや西アジア、中東方面で、大戦前に欧米の植民地や保護国の地位に置かれず、主権国家としての地位を保っていたのは、タイ王国だけであり、アフリカでは、米国の肝入りで建てられたリベリア以外に、原住民が独自の政府を作り、主権国家の地位を保っていた国はない。
まして、欧米と対等に行動する自由を確保していた非西洋国は日本だけであった。

大戦後の世界も、東西のイデオロギー対立の時代としてのみとらえるのは、極めて皮相的であり、つまるところは、東西対立も大国の国家利権や勢力圏をめぐる対立が根本にあるのである。
基本的には、かつての英仏の七年戦争(1756~1763)や、日露戦争(1904~1905)、あるいは大戦前の独英や独仏の対立、ロシア・トルコの対立、旧連合国と旧枢軸国の対立、中ソ対立等と第2次大戦後の東西対立は本質は変わらないのである。
たまたま旗じるしに西側は自由主義を、東側は社会主義を掲げただけのことである。

人間同士の争いであるから、米国流プラグマティズムとソ連流のコミュニズムの対立感情が存在していたことは否定できない。
しかし、それだけであれば、文化交流や経済的交流の面で、多少の違和感を抱くだけであり国家間の深刻な対立にまでは発展することはない。
イデオロギーや宗教の対立だけで戦争になるとするならば、東洋と西洋、仏教国とイスラム教国、キリスト教国はお互いに絶えず戦う必要がある。

現実には、国家利益や勢力圏獲得をめぐる、生臭い対立が生じ、これが政治的対立に発展し、民族的対立感情のおもむくところにより、暴力やテロが発生したり、強者が弱者をねじ伏せる態度に出た時、戦争を誘発している。

日本の一部には、「武力を全面放棄して、平和的話し合いに徹すれば、戦争に巻き込まれない」という主張がある。
すなわち国の安全保障政策の中の、軍事的な分野には、意図的なまでに神経質に否定的な反応を示し、「軍事力は弱ければ弱いほど、それは限りなくゼロに近いほどよい」とする極めて無邪気な情緒的な考え方である。
しかし、歴史的事実に照らす限り、この考え方は百八十度現実に反しており、自信をもって「誤っている」と断定しても、嘘つきにはならない。

つまり二度の大戦に限らず、弱小国家は、自国の運命を自らの意志によって決定できず、強大な勢力の意志によって、自国の運命について決定されてしまうのが歴史の常であった。

戦争と法規の限界

現在、「日本は世界に先がけて平和憲法を作った。この憲法の理念を守ってゆけば、日本は平和だ」という素朴な平和希求の考えがある。
その典型的な市民活動の一例として、6年前(1985年頃)の初秋の頃、大要、次のような内容の手紙を次々と知人に送って、平和主義の輪を広めようとしている婦人や当時70代の老人を中心とするグループの存在を知った。

① 平和憲法を絶対に守る。② 憲法を守れば武器は要らない。兵士は要らない。軍備は永久に拒否する。③ 戦争犠牲者に軍人も民間人もない。軍人、戦犯を祀る靖国は要らない。すべての戦争犠牲者への補償と戦争責任の明確化を求める。④ 万一、再軍備、徴兵実施となれば、我ら腕を組み眉を上げて、敵戦車に向かって立つ。その轍の下に果てる。孫や子の生命に代えて、毛頭悔いることはない。

以上の4項目を見ると、平和を希求する心根は立派だが、直ちに次の点を質問してみたくなる。

つまり、日本国憲法は確かに平和主義の精神によって作られている。
しかしこの程度の内容なら、1928年8月27日にパリで調印され、1929年7月24日に発効し、日本も参加しており、一般に不戦条約と呼ばれる「戦争放棄ニ関スル条約」の第1条と第2条に盛られている。

すなわち第1条(戦争放棄)に

「締結国ハ紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」と規定し、第2条(紛争ノ平和的解決)に「締結国ハ、相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ、其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ、平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス」

と規定している。

しかし、この条約の精神は、1929年に端を発した、世界的大恐慌とこれに引きつづくブロック経済政策のもたらした、諸国間の対立の前には、あまり活かされなかった。

まして日本の国内法でしかない日本国憲法を守ることの反対給付として、日本に平和を与えてくれる外国は一つもないであろう。

また、「戦車の前に腕を組み眉を上げて、敵戦車に向かって立ち、その轍の下に果てる」というような、日本古来の自殺の美学に従うよりは、「バズーカ砲や対戦車用武器を整備し轍の下に果てなくてもよい道を講ずる」のが正しい現代の常識に合致したありようである。

また永世中立や平和主義を国是として維持していれば、平和国家たり得るか、歴史的事実を検証してみよう。

永世中立の概念について

「永世中立国」とは国際法上どのようなものか確認してみると、ある国が国際条約によって戦争を行わないことを約束するとともに、他の締約諸国から、その独立と領土の尊重を約束されている場合に「永世中立国」と言い、その条約を「永世中立条約」と称している。

過去の事例の永世中立国は、強大な数箇国が弱小な国を中立とする、一種の集団的安全保障関係の形をとる。

ウエストファリア条約のころから、国際社会における勢力均衡(Balance of Power)の諸政策を反映し、ある戦略的重要拠点をめぐり、強国の利益が対立するような場合に、その地域を緩衝国にして、対立を柔らげることをねらって、永世中立国が置かれた。

