自国の歴史を正しく伝えない戦後日本の教育の偏り

猛暑の日も、過ぎれば懐かしく感ずる昨今です。
8月25日夜の日本テレビで「霧の日」と言うドラマが放映されました。

昭和20年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送を以って、一部命令が遅れた地域を除き、日本は戦闘行為を停止し軍使が武装解除、在留邦人の帰国、軍の復員等の交渉を始め、米軍の日本本土空襲も止みました。

しかしソ連軍は、各部隊個別の停戦協定締結までは戦闘継続中であるとして、各地で8月末まで武力行使を続け、市民に対しても容赦なく無差別攻撃を加え、財貨の略奪も続けました。満州では中国に帰属すべき約20億ドルの資産が戦利品として持ち去られました。

南樺太では8月15日に戦争が終わったと思い、北海道へ引き上げる動きが慌しくなり、真岡郵便局は10代~20代の女性電話交換手9人を含む職員に職場に残ることを要請しました。

樺太の日ソ国境を正面突破して、南樺太を一気に制圧しようとしたソ連軍は大損害を受けて失敗しました。その際、約2千人の一般市民を無差別に殺傷した事実が満州の事例と共に真岡に伝えられ、若い交換手達は、祖国に尽くす女性を讃える歌「愛国の花」を斉唱し、自決用の青酸カリ等を持って職務につきました。

8月20日、正面突破に失敗したソ連軍は海路から真岡に武力侵攻して来ましたが、交換手9人が「日本の皆さんさようなら」と訣れの言葉を残して自決しました。

偶然その時代に生まれ合わせた罪のない誠実に生きた善意の人達が、終戦の5日後に真岡周辺で砲火を浴び、2千人以上が亡くなりました。

稚内の丘の上の電話交換手の記念館と、その死を悼む昭和天皇と香淳皇后の歌碑を訪れた時、終戦時13、4歳だった女性観光客達が8月”20”日の日付を見て、『あと1週間もすれば終戦だったのにね』と語らう様子に、自国の歴史を正しく伝えない戦後日本の教育の偏りと歪を感じました。

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