自衛隊の機雷掃海ー自衛隊を知らない人達について(5)

隊員の苦労を世間に知らせること

 防衛省が省になり、マスメディアの姿勢や世間の目も大きく変化し、左翼偏向した雰囲気は少なくなりました。

しかし「反自衛隊」とか「防衛を一段低く扱う」と言う風潮はメディアや市民活動家、教育界に一部にまだ根強く残っています。

日本が国の安全保障について世界の常識に沿って考えられうようになるためには、マスメディアが正確なそして公正な防衛論をするように仕向けることが大切です。

一つの事例として湾岸戦争の際の掃海艇部隊派遣に関わる話をしたいと思います。

(1)機雷と言う兵器について

 水中から船を攻撃する兵器を水雷と言います。
 魚のような形をして、自分で目標に向かって走って行くものを魚形水雷(魚雷)、水中で目標を待ち受けるものを機械水雷(機雷)と言います。

 ハイテク兵器が導入されている現代では旧式で遅れた兵器と思われがちです。
 しかし機雷は一度撒かれると、たとえ旧式機雷でも除去して安全を回復するために、長い期間にわたって一方的に脅威を押し付けられます。
この点は地雷と同じです。

(2)機雷の種類について

第二次大戦の頃までは火薬が充填された缶に角がついていて、ワイアーでそこの推進の所に仕掛けられ、通りかかった船がぶつかると爆発する、係維機雷(触発機雷)が主流でした。

最近は航路や港湾の海底に仕掛けられる、沈底機雷(感応機雷)が多用されます。

沈底機雷にはスクリューの音に感応して爆発する音響機雷、船が直上を通り過ぎる時の水圧や磁気の変化に感応して爆発する水圧機雷や磁気機雷があります。

海底で爆発する沈底機雷は船と機雷の間に沢山の海水があるから、角が付いた機雷より安全だと思うのかもしれません。

しかし爆発した火薬エネルギーは周囲の水圧で四方に拡散せず、海底で反射されて真っ直ぐに海面に向かって吹き上げてきます。

そして火薬の熱で沸騰した海水が蒸気の泡になってものすごい勢いで船底を叩きます。
これは大変な衝撃力と破壊力をもっており、爆発してから衝撃が船底達するまでに、船が前進するので船体の中央から後方がひどい被害を受けます。

船の後部には積荷や船の機関室、ボイラー、スクリュー、舵などの重要な部分が含まれているので、沈底機雷が水深80メートル以内に仕掛けられたときは恐ろしい兵器になると言われています。

(3)機雷除去の難しさについて

 係維機雷の除去は機雷をつなぎとめているワイヤーを掃海艇がカッターを水中曳航して切断し、浮き上がってきたものを爆破します。沈底機雷に対しては音を発生させるドラムや水圧を発生する舟形と磁気を発生する電䌫を曳航して爆破します。

ところが沈底機雷は撒かれてから、暫く作動しないようにタイマーが付いていて、機雷を飛行機や潜水艦、水上艦が撒いた後、一週間、時には一カ月、掃海部隊が掃海しようとしても作動しないように眠らせてあります。
しかもいろいろな時間をセットされてしまうと、長い間危険を除去できません。
 また、眠りから覚めても計数起爆装置があって最初の船ではなく2回目5回目10回目の舟がやられるというように、安全の確認が大変しにくいのです。

最近では掃海隊員が潜水して、直接手で沈底機雷に爆薬を仕掛けて爆破する「機雷掃討」を行います。

戦いの後で掃討しやすくするために撒いて一定の時間がたつと機雷が自爆するように自爆装置を付けることが国際法規で定められていますので、掃討中に自爆したり、機雷が潜水員を目標と間違えた時は、掃海隊員は木端微塵になります。

また、最近では100メートル以上の深いところに上昇機雷と言う目標を感知すると魚雷の様に海面へ向かって走り出すものがあり、感知器をワイヤーで水面近くに伸ばしており、掃海艇自身にもやられる危険性があります。

(4)安全確認の難しさ

 以上の説明で、機雷の種類そして機雷をしばらく眠らせておくタイマーのこと、掃海しにくくするため、2回目3回目の船に対して爆発する計数起爆装置などのことは理解できたと思います。

 こういうわけで、機雷除去の結果を確認して「このあたりの梅は安全です。」と宣言するためには「もう機雷はない」と掃海部隊指揮官が判断した後も、さらに高度な技量を駆使して、忍耐強く時間をかけて行う「確認掃海」という最も緊張する手順が必要です。

この確認掃海は掃海した広い海面を東西南北に引いた直線で沢山の正方形に区分して、その一つ一つについて、何度となく掃海具を曳いた掃海艇が精密に自分の航路や位置を確認しながら速力を変えたり、機会の作る磁力線や音響、水圧を変化させたりしながら走って、もう、反応する機雷がないことを確認したうえで、次第に海域全体に安全の海域を拡大していくというもので、大変な緊張と忍耐が強いられます。

何の目印もない海の上で、この作業(掃海)をすることは大変困難なであり、この確認掃海を確実にできる海軍
は世界でも少ないのです。

しかも掃海艇自身が、残っていた最後の一発で木端微塵になる危険を常に背負っており、乗員は掃海の最初から最後まで生命の危険に曝されているのです。

陸上自衛隊もカンボジアやアフリカで海上自衛隊以上の危険と悪条件に曝されながら規律厳正な精強ぶりを世界に示しましたが、若い隊員たちが派遣される場合は陸海空の別なく厳しい任務が課せられているのです。