つまり、ある程度以下の小規模な国でないと、国際的に中立が認められにくい側面があった。次に永世中立国の具体例をみることにする。

歴史上に見る永世中立国

1802年、ナポレオンが台頭してきた時代のフランスとイギリスの間に「アミアン和約」が成立した際、「マルタ島」を英国、フランス、スペイン、プロイセン、オーストリア、ロシア等の諸国によって永世中立化することが企てられたが、結局プロイセンとロシアが批准しなかったので実現はしなかった。

ナポレオンは、この2年後の、1804年には皇帝になり、フランスだけでなく、ヨーロッパ大陸に広く彼の威光は輝いたが、英国とロシアが彼の意のままにならなかった。1805年英国を征伐しようとはかったナポレオンの企図は、トラファルガーの海戦で、フランス・スペイン連合艦隊が、ネルソンの率いる英国艦隊に大敗したため、挫折した。

しかしその後も、彼はアウステルリッツの戦いなどで勝利を収め、1806年7月にはライン同盟の盟主となり、962年以来つづいていた神聖ローマ帝国を解体する等、大陸における武威は衰えなかった。しかし1812年、モスクワ遠征を企て、冬将軍のため失敗した彼は遂に覇王の座を降りた。

ナポレオン以後のヨーロッパをどうするかを議したウィーン会議で、1815年、スイスを永世中立国とすることを、英国、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシア、スペイン、ポルトガル、スウェーデンの8箇国が承認した。

これが世界最初の永世中立国の例である。
スイスの地理的位置が、軍事上戦術的、戦略的に比較的重要な場所にあり、且国土全体が険阻な山岳地帯にあって、しかもそれほど広大ではない。
そして資源地帯でもない。

その上スイス人は、勇敢で独立の気風も強く、外敵と断固戦うであろうから、簡単に外国がスイスの中立を侵犯することもできない。

永世中立国スイスは、その周辺にあるヨーロッパの強国にとっても、信頼できる緩衝国として、価値の高い存在となった。
少なくとも、スイスを軍事的に攻撃したときに払うかもしれない犠牲と、スイスの永世中立を保障して緩衝地帯としておくことによって得られる利益を天秤にかけた場合の解答は明らかで、以後のスイスは、二度の大戦にも永世中立国としての立場を守り抜いた。

1830年、ベルギーがオランダから分離独立したが翌年、ロンドン条約により、英国、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアがベルギーの永世中立国としての地位を承認した。1839年ベルギーの永世中立は再確認されている。ロンドン条約は、1867年にルクセンブルクの永世中立を、英国、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシア、ベルギー、オランダが承認し、追加した。

中立国の変質

1870年ごろまでの永世中立国は、諸強大国の立場から、緩衝地帯としての機能を期待されて設定されていたといってよいであろう。そこには強大国家の意志が強く作用しており、それだけに永世中立国の地位の保全は、強国によって、積極的に守られた

ところが、近代以後の強国の対立が、世界的規模で分割や勢力圏をめぐる争いの様相を呈しはじめると、強国間の争いに巻き込まれたくないという、小国の側からする永世中立の主張が目立つようになり、かえって永世中立国が本来もっていた、国際紛争の緩衝装置としての機能は失われ、積極的な存在意義がなくなった
すなわち強大国の側に、何の利益もない中立の主張は破られやすい。

例えば1885年、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割の時代に、ベルリンで開催された「コンゴ会議」で、ベルギーはコンゴ自由国の永世中立を主張したが、この主張の担保国はなく、宗主国ベルギー王国のみが認める「永世中立国のコンゴ自由国」であったので「不完全な中立」と言われた。

また1907年、ホンジュラスの永世中立宣言があり、1919年にはアイスランドがデンマークから分離した際に、永世中立宣言を行った。
しかし、国際的な承認や保証はもちろん、国際会議場で意志を表明したわけでもなく、一方的な宣言であり、国際法上も中立国として認められていない。

近代以後、永世中立国が積極的な存在意義を失い、弱小国の保身のための、担保国のない、一方的中立宣言や中立国にしてもらいたいという主張が目立つようになったが、これはあまり守れない中立である。
国際関係が複雑になった20世紀において戦われた第1次及び第2次世界大戦は、永世中立国の存在に、いくつかの問題点を提議した。

たとえば、1830年来承認されていたベルギーとルクセンブルクの永世中立さえも、第1次大戦の際、ドイツによって侵犯された。
ベルギーは、1885年のコンゴ自由国の永世中立に担保国が得られなかったこと及び第1次大戦で長い間保障されてきた永世中立が侵犯された事実に鑑み、自ら進んで、ヴェルサイユ条約第31条、サン・ジェルマン条約第83条、トリアノン条約第67条、ロカルノ条約および1926年のパリ条約で、ベルギーの永世中立を廃止した。

ルクセンブルクについても、大戦中に中立侵犯を行ったドイツがまず永世中立の終了に同意した。連合国もヴェルサイユ条約第40条、サン・ジェルマン条約第84条で、ルクセンブルクの将来について、永世中立国であるのか否かの協定を作ると約束した。

ところが、その協定は作られないままに経過したため、ルクセンブルクは成文法的には、「永世中立国の地位」を保ちつづけている。

しかし、現実において、「永世中立は終了した」と認められており、NATOにも加盟を認められた。
国際的には成文法よりも事実たる慣行に基づく慣習法が優先することは珍しくはない。

また第2次大戦後、国際連合を含む国際的組織が発達し、国家以外に諸国の権利・義務の関係を律したり、国家の行動を制約する団体が国際社会の秩序や規律の維持に大きな機能を発揮するようになった。

