江田島、旧海軍兵学校の展示
昭和20年4月1日、1500隻の大艦隊を擁する米軍が沖縄に上陸して、6月22日まで沖縄県民は大きな犠牲を払いました。日本軍は九州から航空機を中心に反撃し、米軍も大苦戦を強いられましたが、海軍の出撃機の約30%が特攻機で、被弾後突入したものを併せ、海軍1019、陸軍882、計1901機が未帰還機となりました。
かつて日米英の海軍は世界のビッグスリーと呼ばれ、広島県呉沖の江田島はアナリスト、ダートマスと共に海軍兵学校所在地として世界的に有名でした。
明治21年、東京から白砂青松の江田島に移った兵学校の貴族の館風の赤レンガの生徒館、花崗岩の大講堂、ギリシャ神殿を模した白亜の教育参考館等は、連合国から返還後、海上自衛隊の幹部候補生学校と第一術科学校になりました。
参考館には東郷・ネルソン両提督の遺髪、勝海舟の書、巨匠の戦争画、戦死者の遺品等、建軍以来の歴史が納められています。
特攻関係の展示室の壁に嵌め込まれた全参加者名を刻した大理石の銘板を位牌として、献花や献水が行われています。
展示の遺書等を読むと、特攻隊員は戦争熱に浮かされたり、時代の雰囲気に酔ったのではなく、心から祖国の歴史の連続を願い、同胞や肉親の楯として身命を捧げたことが分かります。
隊員の平均年齢は、予科練19歳、兵学校と予備学生25歳で、一様に両親、特に母親に対する思慕の情を、育てられた恩を返さずに先立つ不孝を詫び、長命を祈る形で書き残し、弟妹をいとおしみ、激励しながら、父上母上を頼むと託しています。
ある16歳の隊員は、「本土に敵が来れば老境の父が銃を握り、母と姉は幼い弟妹を庇って山中を彷徨するだろう。自分の命でそれを防ぐ」と述べています。
特攻生みの親の大西中将は、「特攻は統率の外道であり、自分は永久にゆるされない」と語り、終戦の日介錯なしで自刃しました。
血書で特攻を志願した松尾敏宇大尉(中佐に2階級特進)が写真と共に母へ宛てた短詩とそれに答えた母堂の和歌に籠められた心の奥を我々もよく察する必要があると思います。
人など誰か かりそめに 命捨てむと願はばや
止むに止まれぬ 大和魂
(松尾敏宇大尉)
散るからに 母へと凛々し 写真(うつしゑ)に
汝(な)れの覚悟の 眉静かなり
(松尾大尉の母堂)
[…] 自衛隊父兄会だより […]