湾岸戦争が終わった後、イラクが2500発以上埋設した機雷を欧米の海軍を中心に掃海を開始したとき、日本が参加することに対して国内では当時の社民党が「海外派兵にあたる」と反対しており、民間でも「現地の人はもちろんアジアの人たちは日本の再侵略だと言って誰も喜んでいない」と街頭で平和主義者と自称している人たちが反対運動をしていました。

結局100億ドル(当時のレートで1兆3000億円)を拠出しても海部内閣は評価されるどころか、「汚れ仕事は金で済ませ、日本人は汗ひとつかこうとしない」と批評され、クウェートの閣僚すら日本がお金を出した事実を知りませんでした。

(5)海上自衛隊の活躍について

 湾岸戦争に貢献しなかったという、厳しい国際的批判があまりに強かったので「クウェートの戦後復興事業に関わる日本の入札を遠慮するように」と当時の通商産業省が企業を指導しなければならない有様でした。

 しかし、米国や西欧から、「大量の中東原油を使うくせに中東の海域の安全にも、インド洋の安全にも貢献しようとしない」という、非常に強い怒気を含んだ国際的批判が海上自衛隊にも聞こえてきたので、掃海部隊の派遣は間違いないと判断した海上自衛隊は、政府の命令が出たら速やかに出発できるように可能な限りの準備をして待機しました。

日本の掃海部隊現地に着いたとき、機雷の約90%は米国とNATOの海軍により除去が終わっていたようですが、残りの機雷は河口に近く(水が濁って視界が悪い)しかも、沖合のタンカーのために張り巡らせたパイプラインがあって、極めて掃海しにくい区域でした。

 列国の海軍が後回しにしていたMD(MostDangerous)-7という区域で、約50個の機雷があると言われていました。

毎日早朝の最低気温35度C、最高気温50度Cで、イラク軍の油田放火の煤煙と砂漠から飛んでくる微粒子のような埃が休みなく降ってくる、炎天下の甲板上の掃海作業と、危険な水中生物のいる海中で、潜水用酸素ボンベの気泡の音や金属の装具にも感応して爆発するかも知れない機雷掃討作業に、二人ひと組となって「死ぬときは一緒」という心で、隊員たちは黙々と日本の国威をかけて頑張り、37個の機雷を処分しました。

確認掃海を終えて部隊が帰国したのは、出発してから6ヶ月後でした。

 日本の掃海部隊の活躍は、連日クウェートの新聞の1面に大きく掲載され、200億ドルの戦後復興事業の商談が、クウェートの方から積極的に持ち込まれました。

 海部首相が先に1兆300億円を出しても全く評価されなかったのに対し、掃海部隊の経費は13億円で大変な成果を上げました。

(6)「機雷清掃後のメディア対応について」

 日本の掃海部隊が帰国の途についたと知らされたとき、私は、日本の歴史や伝統にも否定的なキャスターの事を思い出しました。

 この人は、話の後に捨て台詞を言うことで有名でしたが、海上自衛隊のニュースの最初に「なだしお事件以外には日頃存在感のない海上自衛隊」という枕言葉をつけたこともあります。

 もし彼が「僅か37個の機雷を処分するために13億円もの金をかけて反対世論を無視して海外派兵を強行した海上自衛隊が帰ってくる」といった類の事実と相違する枕言葉を、掃海部隊の帰港ニュースに用いたら、当時の彼は主婦層に人気があったので、少々まずいと思いました。

 他にもモーニングショーなどで、「僅か37個…」という表現が用いられると、軍事知識が外国に比較して極端に低い日本では、掃海部隊にとって、不当な評価が定着するおそれがあり、先手を打つ必要を感じました。

 私は陸軍の偕行社の海軍版ともいうべき、水交会で当時健在だった旧海軍の経験者の方々を伺ったところ

「日本が一足遅れて行ったときから気になっていた。

例えば広い座敷に大量に撒かれた豆を拾い集めるとき、初めは楽に拾えるが、終わりになるほど見つけにくくなって、最後の一粒を拾うのは大変なのと同じで1000個の機雷の最後の1個が大変だ。

しかも見落とした最後の1個で犠牲が出たら、掃海関係者はどんな避難を浴びても一言もない。

確認掃海の困難さについて十分アピールすることが大切だ。」
ということでした。

 この話と併せて私の考えを海幕の掃海の専門家に伝えたところ、出版社系の週刊誌に2ページほど、素人にもよくわかるように要領よくまとめた、やわらかな調子の文章が、海上幕僚監部広報により掲載されました。

その1週間後に掃海部隊が帰国しましたが、捨てぜりふじみた批判など一切なく、逆にクウェートの新聞の掃海部隊についての大きな報道ぶりや200億ドルの商談の件などプラスの部分が新聞に掲載されました。

 明らかに出かける時と帰国した後の世論に大きな違いが見られました。
自衛隊の活動の実態や成果を日本人全般が正確に認識すれば、世論は自然に好ましい方に変わることだと思います。

 ただ残念なことは、反対の世論を気にしたのか掃海部隊の出発のとき、危険で困難な任務に出発する部下を最高指揮官たる人が、外相に参加させればよい「子供サミット」への参加を理由として、また当時の防衛庁長官が多忙を理由として、横須賀に見送りに来ず、中曽根元首相だけが見送りに来たという寂しい現実があったことです。

 しかし、このあと防衛庁長官が各地の陸海空の部隊を巡視した際、先々で幹部自衛官がこのことを指摘し、長官も深く反省したということで、以降は改められたようです。

※今月でシリーズ「自衛隊を知らない人たちについて」は終了致します。

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