このように国際社会が組織化されると、永世中立の意義が相対的に変化する。
たとえば、スイスはヴェルサイユ条約第435条で、「永世中立国」であることを再確認された。ところが、その後国際連盟に加盟した際、連盟規約第16条の「侵略国制裁協力義務」への対応に苦慮した。

国際法上の中立国の概念と、制裁措置への協力が矛盾するためであるが、第2次大戦後の国際連合による集団安全保障制度は永世中立の概念を一層変化させた。つまり、国際連合設立時、原加盟国の間で「国際連合の活動を国際連盟の時よりも強力に実りあるものとするために、加盟国は国際連合の決定対して、中立の態度は許されず、協力すべきである」という声が強かった。

特にフランスは、「中立国は国際連合に参加できない」ことを国連の規約に明示すべきだと主張したほどであった。これに対してソ連が、国連設立の趣旨や他の規約により当然のことで、わざわざ明示するまでもないと言ったので、フランスの主張は文字にはならなかった。

しかし、こういう、やりとりが大国間であった事実そのものが、永世中立国の国際連合への加盟を不可能にする。
スイスは国際連合に加盟していないが、事実上拒否されているという方が妥当であろうう。

国際連合憲章は、国際紛争は国際の平和及び安全と正義を危うくしない方法で、平和手段によってのみ解決されるべきことを定め、武力の脅威または行使を禁止した。国連加盟国は、国連が憲章に従ってとる行動について、国連にあらゆる援助を与えなければならないことになっている。

中立国の義務

従来、世界のどこかで戦争が始まると、他の諸国の中に、中立宣言を発する例が多かったが、国際法上は中立宣言の義務はない。一般に中立宣言は、自国民に対して中立義務に違反する行為に出ないよう示達する主旨のものであるとされている。

したがって宣言を出したから、中立が保障されるとか、中立国の地位が安泰になるというものではない。中立国の地位が安泰であるためには中立国の義務を守ることが必要である。
中立国の義務には「避止の義務」、「禁圧の義務」及び「容認の義務」の3種類がある。
「避止の義務」は「回避の義務」とも言われ、中立国政府自身が交戦国を援助しない義務のことを指す。
「禁圧の義務」は「防止の義務」とも言われ、中立国がその領域内で、交戦国が戦争遂行に役立つ行為をすることを禁圧する義務である。
「容認の義務」は「黙認の義務」とも言われ、中立国の行為が、交戦国のいずれか一方に対して有害となる行為になることを防止抑制するために、交戦国が一定の防止抑制手段をとる場合、これを容認する義務である。たとえば中立国船舶の臨検捜索、封鎖侵犯、戦時禁制品輸送、軍事的ほう助等の理由による拿捕等の措置を容認する。

ここで中立に関する条約の規定について、概観してみよう。

  1. 陸戦に関連する主要規定
    1. 交戦国軍隊の領土内通過の禁止
    2. 軍事通信機関の設置・維持の禁止
    3. 交戦国戦闘部隊の領土内編成の禁止(但し、個人が義勇兵等に応募したり商取引で兵器等が輸出されるのは合法)
    4. 交戦国の戦時禁制品の領域内通過の禁止
  2. 海戦に関する主要規定
    1. 中立国の主権侵害排除
    2. 中立国領域内に捕獲審検所設置禁止
    3. 中立国領域内で、敵対行為に参加すると認められている船舶艤装、武装の防止
    4. 中立国政府自身による軍用資材供給禁止
    5. 交戦国軍艦の同一港湾へ同時に3隻以上入港の禁止
    6. 交戦国軍艦の滞在期限24時間以内
    7. 双方の交戦国軍艦が同一港湾停泊時の同時出港禁止(48時間以上時間差をつける)
    8. 交戦国軍艦の修理は航海の安全に関するものに限定し、戦闘力増加に関するものは一切禁止
    9. 捕獲戦の中立国港湾への引致禁止
    10. 中立国領域内における強力行使禁止
    11. 中立国領域内の中立違反事象防止義務
    12. 違法な交戦国軍艦の抑留
  3. 空戦に関する主要規定
    1. 交戦国軍用機の中立国管轄区域内への進入禁止
    2. 交戦国への中立国政府による航空機及び同部品等供給禁止
    3. 攻撃可能状態の交戦国航空機の中立国管轄区域内からの発信禁止
    4. 一方の交戦国に通報する目的を有する中立国管轄区域内からの空中偵察の禁止

以上、中立国が戦時に課せられる主要な義務を概観したが、これらの義務には、多分に軍事力の裏づけを要するものもある。
しかし、中立国がその権利を守るためにとった実力行使は、国際法により交戦国側で、これを非友誼的行為と認めることはできないと規定されている。
すなわち、中立国が中立維持のために、兵力またはその他の手段を用いて、強力に対応しても敵対行為とは認められない。

それどころか必要な対応をせず、中立国に課せられた義務を怠ると、中立国としての資格が否定されて、交戦国が敵性地域として、公然と武力を行使し得る地域になることもある。

たとえば、ベネルックス3国やバルカン諸国は第2次大戦中、ドイツの占領下に入った。ドイツの軍事占領下に置かれることは、これら諸国が望んだものではなく、多少なりとも、各国は抵抗したが、降伏したことにより、その国土はドイツが全面的に自由に軍事的利用が可能な地域となったわけである。
すなわち、連合国側から見れば敵国ドイツの支配下に置かれた敵性地域であり、国際法上公然と武力を行使できる地域になったことになる。
つまり一方の交戦国に降伏したり、征服されたりすると、他方の交戦国から見れば実質的には最も忠実な敵国の同盟国であり、敵国の一部とみなされることを覚悟せねばならない。

