大戦後の機雷掃、自衛隊の機雷掃海

萌える緑に鮮やかな花の色が映え、万緑叢中紅一点の詩の一節を想わせる季節となりました。
昨年5月29日、読売新聞夕刊は金刀比羅宮の大戦後の機雷掃海殉職者追悼式が56回目を以って終りになったと報じました。

大戦末期、米軍は航空機雷約2万個を日本各地に敷設し、終戦時、瀬戸内海に約1万個の未処分の機雷が残っていました。内、7千個が航路を脅かし、昭和21年初め大阪湾付近で本四連絡船が沈没し、100人以上が亡くなりました。
各地でも機帆船の犠牲が続発しました。

海上保安庁初代長官大久保武雄氏によると、米国の機雷が国際法の”敷設後、一定の設定時間経過後は自爆や自滅装置で無害化させる”という規定に違反していた事実を隠す為、機雷に関わる全ての報道を差し止め、旧日本海軍に機雷掃海を命じました。

昭和27年、約6700個の処分が終わり、先ず安全宣言が出されるまでに79人が殉職した事実も隠され、追悼碑の建立も日本の独立回復後のことでした。

事故や暴発はその後も散発し、奇しくも掃海部隊がクウェートへ出発した日の朝、関門海峡で最後の船舶被害が発生しました。掃海作業は海上自衛隊の手で現在も継続中で、この5年間だけで18個が処分されましたが、メディアが報じないので世間は知りません。

自衛隊の海外での活躍も枝葉末節の事象をあげつらう政争の具にされ、国際法や国際政治の視点に立つ大局的議論が無く、隊員が危険を顧みず身を挺して流す汗の意義は評価されていません。

クウェートへの掃海部隊派遣を先頭に立って推進し、”現代戦は後方支援と作戦は一体不可分”と主張した政治家が、同じその口で”インド洋の給油は憲法違反”と叫んで政争に明け暮れる現状を見ると、我々父兄会が自衛隊の姿を正しく世間に知らせる必要を感じます。
湾岸戦争の際の掃海艇部隊派遣、機雷について

コメントを残す

このページの先頭へ