クリミアのロシア編入問題

クリミア自治共和国議会が3月17日、住民投票の結果を受けて、ウクライナから分離独立してロシア編入要請の決議を行い、ロシアも迅速に編入手続きの処理をしました。

 クリミア半島は1738年オスマントルコからロシア帝国が奪取して併合した地です。

 1954年フルシチョフ首相が、ロシアからウクライナに帰属を移管しましたが、ソビエト連邦内のことで、何も問題になりませんでした。

ソ連崩壊後の1991年、バルト3国を除く12箇国の連邦共和国が独立国家共同体(CIS)を構成した際に、クリミアはそのままウクライナ領となり、ロシアはクリミア奪回の機会を待っていたようですが、ロシアはソ連時代にも、同様の行動を何回もとっています。

 第1次世界大戦後、植民地や保護国を無くそうという「民族自決の原則」が米国大統領ウィルソンの14箇条で提唱され、ソ連もいくつかの保護国や地域に独立や主権を認めました。

ところが1939年8月旧保護国のフィンランドに領土変更を求め11月末に武力攻撃を加えて翌年3月30日、南東部の割譲と海軍基地貸与を認めさせました。
フィンランドと同様にロシアの支配を脱したエストニア、ラトビア、リトアニアの三国に対しても、第2次大戦初期に「バルト三国の領域内でソ連の船舶が、戦争当事国による臨検等の強力行使を受けたのは、三国の中立国の義務の怠慢である」としてソ連が自ら自国民を守るためにバルト三国に軍事力を駐留することを強要した後「バルト三国は自国の安全保障のためソ連邦への加盟を要望する」と言わせ「ソビエト連邦は加盟を受け入れる」と応じ1940年からソ連崩壊後の1990年まで三国は独立主権国家の地位を失いました。

 ポーランドが1939年9月ドイツの侵攻を受けると、ソ連も西部に侵攻占領して「第1次大戦で失われたペーラルーシの領土を回復した」と言って、第2次大戦後もポーランドに返還せず、旧ドイツの東プロシアの地を代償として与えました。

 グルジアやクリミアで、じわじわと旧ロシア領を奪い返しているかに見える、今のロシアの主張と酷似している点は、旧ソ連回復までこのような事象が反復されることを予感させるものです。

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