中立国を軍事的に侵犯するなどという蛮行は、ファシストの国だけがやるのだと、戦後の日本では、主として社会主義の立場の人が、マスコミ等を利用して主張していた時期がある。だが、スカンジナビア3国のうち、ノルウェーとデンマークはドイツに軍事占領されたけれども、ドイツ占領に先立ち、イギリスがノルウェーに小部隊を上陸させたり、同国沿岸に機雷を敷設したりしている。
ドイツの全面的軍事占領という、より大きな事象の前に、かすんでしまっているが、国際法上は重大かつ容易ならざる行為であり、この事実をノルウェーが英国に対して、黙っていたとすれば、ドイツ側から見れば、ノルウェーは利敵行為をしていたことになり、中立国としての要件の一部を欠くことになる。

また、1991年の夏になって、半世紀ぶりに独立を回復してソ連邦を離脱した、バルト3国が、ソ連に併合される際の発端は、ドイツとソ連の密約があったことが最近明らかになっている。
しかし、既に主権国家として存続している三つの国を、併合するためには、ソ連も相応の手順を踏み、合法を装う必要があった。
当時のソ連外相モロトフは先ず、「バルト3国の領海内でソ連の船舶が、国籍不明の艦艇から不当な強力行使を受けた」と抗議を申し入れた。そして追い打ちをかけるように、「同様の不当な強力行使が続発しており、バルト3国には中立国の義務を遂行するに足る軍事能力がないので、ソ連軍がバルト3国の安全を守ってやる」という主旨の申し入れを行った。

当然、3国の政府当局は拒否したが、遂に、ソ連の恫喝に屈して、ソ連軍のバルト3国進駐は強行された。そしてソ連軍の武力を背景として、3国の共産主義者たちが政治の実権を握り、「ソビエト連邦への参加」を希望し、ソ連はこれを承認するという形で、バルト3国のソビエト連邦への併合を完成した。
しかし、常識的に、自立し得る能力を有する主権国家が、主権を放棄して、他の民族の構成する連邦への参加を希望するというのは、極めて不自然なことである。この不自然なことが、行われた裏に、

  1. 独ソという当時の強国が、当事国の意志に無関係に、密約を交わしてバルト3国をソ連に併合せしめたこと、
  2. 併合に至る口実に、バルト3国の中立国の義務不履行が用いられた

という2点は、日本国内の一部に存在しつづける、「非武装中立論」に大きな疑問を呈するものである。

また、第1次、第2次の両大戦時、植民地が宗主国と共に直ちに戦争に巻き込まれたこと、一方の交戦国に占領された中立国の領域は他の交戦国から敵性地域として空爆のみならず、地上戦を含む攻撃対象地域となったこと、東南アジアや中国、ソ連などは、日独両軍に占領された地域が、味方であるべき宗主国や母国の軍隊の攻撃対象地域となったことなどを想起するならば、一時期ロンドン大学の日本人客員教授の三島氏が提唱した「戦わずに斉々と降伏する」方法は、最も危険な、降伏することによって、降伏した交戦国の最も忠実な同盟国となることである。すなわち姿を変えた同盟政策である。

外交と軍事

ここで、歴史の修羅場をくぐり、しばしば運用の妙を見せることの多い英国の例をもって、外交と軍事の冷厳な事実を見てみよう。

英国の外国政策は一口でいうならばヨーロッパに、自国より強力な国家が存在することを抑えることであり、もし戦いがあれば、「勝ち馬にかけ」自国の国家利益を、最悪の場合でも現状維持とすることをねらい、時には「冷酷」とか「無節操」と思われることを、敢て行う。

たとえば、1740年から1748年まで戦われた、「オーストリア継承戦争」のときは、フランスとプロシアの力関係を横目でにらみ、プロシアが強大になることを防止するため、オーストリアの女帝マリア・テレジアを支援した。
ところが、マリア・テレジアが1756年から1763年にかけてプロシアに割譲したシレジア地方の回復をねらいプロシアと戦いを行った「七年戦争」では、オーストリアをフランスが助け、プロシアが敗れそうな情勢となると、苦境に陥ったプロシアのフリードリッヒ大王を助けた。
そしてついでに植民地をめぐりライバルだったフランスに対して、優勢な海軍力を利して、各地で多くのフランス領植民地を奪取した。

第2次大戦後の日本では、勝敗にかかわらず、対外的戦争のすべてを悪として描くが、英国の教科書では、対外戦の勝利は誇らかに、「Won]と表現している。

また、ナポレオンがヨーロッパ大陸で覇を唱えていた頃、デンマークの艦隊がナポレオンの麾下に入るのを恐れて、デンマークの艦隊を英国の力の下に入るよう要求し、拒否に会うと「緊急避難」の名の下に、攻撃し壊滅させた。くどいようだが、この時デンマークは英国の敵国ではなかったのである。

また第2次大戦時、フランスがドイツに降伏してヴィシー政府ができると、英国は直ちに、今まで味方同士だったフランスの艦隊を、北アフリカのダカールやオランで急襲して、フランスの戦艦ダンケルク、ブルターニュ、プロバンスを撃沈、英国やエジプトの港にあったフランス軍艦を武装解除してしまった。
しかも、これらの英国の行為は国際法上は合法的である。だが戦後、情緒的、観念的に戦争を捉え、センチメンタルに考える風潮の日本では、「恐ろしい」とか「残酷」といった、否定的な受け止め方しかされないであろう。

