ユダヤ人脱出を助けた樋口季一郎中将

日差しがないと肌寒い昨今、お元気にお過ごしですか。

1929年秋の米国の株価大暴落を機に約4年間続いた大恐慌は、最近の経済情勢と似ています。
当時、西欧の植民地大国は植民地を自国の資源供給地や工業製品の市場に利用し、他国を排除するブロック経済で対応しました。

その為、植民地の乏しい諸国は困窮して、日本は満州の権益独占、ドイツは近隣諸国の領域併合、イタリアはエチオピアの併合に向かいました。

この歴史の流れの中でユダヤ人を憎悪するヒットラーが1933年に権力を握り、激しいユダヤ排斥を始めました。

1939年9月に第二次大戦が始まると乳幼児や女性、老人も無差別に計画的な大虐殺を行いました。
1938年3月8日、零下30度の寒気が残るソ満国境の吹雪の中で、シベリア経由貨車で逃れてきたユダヤ人2万人が立ち往生し、生命の危険に曝されました。

当時のハルピン特務機関長樋口季一郎少将は、ポーランド駐在武官当時、ナチスに疑問を抱いていたので関東軍と在満日本人組織の機能を挙げて救援に努め、凍死者10数人を除くユダヤ人を日本経由で米国へ亡命させました。

日独防共協定を理由にドイツの抗議がありましたが、樋口少将に罰はなく、査問だけで済みました。
この時から2年後の1940年7月27日、シベリア経由極東から米国へ逃れる残された唯一のルートの在リトアニア日本領事館のビザを求めて、夥しいユダヤ難民が押しかけました。

日独伊三国同盟協定調印を9月に控え、日本外務省は拒否を指示しましたが、8月3日のソ連のリトアニア併合による領事館閉鎖までの28日間に、杉原千畝領事代理は食事時間も犠牲にして6千人のビザを手書きで発給して脱出を助けました。

イスラエルの恩人顕彰碑ゴールデンブックに樋口季一郎中将と部下の安江大佐、杉原千畝領事代理の名も刻まれています。
現在の経済危機は植民地大国が無くなり、国際協調も進んでいるので、戦争やユダヤの悲劇のようなことは繰り返されないと思います。

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