自国の歴史や文化に誇りも愛着心もない人がどうして、世のためにまともな役割を果たせるでしょうか。

今年の1月16日、小倉遊亀さんらと共に大戦後の日本の女流画家として画壇を担い、美術教育にも大きな足跡を残した片岡球子女史が亡くなりました。

昭和24年に逝去した上村松園女史と入れかわるように昭和27年「美術部にて」で美術院賞・大観賞を受賞され、画家の地位を固めました。

松園女史が美しい色彩と手堅い技法の美人画に徹し25歳で「花盛り」により地位を築き、後に女性初の文化勲章を受章されたのに対し、球子女史は女子美術専門学校(現・女子美大)卒業後も長く独自の画風が認められず、展覧会は落選続きで、落選の神様とかゲテモノ絵描きと言われ、30年間小学校教師を勤めて頑張りました。

60歳頃から力強く色彩豊かに戦国武将や浮世絵師の肖像画連作「面構」の制作、季節に拘泥せず咲き乱れる花や林を前景に、青色を背景に画面から迫る赤富士や、朱色を背景に画面の奥に聳える青富士等、富士山連作の制作を行いました。

文化勲章を受章された後も後進を指導し、百歳を過ぎて尚、画壇のために働き、103歳で世を去りました。

少々話を転じますが、旧海軍は戦後も機雷掃海や復員輸送、朝鮮戦争の海上輸送・掃海等に協力し、その組織は自衛隊に継承されました。

海軍当時の各教育課程の期や入隊年次も海自の人事に引き継がれ、帝国海軍と自衛隊の歴史は実質的に継承しています。

私が接した旧海軍の人達の多くは美しいものを愛で、文学を語り、音楽を楽しみ、世の動きを論ずる人間の幅や奥行きと余裕の心がありました。

一部に上の権威に詭く、装備の部品名と規格の数値を暗記することを理工学と認識して理論に興味を持たず、芸術や文系の学は術科に無関係と軽んずる人がいたことは事実ですが、井上大将は弦楽器と英語に長じ、米内大将は部下の短歌の係結びを黙って直し、にやっとしたそうです。

私の上司に油絵に秀でた人もいました。自国の歴史や文化に誇りも愛着心もない人がどうして、世のためにまともな役割を果たせるでしょうか。

平山郁夫画伯によると、壮麗な歴史画などの美しい日本画で著名な安田靫彦画伯は東京美術学校(現・芸大)で昭和22年春の新入生を励まして、次のような言葉を贈ったそうです。

日本は戦争に敗れたが、文化では敗れなかった。飛鳥時代以来、千数百年の歴史を持つ文化は戦争に敗れようと焼野原になろうと興きたり滅びたりするほど詭くはない
安田靫彦 (昭22春)

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