しかし外交の実相は、強い者同士を噛み合わせてその力を減殺し、勝ち馬にかけて国家利益を守り、国際法上許される限りの手段を尽くして敵の戦力の増大を抑えるのである。
一歩引き下がって譲歩すれば相手は十歩出ようとし、お世辞を使ったり御機嫌をとれば、更に相手は尊大になり、弱くなれば強者が奪いに来るのが、国際政治の実相である。
強者が弱者を助けるのは国家利益の足しになるときだけである。ちなみに湾岸戦争で、クウェートが有数の産油国でなかったら、あれほどまで諸国は助けなかったかも知れない。
国際政治は決して正義の論理だけではなく、国家利益に関する損得勘定のバランス感覚が、より多く働くものであることを、しっかり認識してかかる必要がある。ただ行為が正義の名においてなされているに過ぎない場合が多い。
まして理念や理想をいくら主張してみても、現実から著しく遊離していては、現実主義や実用主義に重きを置く諸国に対しては説得力を欠く。米国、中国、ヨーロッパ諸国は、考え方においては、日本に較べるとより現実主義的であり、実用的である。

法規に対する諸外国の考え方

既に述べたところでも、部分的にふれたと思うが、文明国は常識的に、成文若しくは慣習のいずれかによる憲法をもつが、その憲法の中で、国際法を高く位置づけており、国際法の格式は、憲法を含む国内法の権威を上まわり、国際法と国内法が競合する事象が生じたときは、国際法の考え方を尊重するのが、当然とされている。
憲法は国内法であるから、他国に影響を及ぼす力がない。世界という見地から見ると各国内のいわばグランドルールのようなものだから、国際法を尊重するのが当然なのである。

ヨーロッパはソ連のヨーロッパ部分を除くと、中国全土よりも狭いといわれるが、その範囲に、30箇所ほどの大小主権国家が存在しており、平時は国際列車も普通に運行している。弁護士や判事も国際法の概念を頭の一隅にとどめながら仕事をするといわれるほどで、日本の法律専門家が、まったく国際法の概念を欠いたまま仕事ができ、国際関係論の学者が、国際法上の存在を無視して、講義したり論文を発表したりできるのとは大いに環境が異なる。
しかも現実に国境を接し、地続きで人や物が往来する状況下では、学者の抽象的な言葉だけの論理や、官公署の言葉の辻褄合わせ主義者の独りよがりの主張などは、何の意味もない。議論やそこから導かれる結論は、具体的かつ現実的で、実用に耐え得るものでなくてはならない。

国際法の解釈運用も、極力国家利益を損なわず、しかも国際協調を崩さないように頭を使う。

アメリカ大陸も、ヨーロッパの植民地であったアジア・アフリカの諸国も、法規の解釈は、かなり柔軟で、多分に判例主義的である。

第2次大戦後、従来は法の解釈運用が硬く、法文の中の文言にこだわることの多かったドイツが、世代交代を重ねるうちに、いつしか比較的柔軟な解釈をするようになり、湾岸戦争の後、ペルシャ湾掃海やクルド難民保護のためには、ドイツの憲法に相当する国家基本法の規定では、NATO諸国の範囲までしか、軍を出せないにもかかわらず、停戦後の人道目的のために貢献する部隊を、基本法の規定の外の区域まで出したが、異を唱えたものは少数派であった。

日本では柔軟な解釈運用や慣習法的な考え方を「日本は成文法の国だ。」とか「慣習法的運用は際限もなく拡大解釈を許すことになる。」と、非常に硬い旧プロシア流の解釈を主張する人がいる。
だが、世界史で見ると、柔軟な、例えば英米法流の国では、市民の常識の範囲で、法というものが現実的、実用的に運用され、むしろ法の悪用が防止され、望ましい歴史をたどっている。
例えば、ナチス・ドイツの第三帝国は、民主的なワイマール憲法の原理を悪用し、ヒットラーに「授権法」という、法規を作る権限を多数決で与えたことにより誕生したといわれる。慣習法にドイツ人が長じていれば、絶対に防止できたはずである。

つまり、慣習法は市民の常識や、しきたりが優先し、簡単に多数決で改めることはできないからである。

日本も他人事ではないのであって、昭和初期、大日本帝国憲法の第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあったのを、海軍軍縮条約締結をめぐって軍令部が反対したときに、政友会の鳩山一郎が「軍令部が反対するものを無視して政府が調印するのは、統帥の大権を干犯するものだ。」と、当時の与党民政党に対する政争の具に利用した。
鳩山代議士は東京帝国大学でドイツ法を学んだので、直ちに文字解釈による、このような論理を思いついたのであろうけれども、以後の軍は「統帥権」という錦の御旗を振りかざし、遂に政府の制御不能な組織と化した。

要するに、国際法の権威は日本国憲法第98条の第2項にも認めているところであるから、国際法優位の一元論というセンスをもって国内法を解釈運用し、国際政治の動きに照らして、どのように内外の法規を柔軟に活用するかという、慣習法的な考え方に熟達することを要する。
残念ながら明治維新以後の日本人は、ドイツ法の法文解釈に学び、これを使いこなすよりも振りまわされて、統帥権を暴走させ、第2次大戦後は、米国の強い影響下に英文法の感覚に基づく憲法を作ったにもかかわらず本場のドイツ人が既にやめている、極めて硬いプロシア流の法解釈により、国際問題への対応や国家や公的機関の行う行事や儀式を、ぎこちないものにしている。

戦争を含め、国際間のことは国際法で処理されることはいうまでもないが、国際法の渕源は「条約」、「慣習」が二本柱で、これに「法の一般原則」を加える説もある。
いずれにしても硬直した文字解釈は、国際社会で通用しないことは明らかである。

