序章 戦争の始まりと終わり

 1990年8月2日に、クウェートに侵攻し、クウェートを自国の一州として併合することを宣言したイラクは、国際連合安全保障理事会の警告した撤退期限の1991年1月15日になっても、遂にクウェートから撤退せず、1月16日朝から多国籍軍は国連決議に従って武力行使を発動した。

 日本には第2次大戦後の反動で、大変情緒的な絶対平和主義論が、終戦時に10代の後半以上の年齢だった人々を中心として、学者や女性の中に、根強い勢力を保っている。

 この考えに拠って立つ人は、「軍」とか「武力」という言葉自体を頭から否定し、その意義を評価することはもちろん、論じたり研究したりすることすら、意図的に排除する。

国際連合は、憲章の規定により国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な陸海空軍の行動を執ることができる。
この行動は加盟国の陸海空軍によるデモンストレーション、封鎖、その他の行動を含むことができるとされている。

 しかし日本の絶対平和主義は、国連の行うものであっても、武力や兵力の使用は一切否定し、平和交渉やアピール以外を認めない。

 日本以外の世界がどう行動しようと、日本が戦争に巻き込まれたくないから、武力と名のつくことや軍事には一切の参加も関与もしないというものである。

この立場に拠って立つ、ある政党の婦人幹部はその主張の中で、「多国籍軍支援に対して、90億ドル追加支援を行わない道を選択したことが、日米関係を悪化させるというなら、それを平和国家であり続ける上での大きな試練と受け止めるのが至当である・・・・」と述べたが、この言葉はただちに一人の女性評論家によって奥様向けテレビ番組の中で引用された。

だが安全保障理事会の常任理事国の中で、中国が棄権した以外は、米国、英国、フランス、ソ連が賛成し、アラブ諸国の中にさえも多国籍軍を派遣する国もあって、国際連合加盟国の圧倒的多数の支持を受けている行動を、日米関係だけに矮小化させてみようとする姿勢は正しくない。

「国連安保理事会の決議に加盟国は同意し、受諾する」ものとされているからである。
そのためスイスは永世中立国の立場上、国連加盟を見合わせているのであり、加盟国には中立は認められないというのが、五大常任理事国を含む各国の常識となっている。

だからフランスの社会党出身大統領である、ミッテラン氏も、武力の発動をためらわなかったし、世界の大きな潮流は、「イラクのクウェート侵攻に対して、平和のキャンペインや和平交渉のみで対抗しようという考えは、既成事実を作り上げた侵略者を利するだけである」という考え方の上に立っている。

かつて英国の著名な哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)は、第2次大戦以前から、絶対平和主義者を自負していた。

しかし、第2次大戦の初期1940年5月15日にオランダが、28日にはベルギーが対独降伏し、6月17日にはフランスも対独降伏したが、ダンケルクの敗北と相まって英国本土が危うくなったとき、彼は大要次のように述べた。

 「私の平和主義は英国本土が外敵に侵されることは絶対にないという前提の上に立っていた。だが今や祖国は外敵の侵攻によってその本土を失うかもしれない危機に立たされている。私は戦うつもりである。たとえその犠牲がいかに大きく、苦しみが長くとも・・・・。」

同じころ、その年の5月11日に内閣を引き継いだばかりのチャーチルが、目の前で対岸のフランスがドイツ軍の手に陥ちて行くのを見ながら6月4日ダンケルクの敗退により危殆に瀕した、祖国イギリスの厳しい運命を下院の演説で訴え、「海岸で戦い、内陸で戦い、野原で、街路で敵を迎え撃ち決して降伏しない」という強い決意を示していた。

 チャーチルはこうも言っている。「英国の人々は平和を望むのあまり戦わねばならない相手に宥和策をとり、しなくてもよい大きな戦争を善意のうちに引き起こし、払う必要のない大きな犠牲を払った」

「絶対平和主義」という考えは、個人の主義思想としては、人間一人一人が心にとどめておいてもよい理想的かつ夢幻的な美しいものであり、またそれが語られるとき、美酒のように口あたりがよく神仏の声のように耳ざわりがよい。

しかしひとたび現実の国際政治の場においては、熱効率100パーセントの理想的熱サイクルや、永久機関を設計しようとするのと同じ程度に現実は不可能なのである。

すなわち絶えず努力して、すぐれた熱機関や燃料電池、光電効果を利用した装置を作ることは有意義であるが、それは神仏が作ったものでないので常に不完全なものであり、たえずエネルギー源を確保してやらねばならない。

まして、人間の世の中のことは、人間の多様な欲と価値観がからみあった、一見理想的だが実は不完全なしかも不安定なシステムによって動いていくのであり、「絶対平和主義」という「夢想論」にしばられた政治家や指導者は時として、国家利益や国民の福祉を大きく損なう危険な存在ですらあることを、チャーチルやバートランド・ラッセルの言葉は教えてくれていると思う。

 チャーチルは歴史に多くを学び、若い時の失敗や成功の体験と併せて、第2次大戦において危機の英国を救った。

彼は91歳で亡くなったが、チャーチル危篤の報を聞いた多くの英国国民は、連日深夜まで彼が横たわる建物の周辺に集まったというが、日本人記者がその中の一人の幼い男の子に「チャーチルはどんな人か知っているか」と尋ねたところ、何をつまらないことを聞くのだという顔で「イギリスを救った偉い人」と答えたという。

 しかし、今の日本ではチャーチル型の危機管理や国際感覚に優れたセンスと行動力を持ったリーダーは、絶対平和主義の立場から「危険な好戦的な人物」のレッテルを貼られる可能性が非常に高い。

本小論においては、第1次大戦以後の戦争がどういう経緯をたどって起きたかを概観してみよう。

どのような独裁者や覇王も戦争することを目的として戦争をするのではない。つまるところ、国家利益の対立の行き着くところが戦争になることが多いのである。

しかも、終わってみると必ずしも勝った方が大きな利益を得ているとは限らない。

 その辺のところも併せて考察し、本当に永続的な平和と繁栄はどうすれば手に入るのかということを、探る手がかりを模索してみようと思う。

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