例えば、「不戦条約」の前文は、当時の世界で強国と目されていた、米国、英国、ドイツ、日本、フランス、イタリー等を網羅した60箇国が参加して、作成したもので、平和に対する理想が盛り込まれていた。
すなわち、

「人類ノ福祉ヲ増進スベキ其ノ厳粛ナル責務ヲ深ク感銘シ、其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ関係ヲ永久ナラシメンガ為、国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ、率直ニ抛棄スベキ時期ノ到来セルコトヲ確信シ、其ノ相互関係ニ於ケル一切ノ変更ハ平和的手段ニ拠リテノミ之ヲ求ムベク、又平和的ニシテ秩序アル手続ノ結果タルベキコト、及今後戦争ニ訴ヘテ国家ノ利益ヲ増進セントスル署名各国ハ、本条約ノ供与スル利益ヲ拒否サラルベキモノナルコトヲ確信シ、其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ国ガ此ノ人道的努力ニ参加シ且本条約ノ規定スル恩沢ニ浴セシメ、以テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ、玆ニ条約ヲ締結スルコトニ決シ、之ガ為左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ。」

という文言には、日本国憲法の文言とも共通した表現が見られる。

本条約の第1条と第2条は既に紹介したがこの前文を併せ読むとき、「不戦条約」は日本の憲法起草の際に参考にされたことが、十分想像できるほど、日本国憲法の前文と第9条に似ている。
日本ででは第2次大戦後、この条約のもつ非現実的な理念や理想が、頑迷なまでに文字解釈的な条文解釈をもって受け入れられ、唱導されている。
しかし、既述のとおり、この条約は、あまりにも理念や理想に燃え過ぎたせいか、守られなかった。
ちなみにプラグマティズムの国アメリカは、この条約があまりにも理想的に理念を追い、多分に現実性を欠いており、国家の基本的権利の一つである「自衛権」までも否認しかねない点に配慮し、提案時、大要次のような内容の「アメリカ合衆国政府公文」を発した。
すなわち「不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限または毀損するなにものも含むものではない。この権利は各主権国に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている
各国は、いかなる場合にも、また条約の規定に関係なく、自国の領土を攻撃または侵入から守る自由を訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ。」というものである。

かつて、日本占領軍の最高司令官として、オール・マイティーで日本で最高権力を振った、マッカーサー元帥が、1950年(昭和25年)元旦、日本国民に与えることをねらって発表した年頭の所感の中で、「日本は自衛権を有する。」と述べたくだりがある。
朝鮮戦争は約7箇月後の6月25日であり、フルシチョフ回想録では、4月に北朝鮮とソ連の間で、南へ進撃する合意がなされたということであるし、北京政府すら直前まで、そのことを知らされていなかった事実に照らし、このマッカーサー発言は、朝鮮戦争等とは無関係である。また英米法の感覚に立てば、こじつけでもなんでもない。
まさに、自衛権は国家固有の権利であり、そのことはすべての条約に暗黙裏に含まれているのであって、まして国内法たる憲法に、どのような規定があろうと暗黙裏に自衛権にかかわることは、肯定的に含まれているのである。マッカーサー元帥は、そのことを言ったのである。

これからの安全保障の考え方

既に述べたところであるが、現代の日本には「東西対立が終ったから平和になる。」、「ソ連は最早、力を失い脅威ではない。」等、大変楽観的な論調が行われた。
あるテレビの男女アナウンサーが、ニュース番組で平成4年度から、防衛大学校が推薦入学を実施することになったが、男女ともに大変、狭き門だったことを報じ「東西対立が終り、世界が平和に向かっている時に……」と、半ばしたり顔で批判するような、半ば呆れたような顔でコメントしていたが、今後は一切、安全保障機構は不要であるかのような、この手の論調が目立つ。
外国では常識的な、安全保障は重要であるから機構や制度は常時整備し、兵力のみを必要に応じて伸縮させるという考え方が、この男女のテレビ・アナウンサーにも欠けている。

東ヨーロッパの、ポーランド、ルーマニア、チェッコ・スロバキア、ハンガリー、ブルガリアに東ドイツを加えた諸国は、第2次大戦後の四十数年間、マルクス主義というイデオロギーのたがをはめられ、とにかく共通の哲学を持ち、ソ連という巨大な力の統制下に曲がりなりに秩序を保ってきた。

ところが、マルクス主義という共通の価値観の尺度がなくなり、ソ連という巨大な統制力も取り除かれてしまった。
一見して言えることは、「東ヨーロッパは第1次大戦前の多数の民族が対立したり、連合したりしていた、不安定な状態に戻った。」ということである。

東ヨーロッパ諸国相互間には複雑な、領土を奪った奪われたとか、支配した支配されたという、歴史的、民族的対立感情がある。
ハンガリーはチェッコ・スロバキア、ルーマニア、ユーゴースラビアとの間に対立感情があり、ポーランドはソ連の白ロシア共和国やバルト3国の一つのリトアニアに、ルーマニアはソ連のモルドバ地方に、微妙な感情を抱いている。
ドイツも現在は要求しないと約束しているが現在ポーランド領になっている、旧東プロシアの地方やロシア共和国に併合され、カーリングラードと呼ばれている旧ケーニヒスベルクについて、微妙な感情がある。

こういう微妙な対立感情は、世代が交代して、かえって激しくなる場合もあり、東ヨーロッパは不安定要因が多い。

またユーゴースラビアも、小さな民族国家が連邦を構成していたが、かつてオーストリア・ハンガリー帝国とトルコ帝国が接触していた地域であり、歴史、言語、宗教、文字等が異なる多民族の寄り合い所帯で、まとまりにくい要素が多い。

中東地域やアフリカ、西アジア方面はヨーロッパ諸国間の談合で決定されたものが多く原住民の歴史や生活文化に対する配慮は、ほとんど払われていない。
そのような地域では不自然な国境をめぐり、部族間の対立や国家間の対立が生じ、恰もパレスチナ紛争やイラク・クウェート間のもめごとに起因する、湾岸戦争のような争いが生起する可能性が、比較的高い確率で残される。

この種の紛争は、米ソのような大国やヨーロッパの旧宗主国の力が強い間は、そうした力が抑止力として作用するが、大国や旧宗主国の影響力がなくなったときに、顕在化しやすいといってよいであろう。
しかも、喧嘩のとめ男役の大国の存在がないため、紛争は長引き、各地に慢性的不安定状態が現出する可能性がある。「東西対立がなくなったから、世界は平和になる。」とは、いかにも皮相的な、軽率な台詞であり、自ら歴史をひもとき、世界の流れを考察することを億劫がる怠惰な姿勢を反映しているものである。
また、ソ連の現状を見て、ソ連をあなどる者がいるが、例えソ連が解体しても、約2240万平方キロメートルという巨大なソ連邦の面積の約70パーセントを占めるロシア共和国は、997.6万平方キロメートルの国土を持つカナダ、959.7万平方キロメートルの中国、936.3万平方キロメートルの米国等と比較しても、断然大きな面積を有する大国である。
人口においても、ソ連は1991年現在、約2億7000万人であり、この約50.8パーセントがロシア人である。埋蔵資源も豊富であり、あなどれるような国ではない。

一世代約30年経過した21世紀の初めには、ロシアを中心とした強国として復活する可能性もある。
その時は国境を接する中国や、ベーリング海峡をへだてて向かい合う米国にとっても、また他の地続きのヨーロッパ方面でも新たな対立を生ずる、大勢力として再生する可能性がある。

ただ、かつてのような膨張主義は、国策として採用しにくく、権益や影響力をめぐる勢力争いとしての様相をとる公算の方が強いであろう。
つまり、その頃は現在発展の途上にあって、国内の近代化が遅れている、アジア諸国が、ある程度後進性を脱却しているであろうし、国際機関の発達が、膨張主義を許さないであろうからである。
国際政治は複雑に波打っているものだということを、マスコミを含めて、日本人は強く認識すべきである。単純に軍縮だから、あるいは東西冷戦が終ったからと、現在この瞬間、瞬間の事象に踊ったり、ムードに酔ったりして、日本程度の国家なら当然常備兵力として保有すべき、現在の自衛力を否定したり、安全保障のための組織や政策を根こそぎ否定することは、軽率あるいは国際感覚の欠如という批判を免れない。

国家の歴史を2年か3年で終焉に導こうというのならともかく、自国の永続的繁栄を望むなら、当然歴史的経験に学び実効ある、具体的な安全保障策を、常に視野に置くべきである。
センチメンタルかつ情緒的な小学生の発想なら「軍備に頼らぬ安全保障政策」や「非武装中立でみんなと仲良く」という論を展開することも許される。
しかし、国際的に信頼されるよう貢献もし、かつ実効ある、具体的安全保障政策を行うには、軍事力の裏付けは不可欠である。
世界は、まだ当分、決して一方づいて安定化の方向へ、歴史の流れが生ずることはない。
ことさらに危機感を持つ必要はない。しかし「平和だ!」と浮かれて油断してはならない。「ぎょっ」としたり「はっ」としたりすることが、まだまだ多発するであろう。
日本をして無頼の輩を横目で見ながらびくびくする弱い老幼婦女子のように、他国の慈悲にすがって身の安全を保つような国にしてはならない。それとは逆に無法者が遠くから、ペコペコして愛想笑いをし、手出しどころか、口をきくのも遠慮して、視野の範囲内では悪事をなすことを憚るくらいが、地一番よろしい。

事実、第1次大戦の時もそうだったが、第2次大戦でも、弱小国家は中立が保てず、強さを持った国だけが中立を保ち得た。

例えば、スイスは48時間以内に60万人の兵員を動員できる国で、国家や地方の制度が、ただちに軍事組織として機能し得るようになっていた。すなわち、州知事や市町村長が、直ちに、「連隊長」、「旅団長」、「師団長」となり、予備役として各地に、軍の階級を持って生活している市民が日頃、個人貸与されている武器をたずさえ、制服を着用して召集されるや、たちまち軍隊の組織が機能し始める。

常備兵力としては、教育訓練に当る者や基幹要員として、僅かな者しかいないが、国民皆兵の徴兵制度の長所を活用し、48時間で60万人の大群を編成できる体制ができていたのである。

また、小銃を含む個人の装具一式が個人貸与され、各市町村長の下で、「大隊」や「連隊」規模の部隊が極めて迅速に編成されてしまうという制度が特に有効であった。第2次大戦中この大軍を議会が任命したアンリー・ギザンという元帥が統率して、遂に中立を守り抜いた。

ナチス・ドイツも「例え奇襲で落下傘部隊を降下させても、スイスの各家庭に訓練された壮丁が武器を準備して待ちかまえている。すなわち各農家の庭先に降下したら、そこに武装兵が待ち受けているという状態は尋常ではない。」という判断により、スイスの中立を侵犯しなかったといわれる。

スペインの場合は、ヒットラーやムッソリーニらと指導者フランコが、政治的信条は酷似しており、かつて内乱のときは非常に助けてもらったが、フランコは大局的に判断し、ヒットラーによる参戦の誘いは、丁重に断った。これが許されたのは、スペインが、いわゆる弱小国ではなかったからと言えよう。

ちなみにベネルックス3国は、中立を望みながら侵攻を受けた歴史的教訓に基づき、第2次大戦後フランスと共に、集団安全保障の方策を協議し苦心していたが、戦争に疲れ切ったこれら諸国の苦労ぶりを見かねた英国が手を貸して、「小さな同盟」とも俗称された、「経済的、社会的及び文化的協力並びに集団的自衛のための条約」すなわち「西洋ブルッセル条約」を、1948年3月17日に締結した。

この締結の時とほぼ時期を同じくして、チェッコスロバキアでクーデターと言ってよい手段で、共産党が政権を奪ったため、米国の対ソ不信は決定的となり、冷戦は、激化した。

そして米国がヨーロッパの安全保障問題に本格的に乗り出し、1949年4月4日、西ヨーロッパの大半と北アメリカが一体となって、NATOが結成され、これにはベネルックス3国同様、中立を願いつつ守りきれなかった、デンマークとノルウェーが、歴史の体験に基づき、加盟した。

以上のように弱小国は、戦争に巻き込まれたくない一心から、一生懸命に中立の道を探り、努力するのだが、力の裏づけがないとそれが不可能であるというのが歴史上の事実である。戦争の初めと終りを眺めてみると、そこには、どろどろとした国益の対立があり弱小国は自分の意志によらず、大国の意志によって、ある時は中立を維持し、ある時はそれを犯されている。

最後にもう一度、重要と考える事項を繰り返して言っておこうと思う。

それは「歴史的事実に照らすと、国防力が非武装に近いほど、戦争に巻き込まれる可能性が大きくなる。また卑屈であればあるほど、国益を失う。そして国際慣習や条約にうといほど、国家として軽蔑される。」ということである。
さらにもう一つ、付け加えるなら、「日本は資源の乏しい、米国のカリフォルニア州よりも小さな国土に、約1億2000万人がひしめき、一歩誤れば、約1億人餓死しかねない国であり、辛うじて、加工貿易でこれを回避しているという脆弱性を持った国だということを、忘れてはならない。」ということである。

日本は明治維新以後、第1次産業製品を輸入し、付加価値をつけて輸出して、経済的基盤を固めながら、消費経済を豊かにしてきたのであり、海外との交通路が脅かされたり、重要な輸入物資が入らない状態となれば、直ちに豊かさは失われるという弱点は常に存在する。決して孤立してはならない国であり、日米安保も軍事、経済の両面から考えるように心がけねばならない。

日本の人口と、経済の大きさは、国内で自給自足できる規模をはるかに越えている。
かつて、ある政党の幹部が、「湾岸戦争への対応をめぐり日米関係が悪化しても、その時は厳粛にその事実を受け止めるべきだ。」と述べた。
平和に徹しよう、平和に殉じようというその心は尊いが、第2次大戦末期から終戦直後の、輸出入が全面的に止まったことにより生じた、現在の日本では想像できない物不足と貧困を想起するとき、同意しかねる考え方である。
しかも当時より日本の人口が約4000万人ほど増加し、高齢化も進んでいる現在、日本と米国の関係悪化は、日中、日ソ、日欧関係にも悪影響を及ぼし、日本人の生活を想像以上に大きく破壊するであろう。

また孤立し、混乱して弱体化した日本は、それだけ戦争に巻き込まれやすくなるのであり、「米国の極東戦略に巻き込まれるな。」と日米関係を粗略に扱うことは、かえって危険な状態を作ることになる。私のこの結論は頭の中の理論ではなく、歴史の教空の示すところにより導かれるものである。

国際社会では「あいつは馬鹿だが、いい奴だから、大目に見てやろう。」ということはない。馬鹿やお人好しには相応の低水準の社会的ステータスと生活が強要される。びくびくして頭を低くすればその分、相手は尊大になり、踏みつけられ、謝れば文句なく謝った方が悪者と判定される。沈黙し、主張しなければ、万事了承したものと理解され、義理人情による手心は、一切ない。こういうことをしっかりと認識し、国際関係の動きをよく観察し、間違っても負け馬に賭けないことと、自分の権利や主張を明確にし、強い敵に対しては強い味方を作って対抗することが必要である。

日本人にしか分らない情緒的な平和論を唱える人は、「こういう主張」を危険だというであろう。
しかし国際関係にあっては、「こういう主張」こそ、常識的であり安全なのであって、国際関係について、日本人の経験が豊かになるにつれ従来、わが国で唱えられつづけてきた、センチメンタルな、そして情緒的な平和論が次第に力を失い、ペルシャ湾への掃海艇派遣が実行され、PKO参加や国際緊急援助隊への自衛隊参加の国会の審議にも、日本国内の反対世論は、かつてなく弱い。平和目的のための自衛隊の海外派遣は、極めて近い将来のことになってきたようであるが、日本国民が国際的になればなるほど、外国人の感覚が理解され、当然、前述の「こういう主張」が、安全かつ現実的なものとして、受容されるはずである。

第2次大戦後、約半世紀を経た今日、日本人がようやく悪い夢から醒めて、現実的に対応する姿勢を示し始めたのは、喜ばしい。

※1991年頃に作成された原文の一部(何年などの表現を加えるなど)修正をして掲載しています。

戦争の始まりと終わり 12345678
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